高台にある城は、昼の光を受けて鈍い銀色に輝いていた。
フィアは護衛たちとともに、正面の門まで続く、曲がりくねった坂道をのぼった。
おばは途中まで一緒だったが、そこで気分が悪くなってしまい、離脱せざるをえなかった。
下で『腹が減った』と言い、ルーデックに無理やりパンを買ってこさせ、それをフィアと一緒に食べたまでは良かったが、食後のあとの上り坂がどうにもこたえたらしい。息切れし、青ざめ、とてもではないが立ってもいられないようだった。
『あとで必ず追いつくから』というおばは、けれど、フィアを行かせまいとするかのようにその袖を強く掴んでいた。フィアは不安げなおばに、『大丈夫。用事をすませたら、ちゃんとおばさんを迎えに行くから』と約束した。それでもおばが納得しないふうだったので、『もしもはぐれてしまっても、この門の近くにいてくれれば必ず会えるはずだ。自分も、帰りはそこを通るのだから』と説明までした。
それでようやく安心したのか、おばはうなずいた。
去り際、道のはじの草むらに座り込み、置いていかれるような顔でフィアを見送るおばがとても哀れに見えて、フィアはなるべく早くおばを迎えに来なければ、と自分に言い聞かせた。
そして足早に坂をのぼるフィアに、ルーデックが隣に並んで、話しかけてきた。
「そんなに急いだら、あなたも疲れてしまいますよ。ほどほどにしたほうが……」
「大丈夫。わたし、これでもけっこう体は丈夫だもの」
フィアはさほど息を切らしもせず、答えた。
おばとのやりとりでけっこう長く休んだので、息も整った。
それに、もともと山の育ちだ。聖アルメリアでは、毎日のように水汲みやら、食料探しやらで、道なき道を行き、獣のうろつく森に分け入ったものだった。王都へ来てからはそれほどの重労働はなかったが、長年鍛えた体は、そう簡単に弱りはしないようだ。
見覚えのある城門までもう少し。
フィアはいっそう先を急いだ。目的地が近いと分かれば、自然と足も速まる。それに、その先には彼がいる。おばのことがあるから、早く用事を済ませるといっても、彼に会ったら話したいことはいろいろあった。なるべく手短にはするつもりだが……。
「ルーデックさん、わたし、先に行くわ」
フィアはもう走るような勢いだったが、ルーデックは呆れたように、
「あなたひとりで、城門を通り抜けられると思ってるんですか?」
と言った。
それを聞いて、フィアは(それもそうだわ)と思ったが、それでも気がせれて仕方がない。自分が先に上に着いたとしても、そう問題があるわけでもない。そう考え、フィアはやはり、ルーデックを置いていくことにした。
ついに頂上につくと、城門の巨大な扉は、今日は大きく開け放たれている。
フィアはしばらくじっとしていた。
普通ならこういうところには必ず門番がいて、通行する者を呼びとめるはずだった。そして、身分を確かめるためにあれこれと質問してくるのだ。あまり友好的ではない態度で。フィアも、乏しい経験からそのことは分かっていた。
けれど、門番らしき者の姿はない。
いや、いるにはいるのだが、近くではない。少し離れたところに二・三人ほど集まり、雑談に興じている。その様子をフィアはぼーっと見守った。平和的といえば平和的だが、ぱっと見、怠けているようにも見えた。
フィアは、こんなことでいいんだろうかと思いながら、おそるおそる、城門をくぐってみた。
下から、たらたらと歩いてきていたルーデックが、「ちょっと! 勝手に先に行かないでくださいよ!」と罵声を浴びせてきたが、フィアは知らんふりをして城門を通り抜けた。知らんふりをしたというか──門番に見つかって咎められないかどうか、内心ではヒヤヒヤしていたのだが。
(と……通れちゃった)
フィアは振り返った先にある城門を見上げて、少しばかり愕然となった。
城は警備が厳しいとばかり思っていたのに、なんだろう。ずいぶんと甘い気がする。
こんなことでヴィクターは大丈夫なのだろうか?
などといろいろ心配していたが、ふと前方に視線を転じた瞬間、事態を呑み込んだ。
(あっ、そうか……今日、謁見日なんだ!)
フィアは心の中で思わず叫んだ。
その瞳に映っているのは、門にまで迫ろうかという長蛇の列。今までのぼってきた坂道さながらに、右に左に蛇行している。貴族らしき者もいれば、商人らしき者もおり、貧しい身なりの人々も大勢混じって見える。
そういえば、今朝、誰かが言っていたような気がする。謁見日だと。
今さらのように思い出し、フィアはしばし、その場に立ちつくした。
「……足、速いですね」
ルーデックは、少し息を切らしていた。
ちょっと舌打ち加減に睨まれて、フィアは彼を振り返る。
「え……そ、そう? なんだか、気分がこう……昂ぶってて、急いでいたから」
その答えにルーデックは何も言わなかった。ただ、少し空しそうな顔をしただけである。
本来なら、騎士としての役目を果たすために毎日体を鍛えている若いルーデックと、いくら山育ちとはいっても、特に訓練をしていない元・修道女のフィアとでは、体力が拮抗するはずもない。まして“坂道で抜かれる”などということがあってはならなかった。
なのにそれが逆転してしまったのには、理由がある。
ルーデックのほうは、毎朝毎朝、日の出頃に(出勤のため)強制的に登らされているこの坂に対して、たいして積極的な思いを持っていなかった。というよりもむしろ、この坂道は、めんどうくさくて好きではなかった。
一方のフィアはというと、いよいよ想い人に会えるのだという気持ちのために、興奮し、いっときも落ち着いていられない気分になってきて、ついには走り出したいほどだったから、それで差が出たのだろう──
と、少なくともルーデックは、心の中でそう結論した。
それは実のところ、事実とは少しだけ違っていた。
フィアはたしかにヴィクターに会いたかったが、何も、何日も何週間も会っていないというわけではない。つい先日も、ヴィクターのほうから修道院に来て、会ったばかりだ。
フィアが彼に対して距離を感じるたび、まるでその心が読めるように、彼は自分から距離を縮めに来る。──いつも不思議に思っていた。国王と自分の関係など、そう長く続くわけがない……どこかでそう思っていたフィアが、今日まで諦めもせずにこれたのは、そのおかげだった。
だからヴィクターを遠いと、最近はちっとも思わなかった。
今日、フィアが坂道を走ってのぼったのは、ただ会いたいからではなかった。
今までは、彼に対して気後れを感じていた。自分はただの見習い修道女。そして彼は国王。だから躊躇したのだ。でも、還俗して、全てが変わった。修道女でなくなったことに、まるで蜘蛛がその巣から転がり落ちてしまったかのような不安を感じはしたが、そのかわり、もうどこへ行っても自由なのだと思うと、なんともいえずわくわくした気持ちになれた。
坂道をのぼる途中からだ。そんな気持ちを感じ出したのは。
正直なところ、今朝還俗の式がはじまってからは、ひどく憂鬱だった。
何かどうでもいいことのように、全てが雑然と、瞬く間に終わってしまった。司祭に忙しそうに背中を向けられた瞬間、フィアは、自分が住み慣れた世界から、まるで追放されてしまったかのような錯覚に陥った。
自分で選んで、修道院を出たはずだった。
こうなることはずっと分かっていたし、覚悟もしていた。
それでも、ショックだった。自分で予想しなかったほど、落ち込んでしまった。
混乱した気持ちのままで副院長との別れを迎えたころ、フィアは心細さのあまり、ほとんど泣きべそをかきそうになっていた。副院長は「泣かなくていいのよ」と言ってくれたが、泣くまいと思っても、涙のほうが耐え切れずにこぼれ落ちていく感じだった。
けれど……。
それから時間が経ち、おばと食事をとって休憩したり、いよいよ城へ行くという段になると、にわかに気持ちが明るくなってきたのだ。
のぼりにくい坂道を、一歩一歩、自分の足で大地を踏みしめ進むごとに、自分の中にあるモヤモヤした気持ちや、暗いくいじけた気持ちが、見上げる空の、高い高い群青の中へ吸い込まれていくようだった。
空気が爽やかだった。今まで感じたことがないほど。
それを胸いっぱいに吸い込むたびに、フィアの心は晴れやかになっていった。
そうしてどんどん元気が出てきた。だから、最後は走り出してしまったのだ。
ああ、もう自由なのだ。何をしてもいい。どこへ行ってもいい。
出かけるときに院長の許可は必要ない。朝、少しくらい寝坊したって誰も怒らないかもしれない。街をぶらつきながら、さっきみたいに食べたいものを食べてもいいのだ。もちろん──ヴィクターと一緒に暮らすようになれば、それもまた微妙に変わってしまうのだろうけれど。
少なくとも今は、今だけは、この体は自分のものだ。
心も。
だからフィアはやたら元気いっぱいだった。
下に残してきたおばのことさえ、束の間、忘れてしまうほどに。
城門をなんなく通り抜けたあとは、はねるような足取りで広場へ向かった。
ルーデックは仕方がなさそうにそれを追いかけた。
彼にしてみれば、毎日毎日、見慣れた坂道であり、見慣れた城門であり、見慣れた広場でしかなかった。何がそんなに嬉しいのかとばかりに、彼はフィアを呆れて眺めていた。それから、あまりにもフィアが好き勝手に奥へ行きそうになったので、この仕事にあまりやる気を感じていない彼もさすがに走るしかなかった。
「ちょっと……レディ・フィア! 走らないでください。勝手な行動を取らないように!」
ルーデックは忌々しげに言い、後ろを振り返った。
自分以外の護衛たちは、門のところで、門番たちと一緒になって雑談をはじめてしまっている。それを見てげんなりした。結局、めんどうくさい仕事は、いつも新入りの自分に押し付けられるのだ。
もともと、他の護衛たちは、フィアの護衛に乗り気ではなかった。ルーデック以上に。
国王が修道院を警護しろと命じたとき、護衛を選んだのは、命令を発した国王自身ではなく、近衛騎士団長のウルリクだった。彼は自分の側近格の、熟練の騎士たちばかりを選んだ。──そこまでは何も問題はなかった。
しかし、仕事がはじまると、徐々に深刻な問題が明らかになっていった。
ウルリクが信頼した騎士たちは、たしかに、その信頼に足るだけの思慮分別と経験を兼ね備えていた。しかしその思慮分別と経験が、この場合、あまり良くないほうに働いた。つまり──彼らはこう推測したのだ。自分たちの“まともな”頭で。
──『国王が執心している娘という噂は聞くが、なんの後ろ盾もないのだろう? それでは、肩入れするだけバカを見るというものだ』。
──『それに、ケルティス伯爵や内務卿をはじめ、宮廷の御偉方が、自分の娘を王妃に──と虎視眈々狙っている……』。
──『噂によれば、宮廷を退いたはずのエトヴィシュ公爵も、ひとり娘の輿入れを強く望んでいるらしい。宮廷の重鎮だったあのかたが戻って来られるおつもりなら、それに敵対するような行為は極力慎まねばならん! いずれ名実ともにこの国第一の重臣となる方に、今から睨まれたのではかなわないからな……』。
そうした判断があって、彼らは、フィアと極力距離を取る作戦を選んだ。
本人の前後左右にベッタリと張り付くのではなく、周囲に何か問題はないか、危険はないか、それを冷静な目で確かめ、必要があればそれらを排除する。それで十分だと彼らは判断したのだった。そして聖ドロテア女子修道院の中に、フィアを脅かすものはもはや存在しなかった。
そんなわけで、ほとんどの護衛たちが、のんびりと修道院の中を探索し、豪勢な建物を見て回って日中を過ごした。ところどころ、廊下の隅に飾られた芸術品を見つけると、嬉々として鑑賞会を開いた。近くにいる二・三人で集まってああだこうだと語り合うという、即席の鑑賞会である。
ときには本物の“史跡調査官”であるかのように、地下がどうなっているのか確かめたいと言って、そこへもぐっていく者さえいた。その者が『地下はけっこう面白かった』と発言すると、他の者たちも、徒党を組んで入っていく有様。『オッサン、あんたらはいったい何をしに来たんだ!』と怒鳴りたいほどだったが──
新入りのルーデックに、むろん、そんなことが言えるはずもない。
彼に発言の自由などなかった。自由な行動さえ許されないのである。
今回自分が護衛に選ばれたのも、他の護衛たちの雑用をする者が必要だからではないか……と勘ぐってしまうほど、ルーデックは遠慮も会釈もなしに皆からこき使われた。食事のおかわりをもらってきてくれとか、酒を買ってきてくれとか。ときには服の替えまで取りに行かされた。誰ぞの実家まで。
フィアと『会話をする』という役目も、いつのまにかルーデックの仕事にされていた。
今日までは会話する必要がなかったから良かったが……。
フィアが王妃になるはずがない、と思っている人々にとって、フィアとの会話など、なんの価値もない。そのことはルーデックにも理解できた。だから仕方なく、自分がフィアと喋った。今日はその必要があったから、思いのほかたくさん喋った。彼女と彼女のおばが腹をすかせているらしいと分かれば、文句を言わずにパンとリンゴを買ってきてやったりもした。
しかし、他の護衛たちが『お役御免』とばかりにフィアから目を離しているのを見ると、自分もそろそろ帰らせてもらってもいいのではないか、と思えた。
そうしてもいいはずだ。ルーデックは暗い目をする。
もし何かあっても、団長ウルリクの大目玉をくらうのは、新入りの自分であるはずがない。あそこで、愉快そうに雑談している連中だ。国王のことすら、『しょせん、即位したばかりの若造』とばかりに軽く見ている熟年の先輩がたとて、長年の上司であるウルリクに叱り飛ばされたら面目をなくすだろう。ウルリクより年上の者も、年下の者も。
それなら、もういいのではないか?
どうせ、自分が叱られるわけでもないのなら。
フィアはといえば、少し先で、何か探すようにきょろきょろとあたりを見回している。
何を探しているかなど、興味はなかった。まさかこんな広場で、国王を探しているというのでもあるまいし。知り合いでもいるのかもしれない、とルーデックは投げやりに考えた。
もともと、彼女は騎士の知り合いが多い。
今日の護衛たちのように、国王の命令よりもウルリクの命令のほうを重視する騎士ではなく、国王に近しい、いってみれば、国王と終始馴れ合って機嫌をうかがっているような騎士たちである。メルヴィンやフィルデールやベリスといった。
そういう連中が、さっさと彼女を見つけてくれればいい。
そう思いながら、ルーデックはフィアに背を向けようとした。
けれどそれも、最後に、ちらりとフィアの様子を見るまでのことだった。
──フィアはもう何も探していなかった。目的のものを見つけたらしい。
そして、彼女はおとなしくしていた。
おとなしく、列に並んでいた。──謁見の列に。