KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第七章 大教会の奇跡、再び 2

「行きそびれちゃった……」
茫然と呟くフィアは、下着姿のままで建物の外にいた。
あまりに慌てて部屋を飛び出したので、靴も片方、途中で脱げ落ちてしまっている。
こんな姿を誰かに見られたら叱られるところだが、修道院の中は驚くほど静まり返っていた。まだ太陽の気配も空の彼方にうっすらとあるような早朝とはいっても、いつもならすっかり身支度を整えた修道女の姿を見ることができる時間なのに。
今日はまだ、誰の姿も見ていない。
隣のトニアの部屋すら、おそるおそる扉を開けたらもぬけの殻だった。
顔を洗うための場所にも、誰もいなかった。いくら修道院の人数じたいが減ったといっても、こんなのは初めてだ。何か自分だけがここに取り残されているような気がして、フィアはさすがに言葉を失った。
(もしかして、わたし以外、みんなミサへ行ったのかな……)
そう考えると落ち着かない気分になった。最初からミサへ行きたいと思っていたわけではなく、むしろ『突然行ってもどうなるものでもない』と諦め気分だったから、それも妙な話だが。
それにしても別にみな、揃いも揃ってミサに行くこともなかろうに。途中で落ちていた靴をつま先につっかけて部屋に戻り、修道服に着替えながら、フィアは小さな吐息をついた。
──まあ、ミサは、本当は毎日だって行けばいいくらいなのだが。
あれは炊き出しに参加するついでに参列していたのであって、本来なら、朝の祈りは修道院内で済ませなければならない。そのための聖堂なら立派にあるのだ。しかし見習いのフィアと違い、敷地の外に出ることを滅多に許されないほかの修道女たちにとっては、やはり大勢の人が集まり、巨大な空間の中にとうとうと大司教の祈りの声が響く教会ミサは魅力的なのだろう。誰かが『明日ある』と思い出させたようなときには特に。
(やっぱり、行けばよかったかなあ。きっと会えなかったろうけど……)
悩みながらまたとぼとぼと外に出る。
以前はミサの後に会う約束をしていたから、必ず会えた。けれど今は違う。
フィアはときどきすっぱりと失念してしまうのだが、あれでも彼はこの国の王なのだ。
──王!
その仕事ぶりを間近で見たことがないから、日々何をしているのかさっぱり想像がつかない。つかないが、「きっと忙しいんだわ」ということくらいは察しがつく。ミサに参列する回数も、以前よりは減っているかもしれない。何しろ、自分と会うという、面倒な約束が今はないのだ。
とはいえ、“国王の義務”として、たまにはミサに行くに違いないが……。
(副院長くらいは、残っていらっしゃるかしら)
歩きながらぼんやり考えていると、今日目が覚めてから初めて、他の修道女の姿が視界に入った。フィアは思わず声を掛けていた。
「シスター・カレン!」
意外だった。彼女が残っているとは。
カレンはさっと振り返ると、驚愕に目を見開いてフィアを見た。
「誰かと思ったら、シスター・フィア! あなた……大丈夫なの!? 起きて、歩いたりして!」
「えっ?」
秀麗な眉をひそめてひどく心配そうに言われたので、フィアは面食らった。
「大丈夫って、何がですか? 一応、寝ぼけてはいないつもりですけど……」
そんなにおぼつかない足取りで歩いていただろうか? 寝起きとはいえ──。
「寝ぼけて? ……いいえ、そうではないのよ」
カレンは強く首を振り、フィアに歩み寄ってくる。そしてその手を、おずおずと握った。
「シスター・エミリアが、あなたが『高熱が出て、死にそうだ』と言っていたのを聞いたから、医師を呼んだほうがいいのではないかと思って。……ちょうど今、それを副院長に申し上げに行く途中だったのよ。でもあなたの手、そんなに熱くはないわね。冷たいくらい」
おかしいわ、とカレンは泣きそうな顔になった。
「ね……熱が上がりすぎると、今度は逆に冷たくなってきたりするのかしら!?」
「あの、手が冷たいのは、さっきそこで顔を洗ったせいだと思いますけど……」
フィアのほうも困惑しきった。
「わたし、熱なんかありません。大丈夫です」
「本当に!?」
「は、はい」
鬼気迫るカレンの問いかけに、気おされながら頷いた。
「シスター・エミリアの、いつもの勘違いだと思いますけど……」
するとカレンはほっとしたのか、大きく息をつき、「そう……」と呟いた。
「それなら良かった。あなたがそんな状態だというのに、みんな教会のミサへ行くというから、変だと思っていたの。シスター・エミリアは、たしかに少し大げさに言うところがあるものね」
カレンは安心し、ようやく笑みを見せた。フィアもつられて微笑む。
「ええ。シスター・エミリアは、たいしたことでなくても、面白がって大げさにするんです」
「そうよね。そのせいであなたはこのあいだ、憲兵隊に連れて行かれたんですものね」
「は、はあ……」
フィアは恐縮してうつむいた。自分の落ち度ではないはずだが、なんとなく立場がない。
「シスター・エミリアったら、本当に困った人! あのときはあとであなたが無実と分かって釈放されたから、良かったけれど。あのまま犯人にされていたらと思うとぞっとしてしまうわ。もちろん──」
カレンは真面目な顔で付け足す。
「そうなったら、わたしはあなたの釈放のために、できることをなんでもやったでしょうけど」
その言葉が、とても力強く聞こえた。フィアはじーんとなる。
「ありがとうございます、シスター・カレン!」
「まあ、いいのよ。お礼なんて。わたしのほうこそ、あのときは一度も様子を見にいけなくて、ごめんなさいね。外出を許してもらえなくて、誰も出られなかったのよ。シスター・デュリも失踪してしまって……。てっきり、仲の良かったあなたに会いに行ったのだと思ったのに」
考え深げになったカレンに、フィアは何も言わなかった。
デュリのことは、フィアの中にも、未だ棘のように引っかかったままだ。
「それにしても、どうしてあなたが『熱がある』なんていう話になったのかしらね。腑に落ちないわ。……たしかに、『シスター・フィアが』と言っていたのよ? 他の人と間違えているというふうではなかったのに」
それにはフィアも首をかしげた。
「うーん……? わたしにも分かりません。シスター・エミリアの考えることはさっぱり」
言いながら、以前、麺棒を振り回して追いかけられたときのことを思い出してみたりする。
まったく、エミリアの考えることは意味不明だ……。
「なんにしても、病気でないのならいいわ。……そうだ、一緒にお庭を歩かないこと? 畑を作るとしたら、どのあたりがいいか、誰かに相談に乗ってほしいと思っていたの」
「畑を作るんですか?」
フィアは驚いて訊きかえす。カレンはわずかに眉をひそめた。
「やっぱり、いけないと思う? 勝手に作ったりしたら」
「かっ、勝手に?」
カレンのことだからちゃんと誰かに許可を取ったのだろうと思っていたら、違うようだ。副院長に言ったほうが……と一瞬思ったが、そんなことが許可してもらえるはずもないと考え直す。
「あ、で、でも、建物を作るわけではないし。畑くらいなら、別に……?」
「そうでしょ? 花壇を作るのとおんなじだと思うのよ、わたし」
カレンはほっとしたように笑って、フィアの腕を叩いた。
「それじゃ行きましょ、シスター・フィア」
「あ、は、はい……」
「倉庫に寄って、土を耕す道具も持っていきましょうね」
「えっ……こ、これから耕すんですか!?」
「ええ。みんながいないうちに、と思って……ふふ。良かった、あなたが“元気”で」
カレンの強引さには屈託がなく、それだけに断りづらかった。
それに、関係ないが、前向きに“修道院居残り”を企んでいる笑顔がキラキラとして眩しすぎる。フィアはその眩しい笑顔の持ち主に、逆らう言葉も術も持たず、案外強い力でずるずると引きずられていくばかりだ。
「………」
「ここに残る覚悟を決めたからには、一日も早く種を撒かなくては! 実るのが冬を越してしまったら困るもの」
それはそうだ、とフィアは思った。
「でも、シスター・カレン……。本当にここの敷地内に畑を作るんですか?」
「そうよ。あなたが『畑を作る』と言ったときに、ピンと閃いたの。できるかもしれないって」
「……わたし?」
フィアは目をぱちくりさせる。カレンは前を歩きながら頷いた。
「ええ。それまで、そんなことは考えつかなかったわ。農地を所有している修道院はたくさんあるでしょうけれど、うちはそうではないもの。ここのきれいな地面を掘り起こして耕すなんて、それこそ全然思いつかなかった。でもあなたの、『閉鎖しなくてもすむ方法があるかもしれない』という言葉を聞いたときに、はっと目が覚めたの。そうだ、まだ道は閉ざされていはいない。農地やお金がなくても、やる気さえあれば、自分たちで道を切り開ける可能性がある。閉鎖を、まぬがれることができるかもしれないって」
「………」
「それからシスター・カタリナの言葉を聞いて、心が決まったの。彼女……言ったでしょう? 『与えられることに慣れすぎている』と。わたし、教会の炊き出しに参加しながら、ここで配っているものを自分たちで作れたらいいのにと漠然と思っていたの。そんなことも、もしかしたらできるようになるかもしれないでしょう? そう思ったら、いてもたってもいられなくなって。どうしてもそれをやってみたくなってしまったの。もちろん最初は、自分たちで食べるぶんだけで精一杯だとは思うけれど……」
カレンが語っているのは、彼女の夢だった。その迷いのない言葉の力強さに、フィアは言葉もなく聞き入っていた。──そこまで考えて、この修道院に残ることを決断したのなら、もう何も言えない。
「それで聖イローナへ行きたくないというのは、たしかにわたしのわがままだと思うわ。この修道院の敷地も、エトヴィシュ公爵家のものだしね。でも、建物を取り壊して地下の遺跡を発掘するというなら、少しくらい掘り起こしたって構わないと思って。もちろん、公爵家には手紙を出して、閉鎖しなくてすむようにできないかとお願いするつもりだけど、もし駄目なら、どこか他の土地に修道院を建てるわ」
その言葉を聞きながら、もし自分なら、やはり畑は作らないだろうとフィアは思った。
いつ閉鎖されるか分からない修道院の敷地。永遠に作物が実ることがないかもしれない畑に、種を撒き、毎日水をやることができないだろうと思ってしまう。
だが、カレンは違う。彼女は駄目かもしれないと分かっていながら、『来るかもしれない明日』のために種を撒くのだ。それが実るのを見られたらどんなに素晴らしいだろうと思う。そんなふうに自分も、見えない明日を迷うことなく、疑うことなく、まっすぐに信じられたらいいのに……。
「そうして聖ドロテアの名前だけは、なんとか残そうと思うの。それだけは許していただけたらいいのだけど……」
「シスター・クリステラだったら、分かってくださるんじゃないかと思います」
フィアは思わず呟いた。カレンが振り返り、驚いたように目をみはる。
「あなた、シスター・クリステラをご存知なの?」
「ええ……。偶然、お会いしたことがあって。とても気さくな、優しい方でした。だから、きちんと話せば、彼女なら事情を分かってくれる気がします。公爵さまのほうは、なんと仰るか分からないですけど……」
「そうなのよね……。わたしも、どうしてこんなに急に、修道院を閉鎖するとか、建物を取り壊すとか、そんな話になったのか分からないの。公爵家は、信念を持ってこの修道院を運営されているのだと思っていたわ。でも公爵家ゆかりの院長が任を降りられたということは、やっぱり、エトヴィシュ家は修道院の運営から手を引かれるということなのよね……」

「──え? そうなんですか?」

ふと、どこかから男の声で、少しばかり意外そうな言葉が響いてきた。
カレンもフィアも、ぎょっとして振り向く。
その視線の先にいるのは、銀糸を織り込んだ高価そうなマントに身を包んでいる、二十代後半ほどかと思われる男だった。見とれるような綺麗な顔立ちをしており、色は白いが、すらりと均整の取れた長身のせいか、さほど柔弱という感じはしない。よく見れば芯の強そうな瞳の輝きは、かすかに憂いを帯びた長い睫に彩られて、その表情に複雑な繊細さを与えている。
(あ、あれ!?)
フィアはそれを見るや否や、絶句してしまった。
(こ、この人って──ノ、ノイ──な、なんでこんなところにいるの!?)
その若い男の後ろには、さほど年が変わらないか、いくつか年上なだけであろうと思われる男が、さりげなくあたりに視線を配りながら立っていた。こちらも色は白いが日に焼けていて、健康的な感じだ。体つきもやや大柄に見える。ぱっと見、若い貴族と、その忠実な従者──という感じだった。
「あ……。しまった。声を掛けるのはあとにしようと思ったのに」
貴族風の若い男が、うっかりしていた、というように手を口元にやって呟いた。
その声は、どんなに騒がしい人ごみの中であっても、ふっと突き抜けて聞こえてきそうな麗しい美声だったが、人柄の良さが滲み出ているかのように、どこかほのぼのとした響きがある。
後ろの男のほうは、何も言わず黙々と立っていた。こちらは木さながらの寡黙さだ。
その後ろから、ちょうど男たちの背に隠されて見えなかった修練長のレオノーラが足早に出てきて姿を見せた。訝しげに男ふたりを見上げる。
「どうなさいましたの? 伯爵さま。……こちらのシスターたちが、何か」
「あ、いえ。興味深い話をなさっておられたので、つい口を挟んでしまいまして……ご無礼を」
若い男は落ち着いた口調で言ってから、レオノーラを見た。
「すみません。案内していただく途中で、勝手に足を止めてしまって。……行きましょう」
「え、ええ……。副院長室は、あちらです。どうぞ」
レオノーラは若い男の顔を訝しげに見つめてから、カレンとフィアのほうをちらりと見て、それから「こんなところで油を売っていてはいけませんよ。他の仕事が済んでしまったのなら、談話室の掃除でもしていらっしゃいな」と咳払いしながら苦言を呈した。どうも、この修道院のシスターがぶらぶらしているというふうに、この客人たちに見られるのを気にしたようだった。
「──あ、あのう!」
客人ふたりとレオノーラが背中を向けたところで、フィアは思わず叫んでいた。
レオノーラがまたも訝しげに振り返る。
「どうしました? シスター・フィア」
「え、あ、あの……」
フィアは生唾を飲み込んだ。
それから若い男のほうが、ふとフィアを振り返り、にこり、と微笑んだ。何も言わないで、分かっていますから、と言っているような笑みだった。それを見てフィアは、思わず片頬に手をやってしまう。
「あ、……えーと……」
「何か言いたいことがあるのなら、仰いな。どうしたというのです」
レオノーラの不審そうな視線を受け、フィアは「い、いえ」と息を呑んだ。
「なんでも……ありません。その、……いらっしゃい。ごゆっくり、どうぞ……」
「……『ごゆっくりどうぞ』? あなたは何を言っているのです? まったく……」
レオノーラは首をひねりつつも、客人を副院長室へ案内するという自分の役目を思い出したらしい。
「失礼いたしました、それではこちらへ」
と、丁寧に言うと、裾をさばいて足早に歩き出した。
残されたカレンとフィアはしばらく黙っていたが、やがて、カレンのほうがちらっとフィアの顔を見て口を開いた。
「シスター・フィア。今の方、お知り合い?」
「えっ。い、いえ。あの……」
フィアはカレンのカンの鋭さにぎくりとしつつ、慌てふためいて答えた。
「よく知っている人に、似ていたんですけど……」
「もしかして、あなたの婚約者の方がご挨拶に来られたのかと思ったけれど、違うの?」
人差し指を唇に当て、当て推量してみせる顔がかわいらしい。
「あ、そ、それは違います。あの人ではなくて……」
「でも『後で声を掛けるつもりだった』と仰っておられなかった? あの伯爵さま」
「は、伯爵……」
それは聞いたことのない話だ。
ノイエはいつから伯爵さまだったのだろう? 一度も聞いたことがないのだが……。
「伯爵なんていう偉い方に、知り合いはいませんから、やっぱり……気のせいでした」
とりあえず今はそういうことにしておこう、と思う。
特に、顔が似ているとか似ていないの話では過去に大失敗した身の上なので、今ひとつ自分を信用できないフィアだった。──それにだいたい、ノイエがこんなところにやって来る理由がさっぱり分からない。
ヴィクターからは、『ノイエはしばらく王都には来ないだろう』と聞いていた。どうもシグワスのことで何か憚りがあったらしい。ヴィクターが咎めたのか、ノイエが自重したのか、どちらなのかは判然としないが、いずれにしてもそういうことなら、ノイエ自身も王都に来たくはないだろうなと、そのときフィアは彼の心中を想像したものだ。
「と、とにかく、談話室を掃除しないといけませんね……。修練長がそう仰ったから……」
と言いながら、フィアはカレンを振り返った。するとカレンは、「畑は?」と困ったように、けれどそれだけは譲らないというようにはっきりと言ったので、フィアは自分がこれから畑を作りに行くところだったと、「あ」と呟いてようやく思い出せた始末だった。