明るい白金髪の下に、妙にけだるげな青灰色の瞳が見える。細身で、すらりとした体を地味な茶色の衣装に包んだその男は、まだ二十代といっていいかもしれない若さだった。
誰だろうかと思いながら「何かな」と問いかけた。
「明日……ボリスクへは、陛下もご一緒に?」
若い男が、心持ち顔色をうかがうように訊ねてくる。
思いがけない質問に、ヴィクターは片眉を上げた。
「そのつもりだが」
国王軍という名目があるのに、当の国王がいないというのはいかにも締まらない。行きたくなくとも、行かなければならなかった。それに相手がワシュトリアと聞けば、城にじっとしていることは難しい。
「そうでございましたか。それは、将兵たちもさぞ心強いことでございましょう。他でもない、旗印となられるお方がご一緒とあらば。……いえ、そのことを知りたかっただけにございます。余計なことを申し上げて、大変ご無礼いたしました、どうぞお通りください」
再び男が深く頭を下げる。ヴィクターはすぐには動かなかった。
どういう意図があってそんな質問をしたのかとは、訊かない。
「……そなた、名は?」
代わりにそう訊ねた。少しばかり心に引っかかったのだ。
何が、とはいえない。単なる勘のようなものなのだが。
頭を下げたままでいる男が、国王の疑念を感じてぴくりと肩を揺らす。
「……ゴドセヴィーナ伯爵家の当主嫡男、フランツと申します」
「ほう。フランツか。初めて聞く名だ」
「辺境で、父のグレゴリーがセルゲンの領主を……。このたびはアラダール殿の陳情をお手伝いするために、こちらにまかり越しました」
「わざわざ辺境からか?」
「いえ、王都からでございます、陛下。しばらく王都に滞在しておりますので」
顔を上げたフランツの答えは静かで、冷静なものだった。
ヴィクターもその顔をしみじみと眺めやる。
「ああ、そうだろうな。辺境訛りがない」
「……お褒め頂き、恐縮にございます」
本当に恐縮そうな顔をしたフランツの隣で、アラダールが汗を拭いながら口を開く。
「フランツ殿のご好意で、お屋敷をお借りしております。何から何まで大変良くしていただき、滅多にこちら《王都》に来ない我々としてはありがたいかぎりでございました」
「……そうか。それは良かった」
ヴィクターは、アラダールのために屋敷を提供しているという、親切な男の顔を改めて見る。
「ゴドセヴィーナ伯爵家というと、我が祖父イヴァーン陛下の妃を輩出した家だったか」
顎に手をやり、記憶を辿った。王族の一員として系譜くらいは頭に入っている。
「さようでございます。第二王妃、エーファさまは我が祖母の双子の妹であらせられました」
フランツは控えめに頷いた。
「ああ、そうだ……第二王妃だったな。病がちの方で、早くに亡くなられたと聞いている。残念なことだったが……」
「まことに……。しかし第一王妃さまは、アルベルト殿下とジグモンド殿下という、立派な跡継ぎを残されました」
「……それにしても妻を二人も持つとは、祖父も大変だったろうな」
そう言ったのは、祖父の二人の妻が互いに犬猿の仲だったと聞いたのを、ふと思い出したためだ。その一人目の妻の血を引くのがヴィクターであり、二人目の妻の血縁者が目の前の男だと思うと、何やら興をそそられた。
しかしそれも、フランツはあいまいな笑みを口元に浮かべて受け流してしまう。
「しかし、羨ましい話ではございませんか。美しい花をあれこれ愛でられるのは、選ばれたお方のみに許される特権でございますから……」
そつのない受け答えだ。
「……まあな」
ヴィクターはまったく思っていなかったが、表面上は頷いてみせる。
よりどりみどりの時代は過ぎたし、疫病神はひとりで十分だ。それでも手に余るというのに。
「陛下もそうなされませ。先王陛下も、第二王妃、第三王妃を娶られました……」
フランツが真剣な顔になった。ヴィクターはそれに、思いがけず滲んだ苦笑を返す。
「いや、妻はひとりでいい」
「先王陛下の例にはならわれませんか」
「叔父はたしかに複数の妃を持ったが……教会からは苦言を呈されていたし、正式な結婚として認められてもいなかった。祖父の時代も、最初のころは救世母教ではなかったしな。今とは時代が違う。ヴァレンヌと同盟を結ぶ時期も近づいてきたし、法皇に説教されるようなことは極力控えたいところだ……」
「……たしかに。仰せの通りにございます」
フランツが目を伏せた。その唇には、どことなく謎めいた笑みがまた浮かんでいた。
「ああ、そろそろ失礼するとしよう。そちらも疲れているだろうから」
いずれまた話そう、と言って片手を上げる。
フランツが深々と頭を下げた。
「──メルヴィン」
退出間際、気心の知れた男を呼びつける。は、と後ろで声が上がった。軍議場から退出するヴィクターを追って、ここまで送ってくれたミハイも、慌てたように壁から身を起こしてついてくる。足早に進むヴィクターの前に、衛兵が素早く扉を開いた。
ふたりの騎士を従えて、ヴィクターは石の階段を駆け下りる。騎士たちはさすがに遅れずついてきた。他の面々は、軍議場を出るのにもうしばらくかかるだろう。出口の扉が狭いので、順番待ちのような状態になっていた。
「何かございますか?」
後ろからメルヴィンが問いかけてくる。ヴィクターは振り返らず言った。
「明朝の召集、忘れるなよ。その日のうちにボリスクに発てるよう手配しろ。準備は今からだ」
「今から、と申されますと、わたしはいつ眠れば良いのでしょう」
メルヴィンはすでに眠そうな声になっていた。おまけに憂鬱そうだ。
「馬上で寝ろ。特技だろう」
素っ気なく言うと、背後からやけに重たい落胆の気配が伝わってきた。
「北の帝国と……戦争になるのでしょうか?」
騎士として経験の浅いミハイが不安そうな声をかけてくる。それにはヴィクターも振り返った。
「そう心配しなくていい。ワシュトリアはいちいち大軍を動かすから、動きが鈍いんだ」
「そうなのですか?」
「ああ。行動の決定にも時間がかかる。そういう国柄だ。国境付近に陣を敷いているといっても、実際に動き出すのはここ数日のことではないだろう。──絶対とは言えんが、半月はかかると俺は踏んでる」
「それなら、もし明日の準備が間に合わなくとも、手遅れにはなりませんね……よかった!」
「そうは言っても、急ぐに越したことはない。……しかし、こんな時期に南下してくるとは」
ヴィクターが独り言のように呟く。
「ワシュトリア内部のゴタゴタはまだ片付いていないはずだが、何か状況が変わったかな……」
「話は変わりますが、陛下。今日、城でシスターをお見かけいたしましたが?」
メルヴィンが後ろから、飄々とした声で言ってくる。ヴィクターは肩をすくめた。
「今ちょうど執務室にいる」
「ほう。執務補佐官殿と……それはまた、さぞかし話が盛り上がっていることでしょうなあ」
メルヴィンの言ったのは明らかな皮肉だった。ヴィクターはため息を禁じえない。
「ウルリクに『寝室に送ってくれ』とは言いづらかったんだよ。その場で説教されそうだった」
「それはそうでございましょう。団長は、今度の結婚には反対だと断固仰っておいででした」
「え……陛下、ご結婚なさるのですか!?」
ミハイがぎょっとしたように叫んだ。その声が階段に響き渡る。
「しーっ……」
メルヴィンが若い騎士をたしなめる。
「そのことはまだ秘密であるぞ、ミハイ卿。一部の者しか知らないのだからな」
「そ、そんな大事なことを……わたしなどにも!」
ミハイが声を上ずらせた。しかし、その喜びはすぐに怪訝そうな声に変わる。
「しかし、陛下……ボリスクへ行かれれば、しばらくは城に戻ることができないのでは」
「そうだろうな」
ヴィクターは最後の階の階段をおりながら言った。
「ワシュトリアは動きは鈍いが、諦めが悪い。長引くだろう」
「せっかくのご結婚が、新婚そうそう離れ離れだとは……。なんと申しますか……こう、胸が痛む話でございますね」
ミハイがつらそうに言葉を詰まらせる。……意外にロマンチックなことを考えている男だ。
「ミハイ、心配してくれてありがたいんだが。あいにくまだ結婚していない」
「そ、そうなのですか……」
「……陛下」
メルヴィンが神妙な声を出す。
軍議場の外に出たばかりのヴィクターは、外の空気の新鮮さにすがすがしい思いがしていたが、「ん?」と振り返る。メルヴィンがその横に来て、星空の下、まぶしいほどの月光を浴びながら口を開いた。
「シスターもお連れなさいませ」
「……どこにだ?」
「ボリスクでございます」
メルヴィンが淡々と言った。ヴィクターは噴出しそうになる。
「……冗談を言うな。できるわけないだろう」
「しかし陛下ご不在となれば、城に隙ができます。まして近衛騎士団もいないとなれば、がら空きにも等しい状態。そんなときにシスターに万が一のことがあればどうなさいます? それでなくとも、このところ騒がしい者たちがおりますゆえ……安心はなさらないほうが宜しいかと」
メルヴィンの助言はいたって真面目なものだった。
「……フィアを連れて行く?」
ヴィクターは眉間に皺を作った。
「あちこちから反対されそうな案だな。……まあ、考えてはおく。飯炊きくらいは出来るかもしれんし」
考えようによっては、城に置いておくより、たとえ戦場であってもそばに置いておくほうが安全かもしれない。いろいろと心配ごとが多くて意地でも死ねないだろうし、それにあの娘は、ほうっておくとたしかに大惨事を引き起こす娘だ。
それもそうだと改めて納得しながら、ヴィクターはメルヴィンとミハイを行かせて、ひとり執務室に戻ることにした。騎士たちはこれから出立の準備で、目の回るような忙しさになるだろう……。
(ヴィクターさんのバカ……。逃げ道くらい、一個や二個作ったって損にならないのにー!)
そう思った瞬間だった。扉がついに、蹴破られるように開かれる。
鍵が閉まっているわけでもないのにそうされたのには、理由があった。扉の取っ手には、今も衛兵がしがみついている。なんとしてでも開けさせまいとしたのだろう。しかし彼の顔は苦痛に歪んでいた。蹴られたような跡があり、そのせいか唇のはじが切れ、血が流れている。それだけでなく肩も足も斬られており、満身創痍だった。ほとんど床に倒れこみそうな今も、片足だけは不自然に引きずったような形にしている。立てないのかもしれない。
もうひとりの衛兵は、扉の外に倒れているのが見えた。そちらは足だけしか見えない──。
それを踏み越え、目以外の場所は布で顔を隠した男たちが、踊るようにして執務室に飛び込んでくる。顔と頭部をほとんど覆う薄布は黒で、彼らの着ている服は騎士が普段着ているものに良く似ていた。しかし、それで騎士だと断定するのは憚られた。
──近衛騎士がこんなことをするはずがない。
城の中で剣を振るい、衛兵を傷つけるなんて。
「その娘を渡してもらおう」
「喜んで」
侵入者に対し、剣を向けながらレヴィンは即座に答えた。
「──と言いたいところだが、今は無理だな。出直すことだ」
「なぜだ?」
顔を隠した男たちのうち、先頭のひとりが鋭くレヴィンに問いかける。
「あなたはその娘と国王の婚姻に反対していたはず……。断る理由があるとは思えないが」
「たしかにその通りだよ。先ほども言ったように、お持ち帰り願えるなら、この娘の頭に絹のリボンでもつけてやりたいほどだ。だが……あいにくと今は陛下がご不在だ。何ごとも陛下に訊かなくては判断できない。ご存知のように、わたしは陛下の忠実な臣下だからね」
「よく言う……。独断でなんでもやると評判の執務補佐官が」
男が鼻で笑った。しかし、その笑いはすぐに、露になっている唯一の場所である目から消え失せる。
「だが、あなたと言い争う時間はない。応じないなら力づくでいかせてもらう」
「わたしの手から剣を弾き飛ばすのに、そちらは一呼吸もかからな──……」
レヴィンが言い終える前に、男があたりを圧する勢いで突進してくる。
繰り出される短剣を、とっさにレヴィンが剣で止めた。それは、あるいは奇跡のようなものだったのかもしれない。文官のレヴィンが剣を使えるはずがないと向こうも思い込んでいたのだろう。驚いたような男の一瞬の隙をついて、レヴィンが刃先を翻す。続けざまに繰り出した一撃は、奇跡の続きとして男のわき腹をえぐった。
男が短剣を取り落とす。そのまま膝をついた。どうやら、衛兵との戦いですでに傷を負っていたようだ。ゆっくりと倒れ伏した男の背中には、レヴィンがつけたのではない傷がある。そこから血が滲んで、服の色を変えていた。
「──フィア=リンネル! 執務室の外へ!」
どうやら自分で言うよりもなんとかなっているらしいレヴィンが、鋭く叫んでフィアを振り返った。だがそのときには、男に続いて執務室に乱入してきた他の者たちがフィアを取り囲んでいた。
「無理よ──レヴィンさんだけでも逃げて!」
フィアは三人の男たちに取り囲まれながらもそう叫んだ。
チッと舌打ちして、レヴィンが執務室の外に走り出る。一人が追おうとしたが、「よせ」と鋭く止める声があった。普段耳にしないような訛りがかすかに聞き取れたが、それが何なのか考えるような暇も、余裕もフィアにはなかった。
一人が、倒れ伏した男を担ぎ上げる。
「行くぞ」
誰かが言い、次の瞬間、フィアも空中に担ぎ上げられた。
「はっ、離して!」
叫んだが、いつものごとく無駄だった。
自分がこれからどうなるのか考えると、心底恐ろしかった。もしかしたら殺されるのかもしれない。ここでは人目につくから、他の場所で──。
執務室の外に連れ出される。レヴィンの姿はもう見えない。駆け去る足音だけは聞こえていたから、彼は無事だと分かるけれど。見えたのはただ、うめき声を上げて扉にもたれかかっている血だらけの衛兵一人。それから、うつぶせになったまま動かない衛兵がもう一人。
まだ意識のある衛兵が、顔の半分を血に染めて、フィアに向かって手を伸ばした。フィアが何者か知らなくとも、執務室の中の人間を守るという義務を果たせなかったことを、朦朧とした意識の中で感じ取っているようだった。
その手も、けれど力なく床に落ちてしまう。衛兵はそれきり、うなだれてしまった。
「ああ……」
フィアは搾り出すように呻いた。耐え切れず顔を覆う。
──いやだ。見たくないと思う光景ばかりが、目の前に立ち現れてくる。
「ひどいわ……! 殺すなんて!」
「殺してはいない」
フィアを担ぎ上げている男が言ったが、信じられなかった。殺していなくとも、怪我をさせているのだから同じことではないのか。
「何が目的なのよ! こんなことして──!」
「国王との結婚を諦めろ」
男が短く言った。フィアは目をみはる。
「そうしないかぎり、おまえに命はないと思え。……周りの人間もだ」
「わたしのために……他の人まで傷つけるっていうの……」
「そうだ。おまえの血は豚の血と同じだ。許すわけにはいかない」
フィアは息を止めてその言葉を聴いた。
──豚の血。そうまで言われなければならないなんて。
「ち……血が何よ! そ、そんなこといわれる筋合いなんかないわ! わたしは豚じゃない!」
フィアは暴れながら怒鳴った。──比べられる豚にだって言い分はあるだろうが。
「わたしのお父さんとお母さんは、身分はたしかに低かったけど……でも、だからって、見下されるような人間なんかじゃなかったわ! お、おおお母さんなんて、一生懸命働いて、少ないお金でわたしと兄さんを養ってくれたのよ。それで、体まで壊したんだから! それなのに、お母さんのことを悪く言うなんて……絶対許せない!」
フィアは男の顔を覆っている布を引き剥がそうと、それを掴む。男はさすがに慌てたようで、「やめろ!」と怒鳴った。走りながら、担ぐ男と担がれる娘のあいだで「顔を見せなさいよ!」「やめろというに!」と、布を取る、取らないのもみ合いが続く。
そのあいだにも執務室からどんどん離れていく。
「──止まれ! 貴様ら!」
やがて、大きな廊下の一番向こうから声が響いた。
──いつになく烈しいレヴィンの声だ。フィアはそちらを見ようとしたが、担ぎ上げられているためうまくいかない。けれど、続けざまに「逃がすな!」と上がった声がウルリクのものだということは分かった。
(ウルリクさんだわ! レヴィンさんが助けを呼んでくれたのね……)
安堵とともに、猛烈な疲労感が押し寄せてきた。
今日は本当についていない──。朝から晩まで波乱ばかりだ。
(なんでこんな日に、還俗しちゃったんだろ。もう、最低……)
フィアは泣きそうになりながら、自分で自分の運命を呪った。
(俗世なんて大嫌い……! こんなとこ、一生、好きになれないわ……きっと)
意識があったのは、そこまでだった。
あとは、すべてが闇に吸い込まれた。