KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第六章 修道院、閉鎖される 6

「足元が滑る。気をつけて」
先頭を歩くベリスの声が、狭い階段のなかに響いた。
彼が手にしている蝋燭皿だけが、頼りになる灯りだ。フィアは両側の壁に手を這わせながら、うっすらと石の階段の線が見える足元を注視した。すぐ後ろにはアラリスがいるのが分かっているが、彼女は息を詰めていて、足音もほとんど聞き取れない。
「油断するなよ、ベリス」
どこか揶揄するような艶っぽい声が後ろからする。
「分かってますって」
答えるベリスの声は快活だったが、かろうじて聞き取れる程度にひそめられている。
馴染みの声のやりとりにほっとするが、その一方で、フィアは緊張のために体を固くしていた。本当にこんな地下室があったなんて思いもしなかったのだ。こうして目の当たりにしていても、なんだか信じられない。
ほどなく一番下についた。
ベリスが少しだけ振り返り、フィアを押し留めるように片手を突き出してきた。それにそっと肩を押されたので、立ち止まる。その背中にはアラリスの体が少しだけ当たった。彼女の体は暖かく、柔らかかった。
「中を見てきます」
ベリスが短く言って、扉も何もない、ぽっかりと口を開ける入り口を潜り抜けていった。
蝋燭の灯りが壁の向こう側のものになる。
漏れ出してくるわずかな灯りを、まるでベリスの命運のように思いながらフィアはじっと見つめていた。この先にクリステラを殺そうとした者たちが潜んでいるかもしれないと思うと、自然、息が詰まる。
賊はいるのだろうか。
デュリも、ここにいるのだろうか……?
しばらくして、光が強くなった。
ベリスが戻ってくる足音がする。
「くそっ……。逃げられた」
忌々しげな舌打ちが聞こえた。
フィアはそれを聞くなり、待ちきれないというように中に飛び込んだ。アラリスはゆっくりとそれに続く。
中では、ベリスが蝋燭皿を足元に置くところだった。
身を起こした彼は周囲を見回し、どうにもならない、というように両手を広げた。
「何もありません。何も! 綺麗さっぱり、人のいた痕跡さえなくなってます」
「奥は?」
「もう一部屋ありますが、そこももぬけの空です」
アラリスの短い問いかけに、ベリスが無念きわまりないというようなため息を漏らした。
「他に出口はないはずですが。……畜生! これで一網打尽にできると思ったのにな……」
フィアは部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
本当に何もない部屋だ。
周囲の壁は真っ赤に塗られていて、少なからず不気味である。血の色──というわけではないのだろうが、なんとなくそれを連想させるような緋色だ。ただ、ずいぶんと古びて、あちらこちら色がはげ落ちており、下にある岩肌の色が見えている。
アラリスはぽっかりと空いた入り口のようなところから、奥の部屋へ進んでいった。
「……ん。何か書いてある」
奥から、彼女の声がする。
「ベリス、灯りを持ってきて。フィアもこっちにおいで」
言われるままにベリスと二人、奥へ進むと、そこはさきほどの部屋より少し小さな部屋になっていた。アラリスが立っているところに、たしかに何かの文字が書いてある。ベリスはその近くへ行き、
「ヴァキア語ですよ。部族時代の。礼拝のための聖句か何かでしょうね」
と、気乗りしないように言った。
アラリスが興味津々というように目を輝かせる。
「部族時代、ね……。それって、どれくらい前のことなの?」
「何百年も前のことですが、ここ自体はそう古いものではなさそうです」
ベリスは周囲を見回した。
「今の陛下の祖父であるイヴァーン王の代までは、救世母教は国教じゃありませんでしたから。ウル教の連中が、救世母教の弾圧を逃れてこういう地下で礼拝をするようになったのはその後のことだから、せいぜい……そうだな。数十年前ってとこですかね」
「ふうん。それじゃ、けっこう新しいんだね。でも、その地下聖堂の上に修道院が建つなんて、ちょっと皮肉な話だな」
少しばかり気の毒そうに呟いたアラリスに向かって、ベリスは肩をすくめた。
「皮肉じゃなくて、わざとですよ」
「わざと?」
「ええ。古い宗教を駆逐した勝利のあかしに、わざわざ、その上に教会や修道院を建てたって話です。新しい聖堂で、古い聖堂を封印してるようなもんですね。だからこういうところの地下には、古い聖堂があるんじゃないかとピンと来て」
「へえ。なるほど。……意外に物知りなんだな、ベリス。見直したよ」
「まあ、それも、シスターが『声がした』って言ったからですけどね」
ベリスは自分の手柄を誇る様子も見せず、どこか上の空で言った。
アラリスが感心したように言って、軽く腕を組む。
「そういえば『ウル教』っていうと、ヴィクターの名前と何か関係がありそうだね? なんだか古い時代のことに詳しそうだから、ついでに聞くけど」
「ウル教がどうこうって話じゃなく、この国の神の名前は昔は『ウル』だったんですよ……。それで、国王には代々その名前がつけられてんです。ウルの末裔、というか、そんな感じだったと思いますけど……。そのへんのことは、俺より、陛下に直接訊いたほうが早いでしょうね」
そこまで言って、ベリスは苦々しい顔つきになった。自分の頭を片手でかきむしる。
「あー! それにしても、どこから逃げられたんだろう。土壇場で取り逃がしたってのは痛いよなあ……」
「そのへんの石組みが、ちょっとずれてる気がするけど?」
アラリスが何気なく、はじを指差して指摘する。ベリスが目をみはった。
「え。本当ですか? ちょっと調べてみます」
慌てて、隅に寄ってしゃがみこむ。
やがて彼が「うわ、抜け穴だよ! 最悪だな……」と悲劇的に叫んだのは、フィアの耳にはもう他人事だった。すぐ後ろでアラリスが、「訊いてみたいけど、『歴史書を読め』で終わりな気がする……」と悩ましげに呟いているのも。
「デュリさん……」
フィアはここにいない人の名を呟いて、涙ぐみたいような気持ちになった。
彼に会えなくなってから、もう何日経ったのだろう?
ずっとここにいたのだろうか。ここで、助けを待っていたのだろうか。
「こんなに近くにいたのに、気づかなかった……。声までしたのに……」
後悔のあまりぎゅっと拳を握り締めたフィアに、ベリスが「あ」と呟いた。
「ね、シスター」
「……はい?」
ベリスに呼ばれて、フィアは立ち直れないまま振り向いた。
視線の先に、蝋燭の灯りに照らし出された彼の顔がある。
「声は、今までにも聞いたことがあったかい?」
「……いいえ。今日が初めてです。そんなのは」
「……そうか。やっぱり。それじゃあ……」
ベリスは少し考え込んだあと、ずれているとアラリスが言った石を動かして外し、下に置いた。その周囲の石も、彼が引っ張ると簡単に抜け落ちてしまった。そうして次々に石を取り去るうちに、その向こうに人が通れそうな穴が姿をみせる。彼はしゃがんで、注意深くその中をのぞきこんだ。
「ここが、公爵令嬢の部屋の下……。で、シスターの部屋はそこから南西。ってことは、この穴はやっぱり、そっちに伸びてんだな。そういやここ、祭壇もないし……。だとすると向こうにも部屋があるのか。……俺、ちょっと向こうまで行ってきます」
ベリスはぶつぶつ言ったあと、軽くはないが、深刻でもない口調で言って、穴の中に首を突っ込んだ。
アラリスがそれを見て、「おい」と眉をひそめてみせる。
「大丈夫? なんの準備もなしにそんなところに入って」
「今なら追いつけるかもしれないでしょう。このまま逃がすのはもったいない」
「だけど、向こうに何があるか分からないのに。どこに通じてるか確かめてからのほうが……」
「それこそ、通ってみなきゃ分からないじゃないですか。そんなこと」
「言っとくけど、わたしは行かないよ! フィアだけここに残せないから」
「分かってますって。ひとりで大丈夫です」
ベリスはすでに、腰から抜いた剣で先を確かめつつ、穴の中に膝のあたりまで入ってしまっていた。平然と先へ進んでいく彼の姿が、ほどなく靴の踵も、つま先さえも穴に呑み込まれて見えなくなってしまう。
「ベリスさん! 本当にひとりで行くの? 一度、上に戻ったほうが……」
フィアも心配して穴に近づいたが、中から、「美人シスターを見つけたら、君が心配してたと伝えておくよ。彼女が俺に、短剣で切りかかってこなけりゃだが」とくぐもった声で返事があった。フィアはその前にしゃがみこみ、どうしていいか分からず途方に暮れた。
「行っちゃった、ベリスさん……。危なくないのかしら?」
「危ないと思うけど」
アラリスは神妙な顔で言い、ため息をこぼした。
「若いからね……。無茶なこともしてみたいんだろう」
「デュリさん、無事だと思う? アラリスさん?」
「あのいんちきくさい修道女《デュリ》なら、たぶん、死んでないと思うよ」
アラリスが小さく笑って、フィアの肩に手を置いた。ぽん、と。
「ここで死んでれば、ここに死体が転がってるはずだ。でも、何もない。ベリスが行った先にも、きっと死体なんかないよ。そんな気がする。だから……あんまり心配しなくていい。それにあいつ、図太そうだったしね」
そして、「戻ろう」とフィアに声をかけた。
「もう朝になる。そろそろ部屋に戻っていないとまずいだろう? フィア」
「……でも」
フィアはアラリスを見上げながら立ち上がり、それからうつむいた。
「修道院は、閉鎖されるのよ」
アラリスはそれには何も答えなかった。
彼女はしばらく黙っていた。
フィアはフィアで、自分がなぜそんなことを言ってしまったのか分からなかった。
「……ごめんなさい。変なこと言っちゃった」
気まずさのあまり、相手の言葉を待たずに言った。
「修道院が閉鎖されるまでは、わたしは修道女だものね。規則は、守らなきゃ」
「……まだ、去りがたい?」
アラリスが静かに訊ねた。
フィアは彼女の顔を見つめた。
彼女は以前、『修道院を出たほうがいい』と言った。その理由は『ヴィクターが心配しているから』だった。彼女は、ヴィクターの憂いをなくすためにここへ来たのだ。その役目は、本当はフィアをここから連れ出すことであって、四六時中はりついて守ることではなかったのだ。
それに逆らって、ここに残り続けてきたのは自分だ。
どうしてか、出て行く気になれなかった──。
心の中に、何かがしこりのように残っている。
それが何なのか、フィアには分からない。
「アラリスさん。わたし……何かやり残してることがある気がするの」
フィアはアラリスを見上げて、正直に言った。
「でも、それが何なのか、よく分からないんだけど……。でも、すごくそう思うの」
そんなことを言うと、また頬をはたかれてしまうかもしれない、と思ったが。
アラリスは怒らなかった。ただ、静かにこう言っただけだった。
「そうだね、フィア。おまえは、たしかに何かをやり残してるよ」
その言葉にフィアは目をみはった。
自分でもそう思っていたが、アラリスもやはり、そう思うのか。
ならば答えを教えて欲しい──。思わず、そう口を開きかけた。けれど。
「駄目だよ。答えは自分で見つけなきゃ」
アラリスはそれを見透かしたように小さく笑った。
それから、優しい目つきになってフィアの頬に手をやる。
「わたしに分かってることを教えてやることは簡単だけど、そんなことに意味はないんだ。それに、それがおまえにとって“本当に正しい答え”だとは限らないだろう? ……結局、自分の悩みに答えを出せるのは自分だけなんだ。人は助言したり、説教したりすることはできるけど、答えを決めることまではできないんだよ、フィア。分かるだろう?」
「うん……」
「だから今は焦らずに、ゆっくり考えるといい。納得のいかないまま行動して後悔するより、自分が本当に望むものは何か、心の中に問いかけてみなよ。時間は掛かるかもしれないけど、きっと、おまえは答えを見つけられるはずだ。わたしはそう思ってる。今はね」
アラリスの言葉は明るかった。
それじゃ行こう、と背中を叩かれる。
フィアは何か言おうとしたが、結局何も言えないまま、その手に頷き返した。