出てきたのはベリスではなく、デュリだった。
端正な顔を心持ちしかめっつらにして、フィアを見ている。
フィアはその彼の顔を見上げた。
胸に安堵が深く広がる。
さっきまで泣きたいような気持ちだったのを思い出した。悲しいからではなく、デュリにまた会えたことが嬉しかったのだ。その嬉しさのあまり、涙の気配を思い出した。それは少しずつ近づいてきて、やがてフィアの目じりを湿らせた。
「無事だったのね、デュリさん。……心配したんだから、本当に!」
声を詰まらせて言った。デュリは無言でいる。
行き場のないように、視線を、フィアの後ろの夜空に投げた。そのまま空を眺めている。まるで目を合わせたくないと言っているようで、少しばかり傷ついたが、そのことには構わず続けた。今は自分の気持ちなどどうでもいい。
「あなたが、何か危険なことに巻き込まれてしまったんじゃないかって……。『毒殺犯を捕まえる』なんて言って、それっきりいなくなってしまったから」
「……あのさあ」
やがてデュリが口を開いた。なんだか眠そうにも見える顔で。
「うん」
フィアは息を呑んで頷いた。
「悪いんだけど、きみの相手をしてる暇はないんだよね」
やがてデュリが渋々言ったのは、そんな言葉だった。
「えっ……」
「忙しくて」
デュリは唇をへの字にした。フィアは予想もしなかった言葉に面食らった。
「忙しいって?」
「忙しいというか……」
首のあたりを片手で押さえ、いかにも面倒くさそうに言う。視線は逸らされていた。
「えーと、何の用?」
「用って……」
フィアは言葉に詰まりかけたが、なんとか続ける。
「ただあなたを見かけて、それで、いてもたってもいられなくて」
「思わず呼び止めたってわけ?」
「そう、だけど……」
「困るなあ。迷惑なんだよね、そういうの」
「迷惑?」
フィアは小声で訊ねた。その声が震えているような気が自分でした。
「たしかに、きみんとこの修道院で悪ふざけをしすぎたのは認めるよ。『修道女ごっこ』なんて、あんまり褒められた遊びじゃなかったかもね。まあ大目に見てくれよ。退屈だったんだ。とても」
「それじゃ、急にいなくなったのは……」
「飽きたからだよ」
デュリは当然とばかりに肩を竦める。
「修道女ごっこに飽きて、修道院を出たわけさ。それだけ」
「飽きた……」
フィアは力なく呟いた。デュリはあっさり頷く。
「そ。だってあそこ、面白くないんだもん。きみと遊ぶのにも飽きたし。……で、ほかに用は?」
デュリの質問が胸に突き刺さる。
フィアは彼の顔を見上げた。
思いもよらず、こんなところで再会でき、嬉しくて滲んだはずの涙が、今は乾いて冷たい風に煽られるばかりだ。頬の上部が熱を失い、夜のように冷えていく。フィアはうつむき、力なく首を振った。そんな小さな動作だけで、気が遠くなり、よろめきそうになる。
「ううん。ないわ……。あなたが無事だったことが分かって、嬉しかっただけ」
「あ、そう」
デュリはいたって淡白に答えた。
「それじゃ、これでお別れだ」
フィアは何も言えなかった。もうデュリの顔を見る勇気はない。
うなだれた頭上にデュリの声が落ちてくる。
「あ、今度僕に会っても、もう二度と声を掛けたりなんかしないでくれよ。頼むからさ。僕は修道院になんて行ってないし、修道女の知り合いもいない。……ねえ、分かってくれるよね? きみなら。僕が何を言いたいか」
「………」
「これでも、人目を憚る身分なんだよねえ。そんな立場で、軽率なことをするんじゃなかったって、今はとても反省してるけど。まあ仕方ないんだよね、家にいても憂さのたまることばっかりで。窮屈でさ。あんな馬鹿げたことでもしないと、気が晴れなかったんだ」
──だからもう僕のことは忘れてくれる?
そうデュリが訊ねてくる。
フィアはやっと顔を上げた。
彼は本当に真剣な顔をしていた。
だから何も言えなかった。ごくりと喉を鳴らしたが、余計に傷みが増しただけだ。
それに焦れたのか、デュリは先に口を開いた。
「頼むから、忘れてくれよ。僕はもうきみの顔なんか見たくないし」
「………あの、わたし」
答えようとした、フィアの目から涙がこぼれおちた。知らないうちにたまっていたらしい。
「嘘でしょ? そんなこと。だって……」
「嘘なもんか」
デュリは冷たく笑った。頬を歪めて。
「正直に言おうか?」
「……ううん、いい。別に聞きたくない」
フィアは首を振った。彼が嫌なことを言う気がしたからだ。
「そう言わずに。せっかく言う気になったんだから。面倒くさいのに」
デュリは前置きして、無情な言葉を立て続けにフィアに降らせる。
「きみが僕の兄をたぶらかそうとしてるんじゃないかって思ったんだ。最初はね」
「………」
「知ってるだろ? ノイエ=ラディウス。その兄上が、きみを『ラディウス家の養女にする』と言ってきた。突然ね。そのことに僕は腹が立った。家の人間も、みんな不愉快な気持ちになった。そりゃそうだろう? 誰だって、知らない人間が家に入り込んでくると言われたら、いい気がしない。財産目当てじゃないかとか、何かほかに悪い企みがあるんじゃないかって勘ぐって当然だ」
デュリがノイエの名前を出したとき、後ろにいたベリスが「げっ」と声を上げたのが聞こえた。ただ、フィアの意識はそこにはなかった。ずっとデュリの顔を見ていた。
悲しいことや残酷な場面に出くわすと、いつも雷に打たれたように動けなくなる。
いっそ逃げ出せればいいのにと、心からそう思ったが、実際にはできなかった。これから訪れる場面がけしていいものではないと分かっているのに、なぜ動けないのか、考えれば本当に不思議だ。誰だっていやな思いをしたくないし、そこから逃げたいはずなのに。
どうして、動けないのだろう。
どうして、デュリの言葉を耳に入れてしまうのだろう。それは残酷な言葉に違いないのに。
「だからきみという人間が、どんな人間なのか確かめたかった。つまるところ、それが僕の思いつきだったんだよ。シスター・フィア。そしてきみという人間が分かったら、僕の興味もすっかり失せてしまってさ」
デュリは落ち着いた口調で言った。すべてはもう、過去のことだと言いたげだった。
「もう少し、遊んでいようとは思ったんだけど。なんだかばからしくなったんだ。きみときたら憲兵に捕まったりして、本当に頭が悪いし」
フィアはただ祈っていた。この気まぐれな嵐が、早く自分の上から過ぎ去るようにと。
そう、これは嵐のようなものなのだ。突然降ってきた雨や、暴れる風のようなもの。
理由なんてない。
「こんな頭の悪い娘を養女にするなんて、僕の兄は本当にまぬけだとは思うけど、まああの人も、言い出したらきかないところがあるから……。ほっとくしかないと思って」
デュリの不機嫌な声も、それと同じように自分の上を素通りしていくと思えばいいのだ。
フィアはそうなるように願った。
一心に祈っていた。
「それで僕は一足先に、その馬鹿馬鹿しい話から抜けさせてもらうことにしたんだ。どっちにしろ、もうラディウス公爵家に戻るつもりもないし。そう思ったら、急に何もかも煩わしくなってきて、きみが牢屋に入ってるあいだに姿を消すことにしたんだ。『さよなら』を言うのもなんだか面倒くさかったんだ、ごめんね」
「ええと……」
ベリスがいかにも気まずそうな顔で出てきて、遮る。
「まあ、そのへんでいいだろう? 今日は」
デュリはおとなしく口を閉ざした。それ以上言いたいこともなかったのだ。
ベリスはぼんやりしているフィアの肩に軽く手を置いた。
「シスター・フィア」
呼ばれて、フィアは顔を上げた。
「どうして城にいるんだ? 修道院で何かあったのかい? 嫌なことでも……」
ベリスはとても心配そうな顔をしていた。フィアはそれをなんとなく眺める。
本当のところ、心はまともに動いていなかった。深い霧の中に取り残されたかのように、フィアは途方にくれていた。けれど頭のほうは、ベリスの問いかけに対して普通に答えようとしていた。自分はいつもと同じだ、と主張したげに。ベリスも、そうであることを望んでいるような気がフィアはした。
「え、ううん……。そうじゃないけど。ただ、ヴィクターさんに、会いに……」
「陛下に会いに?」
「うん」
小さく頷く。自分はちゃんと、普通に話せているだろうかと気にしながら。
「そうか。でも今日は謁見日だよ。もしかして会えなかったんじゃないの?」
「うん……。そうなの。会えなかった」
改めて口にすると、むなしさが募った。
「こんなに遅くなったら、さすがに院長さんに叱られるだろう。それに、護衛もいないようだし」
ベリスが怪訝な顔でフィアのまわりを見回す。
そのあいだに、デュリはひとり、興味ないというように歩き出していた。
小さな灯りが点々と灯ってはいるが、暗い通路の先へ。
デュリが見えないところへ行ってしまう。フィアはその背中を目でおいかけながら、「ルーデックさんたちと一緒に来たんだけど、途中ではぐれて……」と、心ここにあらずといったふうに答えた。
「ルーデックだって?」
ベリスはぎょっとしたように目をみはった。
「あんなクソ生意気な新入りが、なんできみの護衛なんか……」
「他にもいたけど、分からない。よく見てなかった」
デュリの姿は、もう見えなくなっていた。
──ついに彼を見失ってしまった。
せっかく再会できたのに、こんなことなら、会えないままでいたほうがよかったかもしれない。そう思い、フィアは悲しく目を伏せた。どうして彼がいなくなったのかずっと知りたいと思っていたが、いざ理由が打ち明けられると、答えなど出ないほうがいいこともあると思って後悔する。勝手な話かもしれないが……。
「あーっと……ちょっと、勝手に進むんじゃない! 止まってろって」
ベリスは慌てたようにデュリに声をかけてから、フィアに向き直る。
「俺はちょっと今、手が離せないんだけど。途中に誰かいると思うから、声をかけてここに来させるよ。いくら『安全な』城の中とはいっても、きみがひとりでうろつき歩いてるってのはいかにもまずい」
「いいの。ひとりで帰れる」
フィアは首を振ったが、ベリスも首を振り返した。
「駄目だ。もう暗いし、きみには護衛が必要だ。陛下だってそう仰る」
フィアはベリスの顔を見上げた。
「それより、あの……おばさんを探してるの」
「おばさんだって? きみの?」
ベリスが眉をひそめる。フィアは頷いた。
「うん。わたしのおばさん。一緒にいたのに、ちょっと目を離したら姿が見えなくて……」
「そっか。そりゃ、きみの身内なら探してやりたいけど……」
ベリスは頭を派手にかいた。その顔は苦い顔だ。
「あーっ、畜生! どうしようかな。サムエルでもいりゃあ……でもどうせ執務室か。どうせ執務補佐官と茶でも飲んでるんだろうなあ──って、あいつ本当にどこ行った?」
ベリスは後ろを振り向き、影も形もないデュリを探していた。
なぜか分からないが、デュリのことをひどく気にしているようだ。
フィアは「わたしのことは気にせずに、行って」とベリスに言った。
「おばさんを探さなきゃいけないから、もうしばらくお城にいる。そのうちに、誰か知っている人を見つけられると思うの。そしたら、その人に一緒におばさんを探してもらって……それから、街のほうに送ってもらうわ」
ベリスは軽く唇を噛んだ。
「本当は、きみについてたいんだけど。あいつもあいつで、ほっとけないんだよな。ちょっと込み入った事情があってさ……。きみに話せりゃいいんだけど、そうしてる時間がないし、俺にもまだ分からないことが多くてね」
「うん」
『事情がある』という言葉は、少しばかりフィアの心を晴らしてくれる。
(そっか。事情……事情があったんだわ)
それでデュリはあんな言い方をしたのかもしれない。
いや、きっとそうだ。
そうでなければ彼が、あんなことを言うはずがない。そう考えると、塞いでいた胸がすっと楽になる気がした。フィアはようやく、固く握り締めていた手のひらを楽にした。知らないうちに強く握りすぎていたようだ。それはひどく汗ばんでいた。
「とにかく、今度ちゃんと話すわ。今日はほんとごめん、送ってやれなくて」
ベリスが砕けた口調で言い、フィアの肩をぽんと叩く。
フィアが頷くのと、彼が走り出すのとはほぼ同時だった。
しばらく行って、彼が急に足を止め、振り返る。
「そうだ……早く還俗しろよ! シスター! いつでも歓迎するからさ」
ちょっと笑うような声でそれだけ言って、ベリスはまた走り出した。
その姿も薄闇に消えてしまう。あとには、細く長く伸びる石の通路と、その途中途中で点々と揺らめく小さな灯りが残るばかりだ。ちろちろと燃えるそれを眺めるともなく眺めながら、フィアはふいにおかしくなり、口元に笑みを浮かべた。
還俗なら、もうしたのに。
でも、彼に言う暇がなかった。
言えばびっくりしたかもしれない。そのときの彼の顔を想像しながら、フィアは扉を開けて外に出た。その想像は、くたくたに疲れたフィアの心を多少なりとも慰めてくれた。ベリスはレヴィンのような冷たい反応をしないだろうし、それに、今だって『歓迎する』と言ってくれた……。
外に出ると、さっきよりも色を濃くした夜空が広がっていた。
この城が高台にあるせいか、空がいつもより近く感じられる。
フィアはしばらくそれを眺めたあと、気を取り直し、おばを探すことにした。
何はともあれおばがいなければ、どうにもならない。今日の宿だって決まっていないし、おばだってもう休みたいころだろう。本当なら、誰かの家で暖かい食事をとっているはずの時間だ。フィアの予定では、それはスティーナの家だった。しかしあいにくスティーナにも会えず、その兄であるイグナーツにも会えていない。彼は騎士だから、城のどこかにはいるはずだが……。
あてもなく広場を歩いていたとき、フィアの目に、また見知った人物が見えた。
それがヴィクターならば話はすべて解決するのだが、そうはいかなかった。たぶん彼はまだ謁見の最中だ。列はほとんど見えなくなっているから、終わりが近いはずだが、さっきからそう長い時間が過ぎたわけでもない。謁見室にはまだ陳情者が何人も残っているだろう。さっきは、ちらと見ただけでも、二十人以上は列に並んでいた。
見知った人物というのは、ヴィクターやレヴィンではなく、メルヴィンでもイグナーツでもなく、フィルデールとイーゴリだった。顔立ちが色白できれいで、姿勢もすらりとした長身のフィルデールと、やや浅黒い肌の、体格の大きなイーゴリは、並んで歩くと、まるで『白鳥と大木』とでもいうようなちぐはぐなコンビに見えた。けれど彼らは仲がよく、前からよく一緒にいる。
だいたいイーゴリは、大柄な体に反して気性は穏やかで優しいので、どんなに気難しい騎士も、イーゴリと一緒に行動することを嫌がらない。フィアもそれは同じで、ヴィクターが修道院に来たとき、とっさにイーゴリの背に隠れようとしたのは、彼ならかばってくれる気が本能的にしたからだった。結果としては、イーゴリはフィアよりも主君の命令を優先したわけだが……。
フィアは急いで彼らに駆け寄った。
「フィルデールさん、イーゴリさん!」
「ん?」
フィルデールが振り向き、それからびっくりしたように目を丸くした。
フィアの予想では、彼は「シスター・フィアじゃないか! こんなところで何をしているんだ? というか、修道院はどうしたの?」などと、心配そうにあれこれ訊ねてくれるはずだった。だから安堵しきって駆け寄った。
しかし実際にフィルデールが見せた反応は、それとは違っていた。
「うわ……しまった」
彼は青ざめて呟くと、いきなりくるりと向きを変えた。
隣のイーゴリの腕を掴み、猛然と走り出す。
フィアはあんぐりと口を開けそうになった。まさか……
──逃げるとは思わなかった!