「クリステラお嬢さま」
侍女のアルマの声がして、扉が開いた。
もう起き上がれるようになったというのに、ベッドに縛りつけられているクリステラは、馴染みの話し相手が戻ってきたことを素直に嬉しく思った。身を起こし、アルマが手にしている銀色の美しい盆に目を注ぐ。
「お茶を持ってきてくれたの? ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの」
「そう思ってお持ちしました」
アルマも嬉しそうに答えた。
数日前──スープを口にした瞬間、みるみる青ざめたかと思うと息もできないというように倒れこみ、吐血までして意識不明だったクリステラが、こうしていつもの元気そうな姿を見せてくれることが嬉しかったのだ。
普段から儚げな主であるため、あのときはそのまま息絶えてしまったかと思い、アルマは一瞬のうちに絶望のどん底に叩き落された。『どうなさったのですか! しっかりなさってください、お嬢さま!』と泣きわくようにしてクリステラの体を揺さぶりながら、すぐには助けを呼びに行くことも思いつかなかった。たまたま敷地内を見回っていた副院長が、その泣き声で異変を感じて部屋まで入ってきてくれたから良かったものの、自分ひとりだったらどうなっていたことか……。
自分より賢く、しっかり者の侍女エリージエがいれば、彼女が素早く助けを呼びに行ったに違いないのだが。あいにくと、エリージエはその少し前に『里下がり』してしまっていた。実家の母親の具合が良くないとの知らせを聞き、見舞いのために戻ったのだ。
だからアルマは、クリステラの看病にひとりで当たった。
最初はクリステラの呼吸が荒く、その唇が青紫色なのを見て、このまま死ぬのではないかと恐怖に駆られていたが、どこからともなく現れて治療に当たってくれた医師たちは実に優秀で、てきぱきとクリステラの熱を測り、投薬し、脈をみてくれた。その効果あってだろう、クリステラはみるみる元の顔色を取り戻した。真っ白な雪の中に紅の花びらが一枚落ちている、そんな情景を思わせる白く美しい顔で、いつものようにあるかなしかの笑みを唇に浮かべてくれた。
あのときの天にも昇るような心地といったら!
まるで天女に微笑まれたかと思ったほどだった。そのくらい、アルマにとってクリステラの存在は大きい。
──アルマの母は公爵家の使用人で、洗濯婦だった。身分は低かったが、エトヴィシュ公爵家の邸には百を越える部屋があってまるで城かと見まごうほどで、そのためアルマの母とアルマは屋根裏とはいえ、邸の中に部屋をもらって生活していた。
その『お城』に住んでいることが誇らしく、広大な庭は隅から隅まで走り回ればまるで自分の庭のようで、アルマは物心つくまでは、自分が使用人だということを特に意識せずに育った。エトヴィシュ公爵は厳格な人だったが、けして無慈悲ではなかったし、どちらかといえば邸の使用人には寛大なほうで、そのこともあってアルマは窮屈な思いをせずにすんだのだった。
けれども公爵令嬢であるクリステラは、アルマとは年が近いといっても、近づける存在ではなかった。クリステラは、十近くなるまで自由に庭に出ることも許されなかったらしい。公爵は自分の娘クリステラを、それは大事な宝物として、人目につかないように育てたのだ。しかしそれは賢明な判断だったというべきだろう。もし小さなころから庭をうろつき歩いていたら、邸を訪れた客人たちに、公爵の娘は驚くほど美しい子だと分かってしまい、あっというまに人の噂になっただろうからだ。
クリステラとアルマが出会ったのは、十三になるかならないかのころだった。
そのころになってようやく、クリステラは、客人が入れない内庭などには出ても良いことになっていた。ふたりはそこで出会ったのだ。
アルマはクリステラの姿を遠くから見かけたことはあったが、そんなふうに近くで話す機会などなかったのですっかり舞い上がってしまい、まともに口もきけなかった。けれどクリステラはそんなアルマに優しく微笑みかけ、あどけなくも美しい声で、『邸の中で何か面白いことが起こっていたら、教えてくださらない? わたし、退屈しているの』と話しかけてきた。
それから、あっというまにふたりは仲良くなった。
雲の上の公爵令嬢でありながら、身分の違いを気にせず気さくに接してくれるクリステラを、どうして好きにならないわけがあるだろう? またクリステラのほうも、同じ年頃の子供と遊んだ経験がなく、アルマと過ごす時間が楽しくて仕方がなかったようだ。
内庭で落ち合っては、他愛ないお喋りに興じる日々が続いた。
思えば夢のような時間だった。あるときなどは、クリステラの部屋にふたりしてこっそりと忍び込み、そのびっくりするほど大きくて素晴らしいベッドの上で一緒に飛び跳ね、はしゃぐ、などということも経験したが、今思うと信じられないできごとだった。あれは。
けれどもそんな楽しい時間は、家人に見つかり、こっぴどく叱られて終わってしまった。
アルマは身分も弁えず、公爵令嬢を振り回したとして三日間夕食抜きの罰を与えられた。食べ盛りの年頃にはきついお仕置きで、夜になるとあまりの空腹で寝つけず、ベッドの中でしくしくと泣いてしまったほどだ。けれども二日目の夜、どうしてやって来たものかクリステラが足音を忍ばせ屋根裏に上がってきて、包みをほどいて焼いたケーキとクッキーを持ってきてくれた。『わたしのせいでごめんなさい』とクリステラが泣きながら言い、アルマは、そんなクリステラの勇気と優しさに驚き、感激して泣いた。
そうしていつしか固い友情で結ばれるようになったクリステラとアルマは、家人に気づかれないようにその友誼を保ちつつ数年を過ごした。そしてクリステラは十七になったとき、父である公爵に、アルマを自分付きの侍女にしてほしいと訴え出たのだった。
当然公爵は『使用人を侍女にするなど、そんな話は聞いたこともない。侍女というのはそれなりの家柄の、おまえが行儀作法を学べるような貴婦人がなるものだ。人聞きの悪いことを言うのはやめなさい』とクリステラを叱りつけたが、クリステラもなかなかに頑固で、この件に関しては一歩も譲らない。『お父さま、お願い』と瞳を潤ませる愛娘の要求に対して、公爵は最終的には折れるしかなく、こうしてアルマは晴れてクリステラの侍女となったのだった。
もちろんそれはアルマ自身も望んでいたことだったが、無理だろうと思っていたので、口に出したことはなかった。だからクリステラが『今日からあなたはわたしの侍女になるのよ』と言ったときは夢見心地だった。
そして思うのだ。もし反対の立場だったら、自分はクリステラのように、使用人に優しくできただろうかと──。
きっと無理だったろうと、そうアルマは思う。自分は野暮で気がきかないところがあるから、まあそれは半分は生まれのせいだとしても、もし公爵家の娘に生まれていたら、自分のことしか考えられなかっただろうと思う。自分がおいしいものを食べ、自分が着飾り、晩餐会や舞踏会に出かける。それで満足して、使用人など空気のように思い、いて当たり前、そう思って省みることはなかったに違いない。
だからクリステラを尊敬せずにいられないのだ。
自分を侍女としてからも、クリステラはごくたまに文句を言ったりすねたりはするが、見下したり、ぞんざいに扱ったりすることは一度もなかった。それがアルマには嬉しく、ありがたいのだった。この世にうちのクリステラお嬢さまより素晴らしい人がいようか。いや、いはしない。クリステラお嬢さまこそ王都一美しく、王都一優しく、王都一──いや、この王国一の気高い方だ。アルマは心底、そう信じていた。
それが、国王からの求婚という事態に直面し、クリステラが悩みに悩んだ果てにそれを断ったときに、すべて崩れるとは思ってもみなかったが──。
あのとき王都中の貴族たちがクリステラを非難した。『貴族の務めを忘れた公爵令嬢』と。
父である公爵は国王ジグモンドの強い叱責を受け、職を辞さねばならなくなり、宮廷を追われた。公爵自身の言葉で言うなら『こちらから願い下げだった』ということだが、クリステラは精神的に追い詰められた。最後は修道院に駆け込むしかなかったが、それはもうどうしようもないことだったのだ。そのくらいあのときのクリステラは憔悴し、疲れ果てていた。
周囲の非難にクリステラは傷ついた。けれども、無理に結婚をしたとしても、相手を心から愛することはできないだろうと彼女は思った。えり好みをする自分の浅ましさに落胆し、そして、この話を断れば相手は深く傷つくだろうと考えて傷ついた。彼女は何重にも傷ついていた。
けれども誰が彼女を、クリステラを責められるだろう? まだ恋も知らないクリステラには、『結婚』という名の現実はあまりに性急なものだった。恋愛とは言えないまでも、密かに心を寄せるような人と、時間をかけていつか結ばれたいと夢見ていた。それだけだったのに──。
「──そういえば、アルマ」
優雅な形のカップを手にしたクリステラが、ふと思い出したように目を上げた。
「わたし、あなたに話しておくことがあるのだったわ」
「……なんでございましょう? クリステラお嬢さま」
アルマは、ベッドの上のクリステラを、傍らの椅子に座って見つめた。その手にはクリステラが手にしているのと同じカップがある。中で、芳香を放つ琥珀色の液体がゆったりと揺れていた。
「わたしね。お父さまの仰るとおり、今度の求婚話をお受けすることにしたの」
「………」
アルマは何も言わなかった。
薄々、クリステラがここ数日、何かの覚悟を決めていることに気がついていた。公爵家から家人が来て、離れの特別棟に置いていた家財を持ち帰ったと聞かされても、クリステラは動揺しなかったからだ。
「今度の求婚は、わたしがこの修道院に入ってから即位なさった国王陛下でね」
クリステラは静かに話し始めた。
「お名前も存じ上げないし、わたしは社交界に出たことがないからお顔も分からないのだけれど、そんなことはどうでもいいの。わたし、きっと前は逃げてしまったのだと思うわ。自分の義務から。義務というものがなんなのか分からなくて、それで……怖かったの」
クリステラはカップに軽く口をつけた。そして小さく吐息をつく。
「だって結婚って、人生の中で一番重要なものでしょう? それなのに、自分の意志とは関係なく決められてしまうことが、わたしには耐えられなかったの。皆、そうしているのだって分かっていたのに、自分だけは違うふうに生きていけるんじゃないかって漠然と思っていたのよ」
クリステラはアルマを見つめて、微笑む。
「子供だったのね。きっと」
「そんなことはありませんわ」
アルマは目頭が熱くなるのを感じながら首を振った。
「お嬢さまは、一生懸命にご自分の頭で考えられて、ご自分の力で答えを出そうとなさったのです。立派なことだったと思いますわ。それが批判されるなら、きっと、そんな世の中のほうが間違っているんですわ」
「ええ。でもね、アルマ。人はひとりで生きているのではないわ」
クリステラはカップを両手で包み込み、そっと膝の上におろす。
「わたし、自分の気持ちばかり考えていた。お父さまはご自分が宮廷に戻るために、わたしに新しい結婚話を持ってきたのだと考えたりね。──いえ、本気ではないのよ? でもそんなことを思ってしまうくらい、わたし、拗ねていたの。だって、本当に修道女になろうと思っていたんですもの。だからここを出て行かされることが嫌だったの」
「はい……」
アルマは小さく頷いた。
クリステラが修道院という場所を好んでいたことを、よく分かっている。修道女としての活動はほとんどできなかったが、それでも、外の世界と関係を断ち切り、静かに神に祈りを捧げる生活にクリステラは心からの安らぎを見出していた。
「でも、ふいに気づいたの。わたし以上に、苦しみ、悩んでいたのはお父さまだったって」
「公爵さま……」
「わたしは世間に非難されたといっても、それはお父さまという大きな盾の後ろでのことよ。でも正面からそれを受けられたお父さまは、どんなにお辛かったことでしょう……。宮廷を去らなければならないということがどんなことかわたしには良く分からないけれど、きっと断腸の思いだったに違いないわ。でもお父さまは、最後には、わたしのためにすべてを諦められたのよ」
クリステラはじわりと目に涙を浮かべる。
「それを思うと、わたし、とても申し訳ないと思うの。今になってお父さまの辛さ、悲しさがわたしの胸に迫るのよ。どうして今までそれを考えずに過ごしてきたのだろうと疑問に思うほどなの。あのときわたしは修道院に入ることしか考えていなかったけれど、それは半分、お父さまへの当てつけでもあったのよ。──いいえ、わたしは、この世界に対して当てつけをしたのだわ。なぜ思うようにさせてくれないのかと、頑固に、傲慢に、神をも恐れず当てつけをしたのだわ」
アルマはクリステラの言葉に、ただ言葉もなく聞き入っていた。
いつも日常の楽しい話を好み、自分の心のうちなど滅多に明かさないクリステラが、ここまで率直に心情を吐露するとは思わなかった。けれどもそれは、クリステラの心境の変化なのだろうとアルマは思った。自分を取り巻く運命に逆らうのではなく、流れに沿うことを心に決めたクリステラは、今、変わろうとしているのだ。
折れるのではなく、しなやかに自分の心を曲げて、思うようにならない世界に寄り添おうとしているのだ。
「人の気持ちなど考えたくなかった。わたしはわたしの心だけで精一杯だったの。でも、とある方が言ってくださったのよ。自分の気持ちを大切にするのは、ちっとも悪いことではないと。そう言われてわたし、赦されたと、なんだかふっとそう思ったの……」
クリステラは涙を浮かべた目で、アルマにふわりと微笑んでみせた。
「楽になったわ。とても。そうしたらこだわりもいらなくなったのよ。……不思議でしょう? 前はあんなに嫌だったのに、今は、これも自分の運命だと自然に受け入れることができるのよ。……わたしも少しは大人になったのかしら。ね、どう思う? アルマ」
「お嬢さまが子供でも大人でも、どちらだって構いませんわ」
アルマはクリステラを見つめ返し、もらい泣きのように涙を浮かべて頷いた。
「何があろうと、いつだって、あなたはわたしの大切なお方。それだけです」
それを聞いてクリステラは月光のような微笑みを浮かべた。
「お城へ上がるときには、あなたもついてきてくれるわね? アルマ」
「もちろんです、クリステラお嬢さま」
アルマは言いながら、涙を頬に伝わせた。
公爵から『クリステラを王妃にする』と言われたとき、あまりの嬉しさ、誇らしさに眩暈を覚えたものだ。王妃。それこそクリステラに相応しい称号だ。そう思うと同時に、自分は侍女として当然ついていけるだろうと信じて疑わなかった。けれど今は、どうしてそんなにも傲慢になれたのだろうと自らを恥ずかしく思う。
たしかに公爵もそれらしいことを仄めかした。『そうなればおまえは王妃づきの侍女だ』と。それですっかり舞いあがってしまったのだが、それは自分を通してクリステラを説得し、その気にさせようという公爵の計算ではないか。苦しい親心といえばそれまでだが、そうした策略にまんまと乗せられかけていたことがアルマは恥ずかしかった。
そうではない。
偽りのない誠実さだけが、クリステラのそばには必要なものなのだ。
この美しく、美しさと同じだけ純粋で高潔な人には。
「お許しくださるなら、一生おそばでお仕えいたします」
「……まあ、アルマ。あなたがそんなに畏まるなんて!」
クリステラは驚いたように言い、笑った。その彼女の目にも大粒の涙が光っていた。それからクリステラとアルマはふたりで手を握り合い、この先どんな困難があっても力を合わせて乗り越えていこうと、そう誓ったのだった。
王妃になれば、それを断ったときよりも遥かに多くの困難が待ち構えていることだろう。人に非難されることも、傷つくことも日常茶飯事になるに違いない。それでも優雅に、何ごともなかったように微笑んでいなければならないのだ。そしてアルマは、自分の主クリステラならば、それをやってのけるだろうと今こそ信じることができた。それこそが何よりも誇らしいことなのだ。自分が王妃づきの侍女になる──ということなどでは、けしてなく!