KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第五章 消えた麗人 1

フィアはしばし、気が抜けたようにぼんやりとしていた。
今日は、あまりにも慌しい日でありすぎた。エミリアに追い掛け回され、憲兵に捕らえられ、牢に入れられ──。それだけでも目が回るようであったというのに、ガーラントやヴィクターまでが姿を現したのだ。もう、生誕祭と新年祭が一緒に来たような心の慌しさだった。
これまでは気が張っていたせいか、あまり感じなかった体の疲労も、今になってどっと感じる。フィアは近づいてくる若々しい足取りの靴音を聞きながら、吐息をついて壁にもたれた。
「シスター。いるかい?」
声を掛けながら、ひょいと牢の中をのぞきこんだのは、ジョルトだった。
彼だということは、話し声を聞いたときから分かっていた。フィアは壁にもたれたまま毛布を体の前にかけ、忍び寄ってくる眠気に身を任せながら「いるわ」と答えた。
「だって、ほかにどこにも行きようがないんだもの」
「ごめん、それはそうだ」
ジョルトは苦笑いした。
片膝を床につけ、それに片手をついて、気もそぞろというように廊下の向こうを見た。
「それにしても、こんなところで国王陛下にお会いできるなんて思ってなかったなあ。びっくりした」
「え? ……あ、そうね」
フィアはぼんやりと頷く。
ジョルトの口からヴィクターの話を聞くのは、少し妙な気分だ。
「顔、覚えてもらえたかな。……ま、そんな色気を出さないほうがいいか。どうせ俺は下っ端で、ここの牢番くらいしか仕事をさせてもらえないんだし。残念だけどこの先一生、口をきく機会もないかもな」
そう言うジョルトが少しばかり寂しそうだったので、フィアはわずかに目をみはる。
「そんなことない。王都は意外に狭いもの」
「狭いようで、案外広いのがこの王都ってもんさ」
「だけどあの人、この近くをぶらぶらしてるから、またそのうち会えると思うわ」
「『あの人』?」
ジョルトがぽかんとする。
フィアはしまった、と思い、さりげなく訂正しようとした。
「ううん、『あの方』と言ったのよ。ちょっと眠くて、言い間違えて……」
「ああ、そうか。でも、なんでこのあたりにいらっしゃると分かるんだ?」
ジョルトは意外に鋭い追及を見せる。
さすが憲兵隊の一員だけあり、勘がいい。フィアは密かに感心したが、そんなことをしている場合ではなかった。自分が人一倍へたくそな言い訳しかできないのを自覚しているので、さすがに慌てふためく。
「え、えーっと。そ、それは、あの」
「うん」
「み、見たの!」
「見たって? 何を?」
ジョルトが片方の眉を持ち上げてみせる。
それを見て内心ぎくりとしたが、なんとか落ち着いて答えようとした。
「わたし、普段から、用事があって修道院と孤児院を行き来することが多いから。その途中で、ぶらぶら、というか、何だろう? 気晴らしに散歩でもなさってるのかしら? よく分からないけど、歩いてるのを何度か見かけたから」
「供を連れて?」
「……連れて? た、かも。連れてなかったような気もするけど」
「供もなしに、ひとりで城下をお歩きになるなんて考えられないな……。どういうことだろう」
「あ、わ、わたしが気がつかなかっただけで、供の人もいたのかもしれないわ。今にして思うと、いたような気がする。う、うん、そう言えばたしかにいたと思うわ……」
「へえ」
ジョルトは興味津々とばかりに身を乗り出した。
「何人くらいだい?」
「何人って……。えっと、あの……ひ、一人くらい? 一人か二人」
「………」
しどろもどろの返答をするフィアの顔を、ジョルトが鉄格子に顔を近づけ、じいっとのぞきこむようにして見る。フィアはすっかり怖気づいてしまい、手にしている毛布を強く抱きしめたりしてみたが、特に効果は感じられなかった。
ジョルトは訝しげな顔のまま、何も言わない。
フィアはおかしなことを言ったかと思い、弱々しく言葉を重ねた。
「あ、ご、五人くらいいたかも……」
「………」
「か、その、倍くらい……」
そのときだった。
ジョルトがぷっと吹き出し、奥歯を噛み締めて笑いだす。
「何人なんだよ。まったくあんたときたら、おかしな修道女だなあ」
「え、そ、そう? 何かおかしい?」
フィアはやはりまずいことを言ったに違いないと青ざめたが。
「あんたがここへ連れて来られてから、俺はあんたが毒殺犯だと疑ったことは一度もないけどさ。それじゃ、さすがに濡れ衣を着せられてもおかしくないや。『おまえが犯人だろう!』と怒鳴られたら、怖くて頷いちまうタイプだよな」
「そ、そうかしら……」
そんな経験はないので、フィアには他になんともいえない。
「そんなだから、人に侮られてこんなところに入れられちまうんだよ。いいかい、シスター」
「は、はい」
ジョルトが真面目な顔になったので、フィアも思わず姿勢を正した。牢の中で。
「世の中ってのは、基本的に弱肉強食なんだ」
「し、知ってます。いちおう」
そのことは、ここ一年でなんとなく学んだ……。
「それに、悪いやつに限って、我がもの顔でのさばるご時勢だ。そこにあんたみたいにいかにも善良そうな『フワフワしたの』がいたら、まさに『獲物にしてくれ』と言ってるようなもんさ。まるで荒野に放たれた兎同然、あっというまに踏み潰されて、大変なことになっちまうぜ」
「大変なこと? って……」
なんだろうと口に手をやって考え込むフィアに、ジョルトはため息をついてみせる。
「考え込まないでくれよ……。あんたは今檻の中にいるじゃないか。これがそうだよ」
「あ、なるほど」
フィアは口に手をやったまま、なんとなく頷いた。
ほんとに分かってんのか、というような呆れ顔を見せたジョルトだが、その後、諦めたように首を振った。そして、「俺が事件の担当だったらなあ。さっさと真犯人を挙げて、あんたを釈放してやるのに」と残念そうに呟く。
「ジョルトさんは、何か事件を担当しているの?」
フィアが興味を引かれて訊ねると、ジョルトはいや、と吐息まじりに答えた。
「何も」
「そうなの」
「憲兵になってから一年ばかり過ぎたけど、基本的に俺の仕事はここの見張り。牢番さ。たまに呼び出されて警備の夜回りについていくときもあるけど、そういうときに限ってなんの事件も起こらない。同期のやつらはもう一つか二つ上の階級になってるってのに」
「ジョルトさんは階級を上げてもらえないの? どうして?」
「ま、俺はただの平民だし、有力なツテがあるわけでもないし。それでじゃないか? 同期といっても、他の連中はけっこういい家の出だったりするからな。自分では能力が劣ってるとは思ってないけど、そればっかりはどうにもならない」
「そんなので決まるのは、残念ね」
フィアはジョルトを気の毒に思った。
彼は良い憲兵の資質がありそうなのに、牢の見張り番ばかりで、事件の捜査をさせてもらえないのは本人も残念だろうと思う。家柄といえば、本来ならば階級差などあってはならない修道院の中でもいろいろあるのだから、世間ではなおさらかもしれない。
「あんたの事件は、あんたを捕まえたことで『捜査終了』と思ってる連中も少なくない。だからあんたが修道院に戻って、何か有力な手がかりを掴んだら、こっそり俺のところに知らせに来てくれたら嬉しいな。そしたら俺が事件解決するから、その手柄でやっと出世できるかも」
ジョルトは明るく言ったあと、「ま、冗談だけど」と笑った。
「それ、いい考えね」
だが、フィアはぱっと顔を輝かせた。
「修道院で、犯人探しをしている人がいるの。だから修道院に戻ったら、わたしも一緒に犯人を探して、見つけたら真っ先にジョルトさんに知らせるわ。そうしたらジョルトさんの手柄になって、もしかしたら出世できるかもしれないものね!」
「いやあ、今のはほんとに冗談で……」
ジョルトはばつが悪そうに頭をかいた。変なことを言ってしまったと思っている顔だ。
「でも、他の人と同じように頑張ってるのに、他の人と同じように出世できないなんて、変だもの。わたしはそう思うな。ジョルトさんは、出世して事件を任せてもらえるようになったら、きっと次々に解決するような気がするし。そうしたら、王都のみんなのためにもなるわ」
フィアは熱心に言った。
人のためになること──となると、がぜんやる気が増すのである。
「だから、もし暇があったらちょくちょく修道院に立ち寄ってね。わたしがここから出たあとのことだけど。そしたら、わたし、犯人探しがどうなってるかジョルトさんに毎回報告するわ」
「まあ、そこまで言ってくれるなら。あんまりアテにはしないけど、あんたの顔を見に修道院に行くよ」
ジョルトは苦笑いのような、照れ笑いのような笑みを浮かべて言う。
「でも、怪しがられて追い返されないかな」
「今、敷地の中にも憲兵の人たちが入って来てるわ。中に入ったって、叱られないと思うけど」
「ああ、そうか、一応はまだ警備中なのか。それなら都合がいいや」
ジョルトは言って、じっとフィアを見つめた。
「どうしたの?」
何か言いたげなのを察してフィアが訊ねると、ジョルトは「いや」と目を伏せる。
「気持ちは嬉しいけど、やっぱり、犯人探しなんて危険じゃないかと思ってさ……。あんたに何かあったら、俺、出世だとかなんとか、冗談半分で口にしたことを後悔するだろうなって」
そしてジョルトは、鉄格子ごしにフィアの手を取り、それを強く握り締めた。
「今はまだ下っぱだけど、そのうち、俺にも手柄を立てる機会は巡ってくると思うから──」
「う、うん」
フィアはいささか怯みつつも、ジョルトの顔を見つめ返す。ジョルトは真剣に続けた。
「あんたはあんまり無理せずに、修道院に戻ったら、もう犯人に間違えられないようにおとなしくしてろよな。シスター。……それでもしも、犯人について何か手がかりを掴んだなら、そのときは話を聞かせてもらうから」
「うん」
フィアは小さく頷いた。
ジョルトの言うことはもっともだった。また何か無茶をして、ヘマをしたら、フィア自身さすがに自分にがっかりするだろう。ヴィクターからも説教をくらったことだし、犯人探しといっても、ほどほどに慎まなければならない。
「無茶なことはしないわ」
「ああ。そう約束してくれ。投獄されるならまだしも、怪我でもしたら大変だ」
「そ、そうね」
怪我といえば、ヴィクターと知り合って以来、生傷の耐えない身である。
未だにくっきりと傷跡が残っているものもあるし、正直いって、しげしげと鏡などを見るときにはちょっぴりショックだったりもするのだが、命があっただけ幸運だったと思い、それ以上のことは考えないようにしていた。
けれども、やはり殴られたり蹴られたりするのは嬉しくないことだ、とここに来て再認識もした。修道院に戻ったら、ジョルトに言われたからというのではなく、進んでおとなしく──進んでというのも変だが──するつもりではいる。だいたい、犯人探しをしているのはデュリだから、自分から危険を冒して何かしなくとも、デュリに聞けばすむことだ。
デュリが犯人を突き止め、フィアがその結果をジョルトに教える。
そうすればデュリはデュリで犯人を検挙できて満足するだろうし、ジョルトも出世できて一石二鳥だ。そこで、フィアがすることといったら単なる伝言役だけである。そこまで考えると、フィアは、ジョルトが心配するほどのことはないと思い、少し笑った。


──その晩と次の晩を、フィアは牢の中で過ごすことになった。
暗く、狭く、あまり良いにおいがたちこめている、とはいえない牢の中で二晩も過ごすというのは、あまり愉快な経験ではない。
一日目、あまりにも寒くてほとんど眠れなかったと言ったせいか、翌日にはジョルトが毛布をどっさり持ってきてくれたので、それを敷いたり、かぶったりしてなんとか形ばかり寝床を整えたが、聖ドロテア女子修道院の小奇麗な独房と立派な寝台に慣れてしまった身にはそれでも少しばかり──けっこう──つらかった。
牢という性質上、寝心地のよいベッドなど望むべくもないのだが……。
文句をいうのは間違っている、と自分に言い聞かせながら、二日目の晩も、フィアは固い石床の上で何度も寝返りを打っていた。そのたびに目覚めては、また、浅い眠りへと落ちていく。慣れない環境にいるせいもあり、いつにもまして不可解な夢ばかりを見た。
寝苦しい夜だった。そのうちにふと
「……フィア。どこにいる?」
地下の空洞に小さな声が響いた。
フィアははっとして身を起こす。
「その声……アラリスさん!」
思わず大声を出しかけて、慌てて自分の口を塞ぐ。
毛布をよけるのももどかしく、這いずるように鉄格子のところまで行くと、姿は見えなかったが、確かにどこかからアラリスの声がする。押し殺したような、とても小さな声だ。
「無事だとは思ったけど、どうしても気になって忍び込んできた。……大丈夫?」
「う、うん。わたしは大丈夫よ。でもアラリスさん、どこにいるの? 見えない」
「ここだよ」
声はさっきよりも近くから響いた。
向かいの影の中から、すっと姿を現す。──アラリスだ。
フィアはほっとするやら、嬉しいやらで顔を綻ばせた。
「ほんとだ! 見えたわ」
「あまり近くに行けない。誰か降りてきたら、すぐに出て行かなけりゃならないから。ここでは、わたしの姿を誰かに見られるとまずいんだ」
「そ、そうよね。忍び込んできたんでしょう?」
フィアは不安な気持ちでアラリスを見た。
「わたしはほんとに大丈夫だから、早くここから出て行ったほうがいいわ。見つかったら大変よ、アラリスさん」
「……ヴィクターに会った?」
「う、うん。教会の人に頼んで、わたしがここから出られるようにしてくれるって言ってた」
「そう。それならよかった……」
アラリスが微笑んだ直後、上を誰かが歩く音がする。
彼女はさっと天井に顔を向け、きつく眉をひそめた。
「ごめん、あまり長居はできないんだ」
フィアに顔を戻したアラリスの顔は、自分を責めているようだった。
「ずっとついていようと思ったのに、少し込み入った事情があって……」
フィアは黙って頷いた。
それはきっと、ガーラントのことだ。
アラリスは何も言おうとしないが、ガーラントはアラリスの名前を口にしていた。ふたりのあいだになんらかの関係があるのは間違いない。そのガーラントが投獄ということになり、アラリスは駆けずり回っていたのだろう。
「まあ、ここにいるのは、修道院にいるより安全かもしれないけど……。でも牢の中っていうのは、気が滅入るだろうと思って心配だった。思ったより元気そうな顔をしているから、少し安心したけど」
アラリスは言いながら、ほっとしたように吐息をつく。
「平気よ。憲兵の人も、親切にしてくれるし」
フィアは明るく言った。
アラリスは時間を気にして、「そろそろ行かないと」と呟いた。
「う、うん、そうね」
フィアは慌てて頷いた。
ガーラントが捕まって一騒ぎあったあと、アラリスまでが捕まるというのは、何かとてもまずい気がする。
「気にせずに行って。見張りの憲兵の人がおりてくるかもしれないわ」
「ああ。……それじゃ行くよ。修道院で待ってるから」
「うん」
「ごめんよ」
申し訳なさそうに呟いて、アラリスは影の中にすうっとまぎれ、姿を消した。
フィアはじっと耳を済ませたが、階段を上がる音は聞こえなかった。けれどいつのまにか、たしかに、このあたりから人の気配が消えている。
ただ、松明の明かりがぱちぱちと音を立てながら揺らめいているだけだった。


──ようやく朝方ごろになってうとうととしていたフィアの耳に、けたたましく階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。しばらく眠れずにいたあと、やっと掴んだ睡眠だったので手放しがたかったのだが、目をこすりこすりしてしかたなく起きてみると、息を切らして現れたのはジョルトだった。
「シスター、釈放だ! あんたは釈放される」
思いがけない言葉に、フィアは眠気のさめやらない顔で「うぇっ?」と妙な返事をした。
ジョルトはもどかしげに腰に下げていた鍵束を外し、その鍵のひとつで扉を開けながら、
「聖ドロテア女子修道院で、また事件が起こったんだよ。新入りの修道女がひとり、昨晩から姿が見えないらしい。やっぱり、エトヴィシュ家の公爵令嬢を毒殺しようとした犯人は、まだ修道院の中にいるんだ。あんたはここにいたから、無実と立証されたわけだ。だから釈放だ!」
と叫んだのだった。