地下牢の夜は底冷えした。
ずっと光の当たらない場所では、天井も壁も床も、なんの熱も持たなかった。それどころか長年闇に冷やされ続けたそれらは、目に見えないけれど冷気さえ発しているように思えるほどだ。特に修道服の裾の下に感じる敷石の冷たさは、神経に触るほどじんとする。フィアは若い憲兵──ジョルトと呼ばれていた──が持ってきてくれた毛布を体にまきつけ、その中に震える体を必死で押し込めた。
それでも眠気は押し寄せてくる。壁に頭をもたれさせ、フィアはうつらうつらとした。だが慣れない場所であるせいか、なかなか深い眠りに入れない。階段に靴音が響くたび、びくりとして目が覚めてしまう。
今もそうだった。
どこか遠くから、かすかに人の声が聞こえてくる。
夢見心地に(なんだろう)と思っていると、その声は次第に大きくなり、気づけば罵り声のようなものに変わっていた。そのころには声を取り巻く靴音がダダダと聞こえるようになっている。──どうやら何人かがこちらへ向かっているようだ。
ほどなく牢内にカッと、真っ赤な炎のような明かりが差し込んできた。さすがに何ごとかと、フィアは眩しさに顔をかばいながら身を起こした。まだ眠気の残る目をこすって鉄格子のほうに行き、それを片手で掴む。
恐る恐る外をのぞき見ると、石階段を三人の憲兵が、ぐったりした男を引きずってやって来るのが見えた。憲兵の固い靴底が床を蹴るたび、地下牢の空気が緊張に震える。フィアも胃が痛くなるような感覚を覚えた。
(囚人……? なのかな)
引きずられている男は体格の良い男だった。立ち上がればかなりの長身だろうと思える。しかし今は自力では立てないのか、憲兵のするがままに任せていた。憲兵たちは「重てぇな」とぶつぶつ文句を言いながら息を荒くして男を引きずり続け、ついにフィアの目の前までやって来た。
血の臭いが一瞬、つんと鼻先に漂った。
フィアははっとして、掴んでいた鉄格子を離してしまった。恐れからの反射的な行動だった。するとその動きが憲兵のひとりの目に留まったらしい。何か気に障ったのか、「下がっとれ!」と甲高い声で怒鳴られる。
はい、という言葉はかすれて声にならなかった。フィアは息を呑んで後ろに下がる。
そのあいだに囚人らしき男は引きずられ続け、フィアの視界から見えなくなった。
どうやら右奥の牢に入れられるようだ。
どんな人だったのかは、突然の血の臭いと、何より叱られたことに気を取られて見ることができなかったが、見たからといって何がどうなるわけでもない。ただなんとなく、自分以外にもこの牢に入れられる人がいるのだということがフィアの気に掛かった。他に人がいる気配が、今までまったくしなかったせいもある。
(怪我してるみたいだったけど、大丈夫かしら。あの人……)
容姿は分からないが、獣のような雰囲気を漂わせている人だったと思った。なんだか怖そうな人だけれど、いったい何がどうなって、この憲兵隊本部の地下牢に収容されることになったのだろうとフィアは訝しく思う。──まさか自分と同じく、無実というわけではないだろうし。
「──そこでおとなしくしてるんだな!」
フィアの耳に、勝利宣言のような声が聞こえてきた。右奥からだ。
「一時は栄華を極めた身だというのに、実に惨めな最期だな、ん? ──なんだ、その目は。まさか死ぬまで逃げおおせると思ったわけではあるまいなあ。我らが隊長殿はけして獲物を逃がさんことで知られたお方だ。その牙に食いつかれたからには、貴様とてもはや逃げられんぞ。まあ、その体で牢破りなどできまいが……」
くっくっと、押し殺した声で笑うような音が聞こえた。
「いいざまだ。さすがのおまえも一巻の終わりだな、ガーラント=オルベニウス!」
──ガーラント。
その名が、フィアの記憶の中でふっと瞬いた。存在を主張するように。
けれども、どこで会った人なのか思い出せない。どんな人だったかも。
(でも、わたしはたぶん、この人を知っている)
そんな気が強くした。フィアは急に強い胸騒ぎを感じた。
不吉な予感がみるみる膨れ上がっていく。こんなことは初めてだった。けれどそれだけ重要なことなのだ。きっとそうだ。その確信だけはあるものの、いくら考えてもフィアは思い出すことができなかった。
「……それはどうかな?」
低い声が、面白がるように牢内に響いた。体力が低下しているとは思えない声だった。
「たしかにソルヌーンは無能じゃない。それは認めよう。一年以上も俺を追い続け、ついに見つけてとっ捕まえたんだからな。そのしつこさには感嘆するばかりだ。だが他はざっと見たところ、ぼんくらの寄せ集まり……。その最たるものが副隊長のおまえだ。ハヴェル」
嘲笑うような声のあとに、続く声はなかった。
しんと、張り詰めたような沈黙だけがある。何が起こっているのかフィアのところからは見えないが、憲兵たちが息を殺している気配がする。何かが今にも破裂しそうな雰囲気だった。
「……ふん。どれだけ咆えてみたところで、所詮貴様は牢の中だ。好きなだけ言うがいい」
やがて、淡々と聞こえるよう、苦心して取り繕ったような声が響いた。
「ほー。昔よりは忍耐を身につけたようだな? 親衛隊にいるときにはつまらんことで切れては俺の手を煩わせてくれていたが、ここの退屈極まりない牢番の仕事はおまえに我慢の美徳を教えてくれたらしい。良かったな、ハヴェル」
「──黙れぇっ!! 黙らんか!!」
歯軋りにも似た一喝が響き渡った。
「貴様の妄言に付き合っている暇はない。──おい、行くぞ! 上に戻る!!」
「しかし副隊長殿、見張りを必ずつけろと隊長殿が……」
「おまえの目には鉄格子が見えんのか? この馬鹿者が! ──こんなものは放っておけ。明日にでも処刑台に上らされるのが恐ろしくて、あることないこと垂れ流すだけが残された生き甲斐の哀れな男だ。いちいち相手にするに及ばん!」
「で、では……」
「おまえたちは上に待機していろ。出口を押さえておけば問題はない」
「は……」
「先に行け。わたしは後で行く。この男に一言、言ってやることがある」
「分かりました。では──」
憲兵のふたりが足早にフィアの前を通り過ぎ、左奥の階段を駆け上っていく。階段があるのはそこだけで、ガーラントと呼ばれた囚人が連れて行かれた右奥にあるのは行き止まりの壁だ。
憲兵たちがフィアのほうを見なかったのは幸いだった。フィアはガーラントという名前が何を意味するものなのかを必死で思い出そうとしており、そのために、叱られたのも忘れて再び鉄格子の手前まで出てきてしまっていたからだ。
せめて、ひと目なりとも姿を見ることができれば、思い出せるのに──。
けれども鉄格子に額をくっつけたり、頬をくっつけたりして頑張ってみても、向こうの牢の中はまったく見えない。見えるのは薄暗い牢の前に立っている、ひとり残った憲兵の姿だけだ。
憲兵は壁際に転がっていた鉄の棒を拾い上げると、もう片方の手に掲げ持った松明の明かりに歪んだ顔を照らし出させた。そこに滲んでいたのは怒りと、押さえ難い憎しみの表情だった。
「わたしを侮辱するな──」
押し殺した声で憲兵が言い、鉄の棒を振り上げた。
「おまえはもうわたしの上官ではない。わたしの囚人だ。偉そうな態度を取ると承知せんぞ!!」
叫びながら、憲兵が鉄の棒を鉄格子に叩きつけた。
フィアは一瞬、鉄格子が折れるのではないかと思ったが、けれどもそれはびくともしなかった。曲がったようにも見えない。まっすぐに屹立して、中の薄暗がりを皮肉に守り続けている。
「親衛隊を辞めさせられても、憲兵隊が拾ってくれるとはな」
けれども皮肉はいっこうにやまない。
「貴族に生まれて良かったなあ? 平民だったら、今ごろおまえもこの中にいたろうぜ。何しろ城下の酒場で酔って暴れて、無関係の客を四人も殺しちまったんだからなー。それでもお咎めなしってのは、お貴族さまの特権だよな」
「うるさい──うるさいぃぃぃ!!」
狂気のようなわめき声が牢内に響き渡った。同時に、鉄格子を乱打する音がした。
「国王殺しの大罪を犯した貴様の言うことかぁっ!! それに比べればわたしの罪など罪ではない。死んだのは皆、乞食同然の汚らしい平民だったんだからなあ!!」
「おーお、言うねえ。それじゃ、俺が小汚いオッサンをひとり殺したのも大目に見てくれりゃいいのに。おまえは無関係の人間を斬って、俺は自分に関係のある、生きてられちゃ迷惑な人間を斬ったんだからな。俺のほうがちゃんとした理由があるじゃねえか」
「国王ひとりの命が、平民四人の命よりも軽いというのか? 貴様はとんでもない馬鹿者だ!!」
「そうかい? ……悪いがな、俺にとっちゃどうでもいい人間の命なんて軽いもんなのよ。紙切れより軽いぜ」
「貴様は狂っとるんだ。ガーラント=オルベニウス。狂っとる……!」
「俺とおまえに、さほどの違いがあるようには見え……ゲホッ……──」
楽しげに紡がれた言葉は、急に咳き込んだ音で途切れてしまった。
しばらくすると、咳は苦しげな息の音に変わった。そしてさっきより弱々しい笑い声が響く。
「どうせ牢に入れるなら、拷問する必要はなかったろうが? おまえンとこの隊長はサド野郎だぜ──ったく」
「朝日が昇るのを楽しみに待つんだな」
憲兵の声が冷たさを帯びて響く。
「それが貴様が拝む最後の太陽だ」
「窓がなけりゃ見えんな……」
「心配せずとも、そのときには地上にいる。処刑台の上にな」
憲兵が吐き捨てるように言い、踵を返す。
カッカッと、怒りを押し込めた靴音が近づいてきた。
そしてフィアの牢の前で、憲兵はぴたりと足を止める。
「……何を見とる? 下がれと、さっき言ったはずだぞ」
フィアを見下ろした顔が、びくりとするほど冷たかった。
「あ、すみませ……──」
青ざめて謝りかけたフィアの肩へ、上から憲兵が靴を振り下ろした。
「──ッ!!」
予期しなかった動作は、悲鳴を上げるのを忘れるほどの激痛をもたらす。フィアはひくっと息をのみこみ、肩に指先を伸ばした。けれどもそこは靴で踏みにじられ、指を置く場所もない。
「あ──……うっ」
「貧乏人が、浅ましい好奇心など持ちおって」
忌々しそうに呟くと、憲兵はフィアの胸の中央を蹴って後ろに蹴り飛ばした。
蹴られた場所が悪かったのだろう。肺が一瞬潰れるような心地がし、直後、息ができなくなる。吸うことも吐くこともできずに床の上で震えながら、フィアは自分の胸を無意識のうちに必死で叩いていた。
そのうちに肺が元に戻ったらしい。ようやくひゅうっと呼吸が戻る。
けれど起き上がることはできなかった。乱れた息がなかなか元に戻らない。冷たい床に頬をつけ、ぜえぜえと喉から音をさせていると、その様子を見て憲兵は溜飲を下げたようだ。せいせいしたというように、鼻から荒い息を吐いてその場から立ち去っていった。
「──嬢ちゃん。嬢ちゃん!」
横たわったまま起き上がれずにいるフィアの耳に、右奥から切羽つまった聞こえた。
さきほどまでは人を小馬鹿にしたようだったのが、真剣そのものの声になっている。
「大丈夫か? ──生きてるか?」
「だい、じょうぶ……です」
フィアはやっとのことで言うと、軽く咳き込みながら身を起こした。後ろに落ちてしまった毛布を再び体に巻きつけ、声のするほうの壁ににじり寄る。そしてその壁に頭を預け、ぐったりとなりながら口を開いた。
「あの……」
かすれた声は、しかし、いくつか牢を挟んで向こうにいる男には聞こえなかったようだ。
「なんだって? ……すまん、よく聞こえんが」
いくぶん、申し訳なさそうな声になっている。
「俺への八つ当たりに巻き込まれたようだ。……すまなかった」
「あなたのせいじゃ、ありません。わたしが……」
フィアは息を吸い込み、さっきよりも大きな声になるよう努力して言った。
「わたしが、のぞき見ていたからいけないんです。気にしないで、ください」
「……そうか」
男は、息を呑むようにしてそう答え、それきり黙った。
向こうにしてみれば囚人どうし、茶飲み友達ではないのだし、気になることはありつつもそれ以上会話を続ける必要性を感じなかったのだろう。しかしフィアのほうはそうではなかった。
「あの……」
「……ん、何か言ったか?」
「はい」
「なんだ?」
「ちょっとお尋ねしたいことが……あるんです」
「俺にか?」
「はい……」
──牢の中、壁越しの、互いに姿の見えない奇妙な会話はそうして始まった。