KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第四章 獄中の乙女心 15

靴音を立ててヴィクターが近づいてくるのを、冷たい鉄格子越しにただ、見入った。
目の前で膝を折り、身を屈めた彼は、少しばかり眉間に皺を寄せていた。それを見てフィアは反射的に『叱られる』と思ったが、ここは隠れることも逃げることもできない檻の中だ。身を縮めて息をひそめているのが精一杯で、それでも彼の顔を見つめ返せたのは勇気があったと言えただろう。
「少し目を離すと、これだ」
ヴィクターはため息をついた。
「ご、ごめんなさい」
「いったいどういう魔法を使えば、修道院から憲兵隊の地下牢に移動できるんだ? 教えてもらいたいよ。俺が何を言おうがテコでも動かんやつが、こんなときだけおとなしく修道院を出るんだからな……」
「あの、それには理由が……」
「当たり前だ。理由がなく投獄されるやつがいるか!」
フィアの言葉を、ヴィクターの強い叱責が遮った。
びくりとしてフィアは口を閉ざした。その口元が、自分でも知らず知らずのうちにへの字になっていた。ヴィクターの視線がそこに留まり、それから、彼は降参するように片手を上げた。
「……すまん。おまえを怒るつもりはないんだ」
「──そこのお嬢ちゃんは」
向こうからガーラントの声が響いてきた。それは地下の空洞にかすかなこだまを作った。
「同じ修道院の修道女を殺そうと、毒を盛った──っつう疑いを掛けられたらしいぜ」
ガーラントの声は気楽なものだった。
それは事実だったが、無責任なようにも聞こえる響きに一抹の不安を覚える。
フィアはかすかに青ざめてヴィクターを見つめた。するとヴィクターは、あからさまに眉をひそめてフィアを見つめ返した。それが何やらもの問いたげなので、フィアは自分が疑われているような気持ちになって胸が苦しくなった。
「あ、あの……」
急に動悸を打ちだした胸が、喉から出る声まで苦しくさせる。
「わたし、そんなことしてない。……してません。本当に……」
そのフィアを、ヴィクターは何も言わずに見つめるだけだ。
フィアは彼が何を考えているのか分からなくなり──もとから、『彼の心が分かった』と思えたことなど数えるほどもなかった──強い不安にとらわれた。手のひらに冷たい汗が滲むのを、毛布をぎゅっと握り締めて拭う。
「公爵令嬢クリステラか」
ヴィクターがぽつりと呟いた言葉が、そんなフィアに打撃を与えた。
「し……知ってるの? シスター・クリステラを」
「名前だけはな」
ヴィクターが認めたので、フィアはそれきり言葉を失った。
一瞬、茫然となった。けれどよく考えてみれば、それはごく当たり前の話である。クリステラは周囲から『王妃に』と望まれ、彼女自身、すでにその決意を固めている。そんな話が、肝心のヴィクターの耳にだけ入っていないなどということは考えられない。
「そ、そうよね。……結婚するんだもの。知らないはずないわ」
フィアは自分が何を言っているのか分からなくなりそうだった。
「シ、シスター・クリステラは、ほんとに綺麗な方よ。それに、みんなに優しいの! わたしの話もすごく興味を持って聞いてくれたし、侍女の人たちとも、まるで友達みたいに楽しそうに話していたもの。あんなに気さくで素敵な人は、王都中探したって見つからないと思うわ!」
「ほう……」
目の前に屈みこんでいるヴィクターが、鉄格子の向こうで淡々と相槌を打つ。
それで? というように見つめられ、フィアは乾いた喉に唾を飲み込んだ。
「そ、それに、これからどんな大変なことがあっても、自分は逃げない、って言っていたわ」
「勇敢だな」
なにげない呟きが、自分に向けられた言葉のように聞こえた。そんなはずはないと分かっていたが、それでもフィアはうつむかざるをえなかった。クリステラの勇気や覚悟に比べれば、くよくよ、うじうじと迷ってばかりの自分は本当に情けない。
「そ、そう。覚悟が……」
「だから?」
「だから、あの……。きっと、立派な王妃さまになれると」
「彼女と結婚するつもりはない」
ヴィクターがあっさりと言った。
フィアは唖然となって彼を見つめた。
「結婚しない? ……ど、どうして?」
「逆に訊くが、俺が一度でも『クリステラ=エトヴィシュと結婚する』と言ったか?」
「言ってないけど、でも──」
「『でも』じゃない。俺は一度もそんなことは言っていない」
フィアは一瞬口ごもる。
けれど、そこで頷くことはできなかった。
「だ、だけど、公爵さまもそう言っておられたわ。他の誰にきいたって、わたしよりシスター・クリステラのほうがあなたにお似合いだって、そう言うに決まってる。……も、もちろん、あなたはわたしと結婚するつもりなんて、全然ないと思うけど……」
「おまえは字がヘタクソだからな」
ヴィクターが真面目な顔で言った。フィアはむっと唇を引き結ぶ。
なぜ、ここで字のことを引き合いに出されなければならないのだ。関係ないではないか……。
「それに礼儀作法も知らん。お辞儀がなってないと人に笑われたり、指洗い用の水を飲んで周囲を唖然とさせたり、ダンスの途中につまづいて派手に転んだり──そういうことをしでかす人間は『王妃に向いている』とは言われないだろうな。もしまかりまちがってなったとしても、周囲の人間から陰口を叩かれて、泣いて逃げ出すくらいがせいぜいだろう」
「そ、そんなこと分かってるわ」
フィアは力なく言ってうつむいた。
ヴィクターは平坦な調子で続ける。
「おまけにいつ誰に毒を盛られたり、刃を向けられるか分からない。それを恐れて護衛をつければ、窮屈で息苦しい生活になるだろう。どこへ行くにも誰かの許可を得なくてはならないから、ちょっと教会へ行きたいと言っても、月に一度も外出を認められないかもしれない」
そこまで言って、彼は苦笑した。
「自分で言うのもなんだが、囚人の生活だな。まるで」
「………」
フィアはなんと言っていいのか分からなかった。
最初は彼が自分を貶めようとしているのだと思った。字が汚いとか、お辞儀が下手そうだとか、そんな意地悪を言って。けれどもよくよく聞いてみれば、そういうわけではなさそうだ。
「あの……」
フィアは視線を石の床に落とし、しばらくためらったあと、顔を上げた。
「シスター・クリステラは、あなたを幸せにしてくれると思うわ」
その言葉をヴィクターは黙って聞いていた。フィアはためらいながら続ける。
「だって、シスター・クリステラは礼儀作法やダンスのことで人に笑われたりしないし、誰かに悪口を言われるようなことなんてなんにもないもの。それにもしそんな嫌なことがあっても、あの人はきっと我慢するわ。あなたのために」
「………」
「わたしは意気地なしだから、誰かに嫌なことを言われたら、すぐにくじけちゃうと思う……。だからシスター・クリステラと結婚したほうが、絶対にいいわ。自分の命が危ないかも知れないと分かっているのに、それでも、あの人はお城へ行くって決めているんだもの」
「俺は、おまえに二度、救われた」
静かな声が、フィアの心にすっと入り込んでくる。
「一度目はヴァレンヌで。二度目はおまえの修道院で。だが、救われたのは命だけではなかったと思っている。おまえと初めて出会ったとき、すでに俺の魂は死んでいたようなものだった。それを蘇らせたのはおまえだ。おまえがいたから、あのとき俺はすべてを捨てずにすんだ」
その告白に、フィアは息を呑んだ。
「自分がとうの昔に置き去りにした何かを、おまえはその両手いっぱいに湛えている。ただの一滴もこぼさずに。それを俺は奇跡だと思った。だから俺はおまえをそばに置きたいと願った。だがそれは、傲慢で欲深なことかもしれないとも思う」
しばらく沈黙が流れる。
フィアは胸に強い痛みが走るのを感じた。
ヴィクターの顔をじっと見る。その目が、奥から熱くなるようだった。
ヴィクターはそれを正面から見つめ返し、ふっと唇のはじを緩ませた。
「今までの人生の中で、おまえほど俺の心をかき乱した人間はいなかった。おまえに心配させられ、腹を立てさせられ……。それでときどきはうんざりだと思ったこともある。たしかにな」
「ヴィクターさん……」
「だが結局のところ俺は、おまえのいない生活というものがどうもピンと来ない。何かが重要なものが欠けているようで、落ち着かないと言えばいいのか……」
気乗りのしない冗談を言うときのような、いくぶん軽い、けれどどこか沈んだ調子だった。
「俺の気持ちは『あのとき』から何も変わっていない。覚えてるか?」
「……はい」
フィアはかすかに頷いた。
覚えている。王都の大教会で思わぬ再会を果たしたとき、『探した』と言ってくれたことを。
今でも忘れていない。
エドアルドとゲルヌに連れ去られようとしていたとき、助けに来てくれたのは他の誰でもなくヴィクターだった。ヴィクターは『二度も救われた』と言うが、救われたのは自分も同じだ。世の中全てに見捨てられたような気がして絶望しそうになるとき、不思議なことに、いつもヴィクターが現れて救ってくれた。あの法皇臨席の晩餐会の夜もそうだった。
「公爵令嬢と結婚しないと言ったのは、それでだ。他の誰とも結婚するつもりはない。俺が望む人間はおまえだけだからな。だがそれを言うと、おまえの心には負担になると分かっていた。だからはっきり言わなかった」
「………」
「しかしおまえの口から彼女を勧められると、さすがに文句のひとつも言いたくなる。それほど鈍い神経しか持ち合わせていないのなら、おまえの心など無視して、俺が好き勝手にやっても許されるんじゃないかと」
ヴィクターはそこまで言って、ちょっと笑ってみせる。
「それに、その小汚い檻の中よりは、窮屈とは言っても城のほうがましに見えるぞ」
フィアはその冗談に笑おうとした。
けれど、唇を笑みの形に動かしたとき、両目にたたえていた涙がこぼれ落ちた。
なぜ、こんなにまで言葉を尽くして、自分を『欲しい』と言ってくれるのだろう。この人は。
クリステラのように公爵家に生まれたわけでもなく、カタリナほど人望があるわけでもない。孤児と言われ、足蹴にもされて、自分はその程度の存在なのだと思い知らされたばかりだった。──レヴィンにすら認められていない。彼はヴィクターの評判を気にしているのだ。家臣なら、それが当然だろう。誰だって、孤児の娘が王妃になったら気に入らないに違いない。
「嬉しいけど、でも──」
フィアの頬には、涙の通り道ができていた。そこをまた、冷たいものが流れてゆく。
「足が……出ない。怖くて、すくんでしまうの」
「なら、無理やり攫っていこうか?」
ヴィクターが小首を傾げ、鉄格子のあいだからすっと手を差し入れた。
上に向けられた手のひらは、フィアの手が乗せられるのを待っているように見える。
「足が出なかろうが、すくもうが、引きずっていってやるぞ。あとはおまえが頷いてくれるだけだ。……本当はもう少し時間をかけて待つつもりだったが、どうも、そうしていると時機を逸してしまいそうだからな」
おまえは思っていた以上に逃げ足が速いようだ、とヴィクターが愚痴っぽく言った。
フィアは怖気づいていたが、それ以上彼の手を宙に浮かせておくのは忍びなかった。
おずおずと手を乗せ、ヴィクターの顔を見つめる。
「あの、時間を……」
途切れそうになる言葉を、なんとか繋ぐ。
「時間をくれる? 今すぐには決められない……」
「ああ。答えは急がない。好きなだけ考えろ」
ヴィクターは言って、フィアの指先をそっと握った。
「──にしても、どうせ最後は俺のところに来る羽目になるんだろうがな」
「えっ……え!?」
フィアが驚いて手を引っ込めようとしたが、遅かった。ヴィクターは素早くその手を握り締め、びくともしない力で繋ぎとめる。フィアはすっかり取り乱してしまい、なんとか彼の手を振り払おうとばたばたやったが、無駄に終わった。
「そ、それはどういうこと!? わたしはまだ何も」
「なら、おまえをこの牢の中に百日間入れておけと命じてこようか? 十分な時間だろう」
ヴィクターがフィアを見つめて、にやりと笑う。
フィアは涙も乾いてしまい、唖然とするばかりだ。
「そ、それって、──横暴! 横暴だわ!」
「やかましい。人の知らないところで勝手に投獄されるような馬鹿は、俺のような人間に万事管理されているほうがいいんだ。そのほうが世間の害にならずにすむというものだろう。自分が災厄の種を撒き散らしていることを少しは自覚しろ」
「災厄って──」
「災厄だろうが? よりによって毒殺犯にされるとは、呆れてものも言えん。俺はおまえが被害に遭うことは想定しても、加害者になるという事態は想定してなかった。まったく、これほどあほらしい騒ぎがあるかというんだ」
「何よ。わっ、わたしだって、好きで疑いを掛けられたわけじゃないわ!」
フィアは空いている手で毛布を握り締め、それで彼の腕を叩きながらわめいた。
「あんなにしんみりさせることを言ったくせに、嘘だったなんて。泣いたりして馬鹿みたい!」
「あれは俺の本心だ」
ヴィクターは言って、フィアから手を離す。
そして立ち上がり、階段のほうへ顔を向けた。
「天井で足音がするな。おりてくるぞ」
「ほ、本心……?」
「しばらく黙ってろ。フィア」
「は、はい」
「おまえが不用意に喋ると、空から石が降ってきて誰か死にかねん。それくらい不可解なことが起きても、俺はもう不思議とは思わん」
「……それ、どういう意味ですか??」
「いいから、静かに」