執務室の惨状に、すぐには言葉が出なかった。
半分壊れかけた扉は開かれたままだ。まだ生々しい血のあとがそこにはある。
なにぶん夜中で暗いために、あたりにはあちこち燭台が立てられた。それらの灯りがいくつも重なり、そのおかげで執務室の中は昼のように明るい。いつもなら無人になる時間なのだが……。
扉の外では、怪我を負った衛兵ふたりが侍医の手当てを受けている。即席のベッドが作られ、女官たちが、いきなり呼びつけられたせいかいつもよりはゆるくまとめた髪型で、けれど服装だけはきっちりとして、侍医の手伝いをしていた。
幸い衛兵ふたりは命を落とすことはなかったが、ひとりは、しばらくは歩けないであろうという大怪我を負った。扉そのものだけでなく、中も外も血だまりが出来て、失血で死ななかったのは半分奇跡かもしれないと侍医は言っていた。
レヴィンは長いすの肘掛け部分に腰掛け、片手に包帯を巻いてもらっている。そばに跪き、それをしているのは控えめな感じの侍女だ。よく見れば清楚な美人なのだが、レヴィンの顔立ちのほうが派手なので控えめに見えてしまう。
「……なんだこれは」
ヴィクターは呟いた。ようやく、発せられた呟きだった。
「あなたが、あの娘をこの執務室に送ってくださった結果がこれです。ヴィクターさま」
レヴィンはいたって無表情で言ったが、内心ふてくされていることは顔つきで分かる。
「たしかに、フィアを執務室に送れとは言ったが」
ヴィクターは、自分の執務机の脇に突っ立っているウルリクを見返った。
「執務室をめちゃくちゃにしろとは命じていない。……そのはずだな? ウルリク?」
「ええ」
ウルリクは苦りきった顔でそう言っただけだ。
「……たしかに、おまえに『執務室に残ってフィアを警護しろ』と言わなかったのは俺の落ち度だった。そう言っていれば、この惨状を見ることもなかったんだろうな。おそらく」
ヴィクターは顔を片手で覆った。
「ええ。そのようにはっきりお命じいただけなかったのは、残念と申し上げるしか」
ウルリクはもはや開き直ることにしたらしい、悪びれる様子もなくそう言う。
「執務補佐官だけであのシスターを警護するというのは、実に無茶でしたな」
「文官のわたしに警護なんぞ出来るとお思いですか? ヴィクターさま?」
ウルリクの言葉に、乗らなくてもいいのにレヴィンが乗ってくる。
「言わせてもらえば、あの娘を執務室に送っていらしたのは明らかな間違いでしたよ。おかげで子守りやら、説教やら、挙句の果てに大立ち回りまで……そのせいで大事な手を捻挫してしまったではありませんか!」
「………」
ヴィクターは気力尽きて何も言い返せなかった。──捻挫。
「これでは仕事に差し支えますので、明日からしばらく休暇を頂きます」
レヴィンが、包帯をした手を突き出してきてヴィクターを睨みすえた。
「どちらにしても、この手では何も書けませんしね……ご覧の通り、右手ですから!」
そのあいだに、誰かが執務室にそろそろと入ってきた。侍医か女官かと思ったが、違っていた。ヴィクターは振り向かなかったが、壁伝いに、まるで泥棒が人の屋敷に忍び込むようにして入ってきたのはフィルデールとイーゴリだった。
「うわ……話に聞いた以上にひどい」
フィルデールが控えめに呟く。
「……何してる」
ヴィクターが顔を上げ、それを振り向いた。
剣呑な顔をしている主君に、フィルデールは愛想笑いをはりつけて肩をすくめた。
「え、いえ、何も……。壁だと思ってくだされば。はは……」
「──思えるかッ!」
ヴィクターは八つ当たりのようにフィルデールに怒鳴った。
フィルデールのほうもそれを分かっているのか、神妙な顔になっただけだ。
それを見て、ヴィクターは自分を抑えようと極力努力をしはじめた。精神力には自信がある。ただ、今日はあまりに疲れすぎていて体力のほうがついていかないのだが……。だからといって今から寝ようという気には到底なれない。
「……それで、フィアの行方は分からないのか?」
「城の外には出ていないと……。門番は何も異状はなかったと」
ウルリクが渋い顔つきで口を開く。
「城下でも、怪しいものは目撃されておりません。ちょうど憲兵隊の巡回の時間だったようですが、誰もおりてこなかったと言っておりました。念のため、王都中を探させてはおりますが」
しかし、とウルリクは続ける。
「王都の外に出ていないことは確かです。城壁の見張りを全員集めましたが、やはり人影は見ていないとのことです。ですから……賊はまだ城内にいるはずです。無論、衛兵も近衛の者も、女官や使用人にいたるまで、城にいる者を総動員してシスターの行方を捜させておりますので」
ご安心ください、というお決まりの言葉は、しかしウルリクの口からは出なかった。思っていないことは言えない男なのだ。そんな正直きわまりない性質も、こんなときになると腹立たしいだけである。
しばらくして、また別の騎士が入室してきた。──イグナーツだ。
「陛下」
聞き慣れた、穏やかな声に力強く呼びかけられて、ようやくまともに話せる人間に出会ったような気がヴィクターはした。
「イグナーツ……。帰宅したんじゃなかったのか」
思わず表情をゆるめる。
他の連中はまったくもって信用ならない。どうやらフィアを煙たがっているような顔つきのウルリク、裏で何か画策しているに違いないレヴィン、傍観者を気取っているフィルデールに、いつものごとく何も言わずにぼーっとしているだけのウドの大木イーゴリ……。どいつもこいつも役に立たない。
「そうなんだが、やはり彼女のことが気がかりで、引き返してきた……んだが」
イグナーツはそこまで言って、ひるんだように執務室の中を見回した。
「遅かった……のかな……。いったい何があったんだ?」
「俺にも分からん」
ヴィクターは心の底から言った。
なぜいつもあの娘は、すぐに誰かに連れ去られてしまうのだろう……。そういう宿命のもとに生まれたとでもいうのか、とヴィクターは神を呪いたい気持ちになった。だから神だの教会だのはまったく信用がならないのだ。
「まったく、わけがわからん……! 脈絡もなくワシュトリアは攻めて来るし、フィアはいなくなるしで……この世の災厄という災厄が、今日という日に全部集まってきたような気さえする」
「ワ──ワシュトリアが攻めて来た!?」
イグナーツが仰天したように叫び、とっさにウルリクの顔を見た。
「それは本当ですか、団長!?」
ウルリクのほうは、年を重ねた顔をさらに渋くした。今、一番王都で渋い顔をしている男かもしれない。
「……国境付近に陣を構えているらしい。兵が集まりつつあるとか」
「本当に攻めてくるのですか」
「分からん。明日にもそうなると、当地の領主たちが騒いでいるが」
「まさか……攻めてなど来ませんよ。布陣しているのはただの見せかけです」
肘掛けに腰掛け、先ほど勝手に「休暇を頂く」宣言をしたレヴィンが呟いた。
「ワシュトリアは戦争どころじゃないはずですからね」
「どういうことです、執務補佐官殿。詳しく話してください」
イグナーツが真剣な顔をレヴィンに向ける。
レヴィンは、情報という点においては自分よりもいくらか劣っている騎士たちの顔を見渡した。
「あちらの宮廷内では、まだ第三皇子と第四皇子の内揉めが片付いていないんですよ」
「内輪揉め……。そういえば聞いたことはあります。皇帝が病に倒れたそうですね」
「それだけではなく、先だって第一皇子と第二皇子が不審死を遂げています」
「そうなのですか? それは随分と……」
「そのうえ強権的だった皇帝は不治の病、ご存知のようにベッドを離れられない状態ですからね。にわかに鼻先にぶら下がってきた『皇帝』の座に第三皇子と第四皇子は目の色を変えていますが、とにかく人徳がないことで有名です。『ウルヴァキアと戦争する』なんて言ったって誰もついてきやしませんよ」
「人徳とはいっても、それと戦争はまた別でしょう? 号令をかければ人はついてくる」
壁際に立っているフィルデールがふと口を挟んだ。
レヴィンはそれを鼻で笑う。
「第三皇子は普段はドレスを着て、信じられないほどけばけばしい化粧をしているという話です。うまいものばかり食って太りきっていますから、それはもう見苦しい限りですね。わたしも一度しか見ていませんが、小姓を引き連れて得意満面でした。そんな人間が最前線に立っていて、誰が戦う気になりますか?」
「ははあ……それで、第四皇子は?」
「こちらは父親に似た策謀家で、父親に輪をかけて残虐だという評判です。気に入らない人間は、穴を掘って生き埋めにしているそうですよ。その穴というのも、一週間は生きながらえることができるほどの大きさのものだとか……」
「い、嫌な話だな」
フィルデールがかすかに身震いする。
「皇帝が存命なら、皇帝に『自分こそが次の皇帝にふさわしい人間だ』と認めさせるために、手柄目当てで戦争を起こすということはありえなくはない」
ウルリクが呟いた。
「本当に我が国の領土を狙っているわけではなく、その内輪揉めの一端として、功を焦った誰かが国境に兵を集めた──これ見よがしに、ということなら辻褄が合いますな?」
「……まあ、そうですね」
レヴィンはしぶしぶ認めた。
「軍を動かせるというだけで、民衆に『後継者だ』と認めさせることができますし。ついでに少しばかり戦って、運よくこちらの将軍の誰かの首を持ち帰るとか、そういうちょっとした手柄があれば、大手を振って帝都に戻れますよ。まして陛下の首でも取れれば、皇帝は大喜びでその息子に皇帝位を譲り渡すでしょう。持てないほどの黄金より遥かに重い首ですから」
その発言に、ウルリクをはじめ、近衛騎士たちの視線が冷ややかに突き刺さった。
レヴィンは両手を挙げ、「例えば、の話ですが!?」と呆れたように一同に言った。
「……その、“黄金より大事”なウチの陛下はどこへ?」
フィルデールが腕組みして誰かに問いかける。しかし誰も答えない。
「まっ、訊かなくても答えは分かるけど」と、フィルデールは独り言を漏らした。
ヴィクターはつい先ほど、こんな話を悠長に聞いていられるか、とばかりに足早に執務室を出て行ってしまった。イグナーツが急いでついて行ったから、心配はないだろうが。──外には衛兵も集まっていたが、足音からすると何人かがヴィクターの後を追っていったようだ。
気を取り直してフィルデールが、別の方向に顔をめぐらせた。
「あのう、団長」
「なんだ」
呼ばれたウルリクが、見慣れた配下のフィルデールを振り返る。
フィルデールは腕組みしたまま、けだるげな視線を上官に向けた。
「シスター・フィアの件ですが……そろそろ始末をつけないと、まずいでしょう」
フィルデールがふっと目つきを鋭くする。ウルリクはあからさまに眉をひそめた。
「まずいとは? 何がだ」
「陛下の耳に入れば激怒されますよ。……言わなくても分かってるでしょう、そんなこと」
色男が、ひどく皮肉げに笑ってみせた。実のところ、主君の前ではあまり見せない顔だ。
「……あいにく、まだご存知ないようだが?」
ウルリクにもまた、主君に見せない顔がある。それで何が問題だとばかりに目を細めた。
「ですからね、その前に片付けないと、と言ってるんですよ」
「わたしが命じたわけではない。『彼女に近づくな』などと」
「そうですがね。でも、団長が知らぬ存ぜぬを通していたら、他の連中はどうしていいか分からない。そうでしょ? 第一、こんなやり方は卑怯ですよ──彼女に近づいたら『危害を加える』なんて脅すなんて!」
フィルデールが、美男と形容されることの多い顔をひどくしかめて見せた。
「それでも、万が一のことがあっちゃいけないと思って遠巻きにしてましたけどね。誰も近づいてないのに、結局彼女は連れ去られてしまった……。よく考えればですよ? 我々はあっさり罠にはめられてしまったんですよ!」
フィルデールが吐き捨てるような口調で言った。
「彼女の周りに護衛をなくす。それが『誰かさんたち』の目論見だったんだ。……馬鹿でしたよ、本当に! 我々は面子を潰されたも同然だ。それなのに黙ってろと仰るんですか? ガーラント=オルベニウスと“双璧”といわれた人が、とんだ弱腰だな」
ガーラントの名を出すと、ウルリクがにわかに不機嫌そうな顔になった。
昔から、奔放な流れ者の騎士と、堅物の騎士は仲が良くなかった。かたや国王の親衛隊長、かたや近衛騎士団長という役職にあったが、一緒に話しているような姿をほとんど誰も目撃したことがない。年は近く、同世代といっていいが、ウルリクのほうが少しばかり上だ。しかし名が知れ渡り、騎士や民衆たちからまでも憧憬の念を持たれていたのは、やはり『不敗』のガーラント=オルベニウスだった。
むろん、そうした事情を知っていてフィルデールはそう言ったのだ。
「………」
ウルリクがむっと黙りこんでいるあいだに、静かにサムエルが入室してきた。
サムエルにはサムエルの事情があった──
レヴィンの命令で軍議場を調べに行ったはずが、こともあろうに、途中で『用事』を見つけて軍議場まで行けなかったのである。無論、そんなことは生真面目な彼にとってあってはならないことだったが、この場合やむにやまれぬ事情というべきだろう。親友であるベリスが、変な美青年と掴みあいの喧嘩をしていたのである。
止めるしかなかった。
止めて、連れてくるしか。
掴みあったために襟元を乱しているベリスは、先に美青年を執務室に突っ込んでから、複雑な顔つきで入室してきた。美青年のほうは息を呑むような美しい顔立ちをしてはいるが、頬や口元に紫色のあざを作っている。元がきれいなだけに、やけに哀れに見えた。
「……誰だ?」
見知らぬ侵入者に対し、ウルリクが険しい表情を作る。
「こちらは、ノイエ卿の弟君です」
ベリスが短く、簡潔に紹介した。しかし効果はある。
「ノイエ卿の……? では、ラディウス公爵家の方か」
「久しぶりだな、デュリ君」
レヴィンが肩をすくめてみせた。名を呼ばれた美青年は、レヴィンのほうを見る。
「……どうも、こんばんは」
美青年はそれきり、無口になってしまう。あざを髪で隠すように、わずかにうつむいた。
「ちょっと見ないあいだに、ずいぶんと男前になったじゃないか? ベリス卿に組み敷かれでもしたのかな」
「ちょっと。人聞きの悪いこと言わないでくださいよ……」
「ノイエ卿の弟君が、こんな時間に城で何をなさっておいでか」
ウルリクが堅苦しく訊ねかけると、デュリは顔を上げた。
しばらく迷ったあと、彼はゆっくりと口を開いた。
「別に……」
それだけだった。
まったく話す気のないデュリを睨んでから、ベリスがウルリクに向き直る。
「あのですね、団長……この公爵家のおぼっちゃまは、陛下に楯突く連中とつるんで悪さをしようとなさっておられるんですよ! ナントカ党、とかいう胡散臭い連中とね! そんなアホみたいなことを言うもんだから、俺ははっきり言ってやったんですよ……『やめとけ』ってね。そしたらこのボンボンは、『嫌だ、僕の好きにさせろ』ときたもんだ。頭に来たから一発殴ってやったんです」
「三発だよ」
デュリが控えめに、だがはっきりと訂正した。「おまけに足も蹴られた」
「それくらいで済んで良かったと思え馬鹿。本当にそんなものに入っていたら断頭台行きだぞ」
ベリスが噛み付くように言った。デュリは不機嫌な顔で黙り込む。