KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第九章 謁見 9

フィアは薄暗くなった空を見上げた。
ここがどこで、自分が何をしに来たのかさえ、よく分からなくなっていた。
城の前庭には相変わらず長蛇の列がある。その両脇に、列を守るようにかがり火が焚かれていた。音を立てて燃えるその炎が、城壁の上を行ったりきたりする兵士たちの姿を鮮やかに浮かび上がらせる。
レヴィンの言葉──兄のことやデュリのことなどが、フィアの心に泡のように浮かんでは消えていく。何かを考えようとしても、思考がまとまらなかった。頭がそれを拒絶している。
「フィア!」
白昼夢を見ているように、ただぼんやり立ち尽くすだけだったフィアの耳に、もう聞き慣れた声が飛び込んでくる。振り向けば、駆け寄ってくるのはおばだった。少し走るだけでもう苦しそうだ。最後はフィアの肩に寄りかかるようにして止まり、荒い息をつきながらしばし休む。
「あ、あんた、こんなところに……」
おばは息を切らし切らし言った。フィアはその声を耳元で聞く。
実感が戻ってくる。
自分がどこに立っていて、何をしようとしていたのか、少しずつ思い出す。
「あんたと離れたくない一心で、なんとかここまで登ってきたんだけど、どこにも姿がないから驚いて……。あんたを探して城中走り回ったよ! 途中で衛兵に呼び止められたりして、心臓が止まりそうになっちまった」
おばが青ざめた顔でまくしたてる。
「何も悪いことはしてないんだけどねえ。借金なんてあると、ちょっと声を掛けられるだけでも震え上がっちまうんだから、いやなもんだよ本当に。だけどともかく、あんたを探さなきゃって、そのことだけが頭にあって……。なんとか逃げてきたよ」
フィアは自分をすがるように見つめてくるおばの瞳を、じっと見つめ返した。
そのうちになぜか涙が滲んできて、フィアはおばをぎゅっと抱きしめた。おばはそんなことは予測しなかったのか、フィアの耳元で息を呑む。フィアはしばらくそうして、じっとしていた。自分の中に吹き荒れそうな、悲しみの嵐をやりすごすために、その時間が必要だった。
「フィア……あんた、いったいどうしたんだい」
「わたしはどこにも行かないわ」
フィアは泣くのをこらえ、強く囁きかけた。
おばがごくりと唾を飲み込む音がする。
「約束したじゃない、おばさん。何度も。わたしを信用してくれないの?」
おばは何も言わなかった。驚いているような気配が、腕に伝わってくる。
フィアがようやくおばを放したとき、おばは我に返ったような顔をした。
「い、いや、そうじゃないけど」
「じゃあどうして、そんなに慌ててわたしを探すの? どこにも消えたりしないのに」
フィアはそのことだけは不満に思った。おばは自分と離れるのを極度に嫌がるし、ちょっとのあいだ離れるだけでも、こんなふうに不安そうにする。気持ちは分かるが、もう少し信じてほしい。
「それは、ほら……あたしはもう長いこと、人なんか信用してこなかったから」
おばは目を白黒させる。
「人は平気で嘘をつくし、裏切りもするしさ。……ねっ、そうだろ!? だからあんたのことを、その……『信用してない』っていうんじゃないんだよ。フィア。そこは分かっておくれ。だけどあたしはいつだって不安でいっぱいなんだ。神さまに見放されちまった人間ってもんは、自然とそうなっちまうんだよ」
おばは懸命に説明する。
そして最後に、「やっと会えたんだから、もう二度と離れたくないんだよ」とうなだれた。
「あんたはもう、あたしにとっちゃ“娘”みたいなものなんだ。妹には何もしてやれなかったけど、あんたには、こんなあたしでも何かしてやれることがあるかもしれない。そう思うと、一瞬たりともあんたと離れていたくないんだ。もし神さまがあたしに償いの機会を与えてくだすっても、そのときにあんたが隣にいないんじゃ、どうしようもないじゃないか……」
「償いなんていらないわ」
フィアは言ったが、おばの言葉は心から嬉しかった。
自分のことを『娘』と呼ぶことのできる人。そんな人に、もう二度と会えないと思っていた。
まるで天国にいる母が、おばを教会へ導いてくれたとしか思えない。今となっては、その機会を作った形のエミリアへも、感謝したい気持ちだった。それがなければ、こうしておばと再会することもなかったろうから。
「……あんたがそう言ったって」
しばらく黙っていたおばが、ぽつりと呟く。「あたしは──」
しかしその声は、突然張り上げられた男の大声によってかき消される。
「謁見の列を打ち切るぞ!」
「あっ」
フィアは『謁見』の言葉に反応し、振り向いた。
今まさに、謁見の列が打ち切られようとしているところだった。槍を持った衛兵ふたりが、列の最後尾に立ちふさがる。その列も、もうずいぶんと短くなっていた。フィアはそれを見て慌てた。
「おばさん、ごめんなさい」
爪先立ち、フィアはおばに向かって謝った。
「わたし、まだ用事を済ませてないの。ちょっと行ってくる」
「『まだ用事を済ませてない』だって?」
おばはさすがに呆れたようだった。鼻息を荒くする。
「あんたって子は、まあ、なんてとろくさい子なんだ! 今まで何をしてたんだい!?」
「それは、その……」
フィアはもじもじとうつむいた。おばのため息が聞こえる。
「まあ、いいよ。とにかく、そろそろあたしに話してくれたっていいじゃないか」
「話すって、何を?」
「このお城の中に、あんたのいい人がいるんだろう?」
おばの鋭い言葉に、フィアは驚いて目をしばたいた。
「そうだけど……。どうして分かるの?」
そりゃあ分かるさ、とおばは地団駄を踏む。
「さあ、どこの誰なのか打ち明けておくれよ。男爵さまかい? それとも、もしかして……伯爵さまかい? あそこに突っ立ってる立派な騎士さまは、あんたの知り合いじゃないのかい?」
おばが指差すほうを見ると、たしかに『立派な騎士』が立っている。
口髭を生やした四十ほどの男である。典型的な中肉中背、それほど屈強な体つきではないものの、身なりは上等、剣を腰に差した立ち姿にはどことなく品があった。見るからに貴族と分かる。きれいに整えた口髭を優雅な手つきで引っ張っているのも、おっとりとした感じで憎めない。
「メルヴィンさん」
フィアはぽかんとして呟いた。たしかに、あれはメルヴィンだ。
視線の先で、口髭の騎士もフィアが分かったのか、肩を竦めてみせる。こちらに向ってひらりと手まで振ってくれた。
「そら、やっぱりだ!」
おばはいかにも嬉しそうに手を打ち鳴らした。
「あんたのことをもの欲しそうに見てるから、そうじゃないかと思ったよ」
「『物干しそう』?」
首を傾げたフィアには目もくれず、おばはメルヴィンを注視する。
「ふん、ふん。まあ、なかなか立派な身なりのお人じゃないか。ちょっと年がいってるけど、神さまがお怒りになるほど離れてるってわけでもないし。父親がわりだと思えば、あんたにはちょうどいいかもしれない。それにまだまだ元気そうだ。……あの黒々とした髭を見てごらん! 白髪じゃなかったらよしとしなきゃ」
おばはどこか下世話な口調で言い、熱心にメルヴィンを品定めしていたが、その当のメルヴィンが、二呼吸もしないうちにおばの視界に背を向けてしまった。おばが顔をしかめて口をつぐむ。
薄暗がりだが、向こうから誰かが呼んでいるようだ。「メルヴィン卿」と小さな声が聞こえる。
「行っちまったよ、あの男」
おばが気に入らなさそうに呟いた。
「うん、そうね」
フィアは軽く頷いた。彼には彼の用事があるのだろうと思いながら。
そして、自分には自分の用事があったことを思い出す。
「わたし、列に並ばなきゃいけないの。急がなきゃ」
フィアの呟きに、おばも我に返ったようだった。
「えっ、なんの列だい?」
「謁見の列よ、おばさん」
「なんのために?」
おばはぽかんとなった。フィアはもう歩き出しながら、「用事はたくさんあるの」と言った。
「おばさんの借金のこともあるし、今日の宿のこともあるし。もし……どこも駄目だったら、お城に泊めてもらえるかどうか訊いてみる。部屋はたくさん余ってるんだし、ひとつくらい貸してくれるといいんだけど……」
「借金? 宿?」
おばが目を丸くした。
次の瞬間、彼女は悲鳴のような声を上げた。
「あんた、いったい何を直訴しに行くつもりだい。フィア!?」
「えっ?」
フィアは歩きながら振り返る。おばがすがるようについてきた。その顔は悲壮に歪められており、その手はフィアの服の裾を強く引っ張り、力任せに引きちぎらんばかりだった。さすがに歩みを止めるしかない。
「おばさん?」
「やめておくれ、どうか……ああ、後生だから! そんなこと、誰があんたに頼んだんだ。『王さまに直訴してくれ』なんて! あたしは何も言っちゃいないよ! そんなことしてくれなんて、一言だって言いやしなかったよ! あんたすっかり頭が変になっちまった。さっきだって、あんなにぼーっとした、魂が口から抜けたような顔で突っ立って」
おばは泣き出さんばかりの顔になっていた。
「いいから、こっちにおいで! 謁見の列なんてものに、あたしゃこれっぽっちも用なんてないんだ。あんたもそのはずだよ、フィア! ──とにかく、さっきの人はどうしたんだい。なんであんたを置いて行っちまったんだい。あんたの結婚相手なんだろう!? それを説明しな!」
「結婚相手じゃないわ」
フィアは目を丸くする。
「それならいったいなんなんだ! なんであの男はあんたを見てたんだ。あんなにじっと」
おばはよほど気が昂ぶったのか、本当に涙を滲ませていた。
「あんただって、『知り合いだ』と言ったじゃないか。えっ!?」
「知り合いは、知り合いだけど……。結婚するわけじゃないわ」
フィアはおばの剣幕に押されながらも、おずおずと言う。
「あの人、たしかもう結婚してるもの」
「まったく、わけのわからない子だね。城なんかに来て、てっきり結婚相手と会わせてくれるのかと思ったら。──あたしの“借金”だって? “今夜の宿”だって?」
おばは肩を震わせる。ついに癇癪が爆発する瞬間がやってきた。
「そんなもの、王さまに直訴してどうなるってんだ!! 言えば、王さまが借金を帳消しにしてくれるのかい? 今夜の宿を用意してくれるってのかい? ああ、あんたの頭は本当におめでたい。中には何が詰まってるのか知りたいよ。腐ったカボチャくらいなもんだろうけど。それだってあんたの頭にされるくらいなら、足を生やして畑から逃げ出すに違いないよ!」
ものすごい勢いで罵られ、フィアはうっとひるんだ。
言い返す言葉はすぐに思いつかない。おばの怒鳴り声はフィアの思考を停止させた。
数瞬、沈黙が流れる。おばのほうは目を血走らせていた。
「あ、あの」
やがて、唾を飲み込んでフィアは言った。それから、ちらりと後ろを振り返る。
「列に並ばなきゃ」
「まだ言うのかい! あんたって子は!」
おばは地面を割るような勢いで地団駄を踏んだ。
「それなら勝手にしろってんだ! あたしゃ知らないよ、馬鹿げたことを直訴して、衛兵に首を刎ねられたって」
やがて彼女は決別の宣言を、もう暗くなってきた空に向かって高らかにした。
「謁見の列に並んだくらいで借金が帳消しになるなら、この世は天国だ。あたしだっていくらでも列に並ぶさ、喜んで! だけどそうじゃないから苦労してるんじゃないか。修道院育ちのあんたには、そんなことはちっとも分からないんだろうけど」
おばがわめき散らしていると、そばに衛兵がやってきた。
「おまえか、先ほどから大声を出しているのは。静かにしないか」
衛兵が不機嫌そうな顔で言う。おばは飛び上がって恐縮した。
「すみません、すぐにここから出て行きますから。今すぐに!」
そして、鬼のような形相でフィアを振り返った。
「さっ、行くよ、フィア。今夜の宿ならあたしが探してあげるから。王さまに向かって『お城に泊めてくれ』と言うくらいなら、教会の裏で寒さに震えながら寝るほうがましってもんだからね」
衛兵に聞こえないように、フィアの耳元で猛然と囁く。
フィアはみじめな気持ちになった。
またこれだ。
ヴィクターのことを言おうとするたび、『王さま』の問題が持ち上がってくる。
(どうしてあの人、王さまなんかになっちゃったのかしら)
もう何度したか分からない問いを心の中で呟き、フィアは薬指の爪を噛んだ。カタリナがよくやるので、見ているうちに知らず移ってしまった癖だ。しかし、カタリナはそうして考えごとをするうちに良い案を思いつくこともあるが、自分は駄目だった。
(普通の人だったら、こんなに苦労しなくてすんだのに)
気が滅入ったが、そんなことを今さら言ってもしょうがない。
フィアは謁見の列を眺めた。衛兵たちはこちらに背中を向けていて、もう誰も列に入れる気がないように見える。しかしそこへ行かなくてはならなかった。城へ来たのはヴィクターに会うためだ。なんだか分からないうちに連れてこられてしまったことは残念だが、来た以上は彼に会って帰るつもりだった。たとえそれが困難なことだとしても。
フィアは意を決して歩き出した。
列に並んで、彼に会う。とりあえずそれだけ考えようと思った。たしかにいきなりすぎるから、「何しに来た」と驚かれ、「帰れ」と叱責されるかもしれないが、そんなことを心配するのは実際に叱られてからで十分だろう。
「フィア! おやめって言ってるじゃないか。あたしの言うことが聞けないのか!」
おばが後ろで癇癪を起こしたが、フィアは振り向かなかった。
おばに説明していたら日が暮れてしまう。今は行かなくては。
「王さまなんてのはね、いちいち庶民の頼みごとなんか聞いちゃくれないんだ。世の中の道理の分からない娘だね。だからあんたはバカだっていうんだよ。そんなバカな娘とは縁を切るからね。あたしはなんの責任も取らないよ、本当に知らないよ! どうなっても!」
おばのわめき声を聞きながら、フィアは小走りになる。そうして衛兵に駆け寄った。