KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第四章 獄中の乙女心 13

フィアにはもう、相手の男の素性が分かっていた。
ガーラント=オルベニウス。
親衛隊、と彼は自ら口にした。
そしてあの憲兵が言ったのだ。『国王殺しの大罪を犯した』──と。
「わたし、あなたにお会いしたことがあると思います」
フィアが思いきって言うと、しばらくして「本当か?」と訝しげな返答があった。
「こんなかわいい声のお嬢さんには、数えるほどしかお目に掛かったことがないが」
「お城の執務室で、会いましたよね?」
「………」
「そのあともヴァレンヌで……」
その後、長い沈黙があった。
何かを考えているようでもあり、否定したがっているようでもある沈黙だった。
「ヴァレンヌでは、わたしはノイエさんと、オスカールさんと、それからアラリスさんと一緒でした。シグワスさんが現れてわたしたちの乗っていた馬車を襲ったとき、たぶん、助けに来てくれたのがあなただったと思います」
「──名前、なんてったかな。嬢ちゃん?」
やがてガーラントは、低い声で呟いた。
「フィアです」
「そうだったな。シスター・フィアだ」
ふっと、鼻で笑うような音が聞こえた。
何かおかしいことがあるのかと耳を澄ませていると、
「ところで、なんでこんなところにいるんだ? 嬢ちゃん」
と、興味深そうな声が聞こえてきた。
「そ、それは」
予想していなかった質問にフィアはたじろいだ。
しかし、向こうにしてみれば当然の疑問だろう。
「その。いろいろとありまして……」
「いろいろってのは?」
「話せば長くなります」
「他にすることもねえし、話くらい長くなってもいいぜ」
そう言われて、仕方なくフィアは聖ドロテア女子修道院での顛末を話すことになった。ガーラントはそれを黙って聞いていた。相槌もほとんど打たず。だからフィアは途中独り言を喋っているような気にさせられたが、話し終わると、ガーラントの声がはっきりと響いた。
「あんた、よくよく悪運の持ち主だなあ」
フィアは「はあ……」と顔を赤らめる。
「悪運じゃなくて、幸運だったら良かったんですけど……」
「いやいや。それもひとつの個性だ。いいと思うぜ? 尻拭いするやつは大変だがね」
そして彼は屈託なく笑った。
笑う元気があるということに、フィアは少なからずほっとしたのだが。
「しかしあんたがまだ修道女だったとはね。とっくに、その資格を失ったと思ってた」
「え? ……そ、その、一度は除籍されたんですけど。元いた修道院から」
「ほー? 除籍ね……」
「でも院長が紹介状を書いてくれたから、結局、こちらの修道院にお世話になることになって。……あ、聖ドロテア女子修道院というんです。ご存知ですか? ここからそんなに離れていないところに建っている修道院なんですけど。あの、門のところに大きな木が……」
「悪いが、知らんな。あんたたちの宗教に興味がないもんでね」
「そ、そうですか……」
相手の素っ気ない声に、フィアはそれきり口ごもる。
自分が相手にとって興味のない、それどころか不愉快な話題を口にしてしまったのかもしれないと思い不安になる。けれども言ったことは取り返しがつかないのだから仕方がない。それに第一、修道院のことを知らない人はいても、興味がないと言い切る人間がいるとは思ってもみなかった。
(そんなの、ヴィクターさんだけかと思ってたんだけど……)
居心地悪く膝を抱えなおし、薄汚れた灰色の壁を背にフィアは思った。
──教会が嫌いで、神を信じていないとヴィクターは言っていた。思えばなぜそんなことを言うのか、訊ねてみたことがなかったように思う。フィアにとっては教会も修道院も自分を取り巻く身近な世界で、そこにいるかぎり、ウルヴァキアだろうがヴァレンヌだろうが変わりはなかった。誰もが毎日教会へ行き、ミサにあずかり、神に祈り聖母を想い、そうして生きているものだと思っていたのだが。
ここにもひとり、そんなものとは無縁の暮らしを送ってきた人がいるらしい。
「気を悪くせんでくれ、嬢ちゃん。別にあんたの神を否定するわけじゃない」
向こうから響いてきたのは、深刻な声ではなく気楽な響きの声だった。
「ただツキのない人生だったから、神サマに祈るのが億劫になっちまっただけのことでな」
「そうですね」
フィアは思わず、沈んだ声で答えてしまった。
ガーラントの人生など知るよしもないのだが、それでもそう言ってしまったのは、過去のある出来事の記憶のせいだった。その記憶をフィア自身はもう思い出さなくなっていたが、それがなかったことになるわけではない。
「あなたは『無実』なのに、ここにいるんですものね。ガーラントさん」
フィアが呟いた声に、返事はしばらく──なかった。
それから地下牢全体が沈黙に包まれた。
それは、はからずも長い沈黙となった。


ずらりと牢は並んでいるが、入れられている囚人はフィアとガーラントのふたりだけだ。見張りの憲兵もここにいない。彼らは石の螺旋階段をぐるりとのぼった上にある、詰め所にいるのだ。そして人が降りてくるような気配は、そこからは微塵もしなかった。
どこからも足音はない。息遣いも、互いに聞こえはしない。
姿も見えない。そもそもどんな顔をしているのかさえあやふやだ。それでは何も思い描けない。フィアはいくつもの壁の向こうにいる人が何者なのか、このまま言葉を交わさずにいれば分からなくなってしまうような気がして怖くなった。
「あなたは無実なんでしょう? そうですよね?」
フィアは畳み掛けるように言いながら、いつしか膝で立ち上がり、毛布を肩にまきつけながら鉄格子のほうへにじり寄っていた。
「わたし……知ってるんです。本当のことを。だからあなたが無実だって分かるんです」
「嬢ちゃん」
制止するような声がした。静かな、けれど強い響きだった。
「分かってます。言いません、そのことは誰にも」
フィアはそう言ったが、それで黙ろうとは思わなかった。
「でも、それと、あなたのことは話が別です! あれは──あれは、わたしにはどうすることもできないことでした。ヴィク──あ、あの人にとっても、きっとそうだったんだと思います」
フィアはぎゅっと鉄格子を握りしめる。
ヴィクターの名を言いかけた自分を戒め、高鳴る鼓動を落ち着かせるように深く息を吸った。
「あんまり言う人じゃないけど、でも、心の中ではずっと悩んでいたんだと思います。自分は本当に正しかったのかって。それで一度、自分は罪のために死ぬべきだって覚悟を決めたことだってあったんです」
「………」
「でもわたしはあの人に死んでほしくなかった。だから──だから止めました。死なないでって言いました。神さまにも、聖母さまにも祈りました! どうかこの人を殺さないでって。そのことはちっとも後悔していません、だけど──!」
フィアは痛いほど鉄格子を握りしめた手に、たまらず額を押しつけた。
「そ、そのためにあなたが死んだりしちゃいけないんです。ガーラントさん!」

──『明日にでも処刑台に上らされるのが恐ろしくて』──

「自分は無実だって、ちゃんと言ってください。お願いです。じゃないとあなたは明日、処刑されてしまうかもしれないんですよ! そんなの絶対に駄目です! ヴィ──……さんだって、あなたが自分の代わりに死んだって知ったら、きっとすごくショックを受けるわ!」
言いながら、フィアはおぼろげにガーラントの姿を思い出しかけていた。
どこかアラリスを思い出させる、異国の肌の色。けれどもアラリスのものよりももっと濃く、純粋な色ではなかったか。──闇に漂う暗さをまとい、沈みこませたような肌を持つ大柄な男。牢の前を通り過ぎたときの血の臭いは今は薄らいでいるが、獣のようだと思った、その感覚が、まだおぼろげな人影の上にゆっくりと輪郭を描いていく。
──ああ、そうだ。
自分はたしかに、彼に会っている。
忘れていた。ほんの一年前のことなのに、ずっと昔のことに思えるのが不思議だ。あのころの自分は見たいものしか見なかった。だから忘れたのだろう。そう思いながら、少しずつ形を取りはじめたガーラントの像を、強く閉じた瞼の裏に思い描く。
「どうしてさっき言わなかったんですか? 自分は何もしてないって。言ってれば──」
「何か変わるか?」
ガーラントの声は落ち着いていた。
「か、変わります! だって本当のことを言うんだもの!」
「それが本当だと誰が分かる。誰が証明できる?」
「そ、それは……あっ、わ、わたしが……」
「よしてくれ。あんたに庇ってもらう気なんざ、これっぽっちもない」
「──分かりません。どうして、助かるのに死のうとするんですか?」
「死のうとしてるんじゃない。俺は終わらせようとしてるんだ」
ガーラントが言った。フィアはその言葉に返す言葉がなく、押し黙る。
終わらせる。──何を終わらせるというのだ。もう終わったことではないか。ヴィクターでさえ、あの罪のために処刑されてほしいなんて思ったことがないというのに。その罪をかぶってガーラントが死ぬことなど、あっていいはずがない。断じて。
「だって、あなたには罪がないのに」
「あるさ」
乾いた笑い声がそれに答えた。
「だが嬢ちゃん、俺はこの件であんたと言い争うつもりはない。あんたみたいな修道女相手に、自分が生まれてこのかた犯してきた罪を懺悔するなんざ、百回鞭で打たれるより痛い拷問だぜ。それに」
続く言葉を待って、フィアはじっと息を押し殺す。
それはやがて、静かにフィアのもとへもたらされた。
「あんたはたぶん、最終的には俺を庇えん」
「そ、そんなことありません! わたしは」
「いや、それが事実だ。なぜならあんたは、あいつを見捨てることができないからな」
その言葉にフィアははっと息を呑んだ。
ガーラントの言うとおりだ。彼の疑いを晴らすために、自分が見たもの──光景──を憲兵に正直に打ち明けろといっても、それはできない相談だ。分かっているのに、つい必死になって言ってしまった。
「でも、だからって……」
フィアは唇を噛んだ。
「黙っていたら、あなたを見捨てることになります。わたしは……それはできません」
ヴィクターのために、ガーラントを犠牲にする。それも無理だ。自分にはできない。ガーラントはきっとヴィクターのために罪をかぶろうとしているのだろうが、それが正しいことだとはどうしても思えない。
このままでは、ガーラントは明日にでも処刑台に上らされる。それがどんなものかフィアは見たことがないが、きっと惨い最期に違いない。──今、こうして話しているのに。その人が明日にはもう、どこにもいなくなってしまうなんて。
「あなたは平気なんですか? ……いえ、ごめんなさい。平気なはずありませんよね」
フィアはまた鉄格子に額を押しつけ、ぎゅっと瞼を閉じた。
冷たさが、考えすぎて熱を持った頭には心地よかった。けれどどこか、痛みも感じる。
「どうすれば、あなたが無実だと証明できるんでしょう。どうすれば……?」
「俺は無実じゃない。俺は自分の野望にあの男を巻き込んだ。それが真実だ」
フィアの鼓膜を、じんと震わせる低い声。
「だからこれでいいのさ。悲しむことは何もない。むしろあんたは俺を恨むくらいでちょうどいいんだ。俺さえいなけりゃ、あの男が罪に手を染めることもなかった。ろくでなしで、根無し草の俺がそそのかさなけりゃな」
その声には穏やかな響きだけがあった。
「嘘です」
フィアはふと悲しみが胸の隙間に入り込むのを感じた。
「あの人は、誰かにそそのかされたり、騙されたりする人じゃないもの。わたし知ってます」
ガーラントは、なぜこんなにヴィクターを庇うのだろう。
そしてヴィクターは、なぜガーラントに罪を押しつけたのだろう。それだけはフィアにも分からない。ヴィクターの性格ならば、誰かに罪を着せ、それで気分が晴れるとも思えないのに。
それからずっと、ガーラントは逃亡生活を送ってきたのだろうか。その果てに憲兵に捕らえられ、拷問され、ぼろぼろになってここへやって来たのか。それが彼の人生の結末か。そんな結末で、どうして満足などできるだろう? 自分が彼だったら、きっとなぜこんな運命なのかと神を恨んだに違いない。
だから、神に祈るのは億劫だと言ったのだろうか……。
「はは。……まあな。あんたはあいつをよく知ってる。こいつは先が安心だ」
「先って、なんのことですか?」
「いや、結婚したあととかな」
「結婚なんてしません!」
フィアは思わず声を荒げた。
なぜか「……ひゅう」と、冷やかすような口笛の音が聞こえた。
それがフィアの怒りに火をつけた。
なぜヴィクターもガーラントも、こうなることを予想しなかったのだろう。もっと早くにふたりで話し合い、何がしかの解決策を練っていたら、どちらかが死ぬというようなそんな切羽つまったことにはならなかったのに。
ガーラントを庇えばヴィクターが窮地に陥り、ヴィクターを庇おうとすればガーラントが処刑される。そんなわけのわからない事態を招いたのは、そもそも、ふたりが無策だったからではないか。臭いものにふたをするようなヴィクターの無責任と、死んだら死んだだというようなガーラントの開き直りのせいだ。そもそもこんなときに、のん気に口笛など吹いている場合だろうか!
「わたしは死ぬまで修道院にいます! それであの人の罪をしつこく思い返して、一日百回は忘れずに祈りを捧げます。それくらいしないと駄目だったのよ。やっぱりこれは天罰なんだわ」
「天罰ねえ」
他人事のようなガーラントの声がする。フィアは拳を握り締め、それを震わせた。
「も、もしこのまま朝が来て、あなたがこの牢からどこかに連れて行かれて、二度と戻ってこなかったら……。そのときはわたし、この鉄格子に頭をぶつけて血だらけになってやる!」
「おいおい、やめとけって。それでなくとも、さっき蹴られたろう?」
「い、痛くありません。あんなの」
「そのうちどす黒いあざになって、じくじく痛みだすぜ。嫁入り前で、かわいそうに」
「嫁入り前じゃありません! ──わ、わたしのことなんかいいんです! それより」
そのとき螺旋階段の上で木の扉が開く、ギィという鈍い音がした。
「誰か来るな」
ガーラントの呟き声。
「余計なことを言ってくれるなよ、嬢ちゃん。頼むぜ」
「分かってます。でも……でも、それじゃあなたが!」
「しっ。黙ってな──」