「何やら、にわかに騒がしくなってきましたな」
カルマインが、いつもと変わらぬ落ち着きを持ってヴィクターに話しかける。
足早に歩くヴィクターは、「そのようだ」と振り向かずに答えた。
あまり話す気はないようだと、長年そばにいる老騎士は理解する。
黙って、ほかの衛兵たち同様、ヴィクターのあとを追いかける。
このあいだ王都の街中で妙な刺客に襲われて以来、ひとりで歩きたがる国王の周りには、めっきり護衛の数が増えた。それをうまく出し抜いてヴィクターがひとりになる瞬間もないではないが、こんなときにはそれもままならない。
いつもの角を曲がり、階段をおりる。中央階段ではなく、はじのほうの階段だ。その先は回廊式の、どことなく異国情緒のある中庭に通じている。奥の建物に行くのに便利な場所で、そのためにそこを通過しようとしているのだろう。
だが、それほど広くない階段をおりる途中で、ふいにヴィクターが体のバランスを崩した。とっさに壁に手をつくのを、衛兵たちが駆け下りて支えようとする。
「陛下、大丈夫でございますか!?」
「……ああ。足が滑っただけだ」
「灯りをお持ちします。この先も暗いですから。すぐ戻ります」
衛兵のひとりが素早く身を翻し、階段を駆け上って戻っていった。
気が抜けたように、ヴィクターがどさり、と壁にもたれた。
少しうつむけた額を、片手に包む。
「目が回った。……腹も減ったな」
「いつもならお休みになっておられる時間ですからな」
カルマインは言って、ヴィクターのそばに行った。近づかなければ顔が見えないほど、あたりは階段の内部は暗い。
「……俺に何か言いたいことは?」
ヴィクターが老騎士に、ふいにたずねる。老騎士はおかしそうに笑った。
「何も申しておりませんぞ、陛下」
ヴィクターは何か言おうとしたが、結局やめた。ため息だけを漏らす。
──それにしてもこんなとき、そばにいる騎士がカルマインだけというのはありがたいと思う。何も説明しなくていいし、何も訊ねられない。今も、やはりそうだった。カルマインは何もきかない。
それでいて、この老騎士はちゃんと状況を把握しているのだ。だから妙にほっとする。
やがて松明を掲げて、さきほどの衛兵が戻ってくる。
それを先頭に、中庭におりた。
そこにはしんとした静けさがあった。
夜風が、音もなく頬を撫でていく。こんな騒ぎさえなければ、月でも眺めていたいような静かな夜だ。
「──あっ、陛下! こちらに!」
松明の明かりに照らし出された中庭に、ふいに人の声が響いた。
見れば、数人の衛兵が松明を掲げ、渡り廊下を伝ってこちらに走ってくるところだ。
「どうした」
声をはりあげて訊ねれば、「その……関係ないことかもしれないのですが、念のためご報告をと」と、妙に歯切れの悪い口調で先頭のひとりが言う。ヴィクターは頷いた。
「なんでもいいから話せ」
「陛下が、侍女殺しの犯人をお探しになっているのではないかと思いまして……」
衛兵の話しはじめた内容に、ヴィクターは我知らず落胆の表情を浮かべていた。
「あ……やはり、関係がありませんでしたか」
衛兵は明らかに腰が引けたが。
「一応聞いておく。手短に頼む」
ヴィクターが言うと、衛兵は「は」と申し訳なさそうに頷いた。
「えー、その……昨晩、厨房付近をうろつく不審な女を捕らえたのです。ハンナと申す女です。しかしこの女が、『自分は毒など知らない、やるとしたら自分の姪かもしれない』とやかましく騒ぎ立てるのです」
ヴィクターは眉をひそめた。何も言わずに先を促す。
「その姪というのが、『フィア』という名だそうで……一応、お耳にと」
衛兵の言葉に、ヴィクターは思わず「なに?」と驚いた。
「どこにいる、その女?」
「えっ……あ、フィアという名の娘のことにございますか?」
衛兵が一瞬目を白黒させる。
ヴィクターはもどかしいような思いでそれを否定した。
「いや、そのハンナという女だ。……まさか、フィアという娘もそこにいるのか?」
「あ、いえ! おりません。ハンナと申す女も、姪の居場所は知らぬと……」
「知らない、か……」
それはそうだろう。ヴィクターは張り詰めていた吐息をつく。
しかし、毒を入れたのが自分の姪かもしれないなどと。
助かりたい一心だとしても、よく言うものだと呆れた。
姪とはいえ、幼い子供を孤児院に捨てただけのことはある。──フィア自身、もう忘れているらしかったが、出会ったころにそんな話をしていたことがあるのをヴィクターは覚えていた。
「ハンナと申す女は、今は牢に入れておりますが……」
「そのままにしておけ。後で見に行く」
ヴィクターは短く言って、話は終わりだというように手を打ち振った。
報告を持ってきた衛兵たちは頭を下げ、走り去ってゆく。
(『厨房付近をうろつく』ってところは、血筋か……)
そんなことを考えると、ふとおかしくなった。小さく笑ったヴィクターを、さすがに、大丈夫だろうかとばかりにカルマインが横目でうかがう。
「……陛下?」
「なんでもない、カルマイン。少々疲れているだけだ」
そう言って、首を振った。
それからもあちらこちらへと足を運んではみたが、いっこうに手がかりがない。
このままではじきに夜が明けてしまう。
そうなればボリスクへ発たねばならない。じりじりと焦りが身を焼いた。
何より、フィアのことだけ考えていられないのが苦しいところだ。今は頭の半分、ワシュトリアのことが占めている。かといってフィアをこのままにはしておけない。この身がひとつであることが、いっそ呪わしいほどだった。
その後も、もたらされる報告がどれも芳しくないことに失望し続けた。
衛兵たちはあちこちに移動する国王を探し回り、苦労していた。しかしヴィクターのほうも、フィアを探して足が棒になるほど歩き回り、どこにもその姿が見えないことに落胆していた。
部屋数が多いといっても、この人数で捜索して、影も形もないということがあるだろうか? やはり城の外に連れ出されてしまったのかもしれないと悲観的な考えもよぎる。──もしそうなら……。
暗い顔になっている彼を見かねて、カルマインが「一度執務室に戻られては」と提案する。それも一つの手かもしれないと、ヴィクターは素直に頷いた。自分が移動すればするほど、衛兵も騎士たちも混乱しているようにも思えた。フィアのことだけでなく、明日の出立のことでも、絶え間なく報告や相談が持ち込まれてくる。
──執務室に戻ると、そこは先ほどよりも片付けられ、落ち着いた状態になっていた。
血のついた扉なども、布がかけられて隠されている。そのため開かれたままではあったが、襲撃を受け、今は衛兵たちが十人以上も扉の近くに待機していた。手当てを受けていた者たちは別のところへ移されたのだろう、今は姿が見えない。
ただ、執務室が落ち着いているといっても、それは掃除がすんだというだけの話だ。実際に見てみれば、床のあちらこちらに寝転んでいる騎士たちの姿があり、ここはなんの避難所かと呆れるほどである。
ヴィクターが戻ったのを見て、騎士たちはのそのそと身を起こした。中には寝そべったままの不埒者もいたが、手近なところでいうとそれはメルヴィンだったので、ヴィクターは何も言わなかった。高いびきをかいているのは、明朝の準備のために疲れ果てたからだろう。とりあえず仕事は終えたと信じたい。
ヴィクター自身は、あまりの疲労で足元がふらついていた。なんとかソファまでたどり着き、崩れるようにそこに座る。両側の肘掛けに、座っていてもぐらつきそうな体を支えるためにどさりと腕を乗せた。──これでは、カルマインが『執務室に』と言うのも当然だと自嘲する。
向かいにいるレヴィンと目があった。
長いすを占領している側近は、あきれたような顔で「眠ったらどうです」と言ってきた。
「徹夜のあとに出陣する気ですか? 居眠りなどしたら馬から落ちますよ」
「……ここの連中はいったい何をしてるんだ?」
レヴィンの言葉を聞き流し、起き上がった騎士たちの顔をぼんやりと眺めた。
「明朝が出陣と聞いて……自宅に戻るのもなんなので、ここで寝てました」
眠い目をこすっているのは、近衛騎士のひとりだった。ヴァレンヌへ同行した者ではないが、いつも城で顔を合わせるので、近衛騎士たちはほとんど全員が家族のようなものだ。少なくともヴィクターにとっては身内であり、家族と言って差し支えない。
そのような、多くの近衛騎士たちにとっては、フィアの失踪よりも、ワシュトリアとの戦いのほうが切実な問題であった。そのことはヴィクターにも分かっていた。フィアの失踪を知る騎士たちは、今も城の中を駆け回って、あるいは城下にもおりて捜索に力を尽くしてくれているであろうことも、分かっていた。
だからフィアのことを、この場で口にすることはできなかった。心の中では焼けつくように案じてはいたが、どこかで半分は、こうなったのも自分のせいなのだから、別の方法で始末をつけるべきだと考え始めてもいた。
「……俺は何かを間違ったんだろうな?」
訊ねると、向かいのレヴィンがちらりと視線を向けてくる。寝そべったまま。
「わたしに訊いておられるのですか?」
「目に入るところにいるのが、幸か不幸かおまえだ」
本当なら他の人間と話したい気分だったが、あいにくそれが事実である。
「でしたら、『そうだったのでしょうね』と申し上げるよりありませんが」
「どうすれば良かった」
頭を押さえる。
しばらく沈黙があった。
「クリステラ=エトヴィシュと結婚すると言えば、済んだ話だったと思いますが」
やがてレヴィンが小さな声で言って寄越した。
「あるいはワシュトリアの皇女と婚約だけでもするとか。……以前、そんな話があったのをお忘れではないでしょうね? あなたは『ワシュトリアなんか!』と仰っておられましたが」
「そうしていたらこの事態はなかったと言いたいわけか」
「……まあ、そうは申し上げませんが? ワシュトリアは、嫁がせた娘を平気で切り捨てる国ですからね。信用しても無駄な国、それがかの帝国です。しかし国内の貴族なら話は別ですよ、ヴィクターさま。誰もあなたを裏切ったりはしない。少なくとも、あなたが貴族たちの味方である限りは」
「敵対したつもりはない」
「ご冗談を。あの娘を王妃に迎えるということは、貴族たちの顔に泥を塗ったも同然でしょう」
「たかが俺ひとりの結婚くらいのことで、よくもそんなに必死になれるものだな」
「あなたの結婚は普通の結婚じゃないんですよ、陛下。ご存知ありませんでしたか?」
「挙句、あいつを攫いまでして。……正直言って信じられん。反発があるのは予想していたが、ここまで直接的な手段に出るとは思わなかった。俺が腹を立てて、他の誰とも結婚しないと言ったら──そう宣言してやるつもりが八割がたあるが。向こうはどうするんだろうな」
「そうなれば、あの娘を殺すでしょうね」
レヴィンがあっさりと言い、けだるい会話に終止符を打つ。
ヴィクターは黙っていたが、やがて目を細めてレヴィンを見た。
「それは、今はまだ生きている──と言っているのか? レヴィン」
「と、思いますよ」
「確証はあるのか」
ヴィクターは呟くように言う。
たとえそんなものはなくとも、ある、と言ってもらいたい気持ちだった。
レヴィンがゆっくりと身を起こす。
「内部の犯行となれば、あなたの気性を知っている人間の仕業でしょうからね。お気に入りの娘を殺されて、黙っているようなお人よしではないことも、向こうは承知しているはずです。……ならばどうするか?」
レヴィンが言いながら首を傾げる。そして腕組みをした。
「簡単なことですよ。あの娘を攫い、その身柄と引き換えに、あなたに“意中の娘”との結婚を了承させる。……意中というのは、向こうにとっての意中ですよ。たとえばクリステラ=エトヴィシュのような娘のことです」
「そう入れ知恵したわけか? おまえが」
ヴィクターが問いかけると、レヴィンは「まさか」と微笑んだ。
「流血なんて野蛮です。わたしはもっとスマートに解決しますよ」
「……その“クリステラ”と結婚すると言えば良かったんだな?」
ヴィクターは投げやりに言った。もはややけくそだった。
「ええ」
しれっとしてレヴィンが頷く。
「そうすれば、こんなことにはならなかった。あなたの自業自得でしょう」
「………」
「あんな娘と結婚したいと、意地なんかはることはないのに……。いくらでも替えのきく、チンケな娘じゃありませんか? いったいどこがいいのか、今もってわたしには分かりませんよ。ハイネベルク公国の公女のほうが、よほど聡明で愛らしかったのに」
ああ、きっとかわいい子供が生まれたろうなと、レヴィンは遠い目をしている。
ヴィクターは何も言わなかった。ただじっと考え込むばかりだ。
「反論の言葉もないとは、相当お疲れのようですね」
レヴィンがちらりと顔色をうかがいながら、呟く。
「やはり眠ったほうが宜しいですよ。場所を空けますから、こちらへ」
「……陛下。わたしは、陛下を支持します」
主君がそれで寝てしまうとでも思ったのか、慌てたように騎士が近づいてくる。
ヴィクターは訝しげに騎士を見た。
「……何の話だ?」
「ご自身の決めた方と結婚なさるべきですよ! たとえ身分が釣り合わなくとも」
「ああ……」
ヴィクターは呟き、それから苦笑する。やはりちゃんと話を聞いていたらしい。
「その通りです。卑怯な連中の脅しになど、屈することはありません」
別の騎士も床に座ったままあぐらをかき、拳を握ってひざを打つ。
「いくら結婚をやめさせたいからといって、相手を攫うなんて卑怯者のすることです! ボリスクから戻ったら、断固処罰なさるべきですよ。イグナーツ卿もそのように仰っておいででしたが、わたしもまったく同感です」
「その女性……まだ見つからないのでしょう? なんでしたら、陛下だけボリスクへの出立を先延ばしすることにして、問題が解決するまで城に留まられては……。今のままでは、とても城を離れるお気持ちにはなられないでしょうから」
「そうすべきですよ、陛下!」
騎士たちが口々に勧めてくる。
なんの計算も目論見もない、心からの申し出だ。
しかしヴィクターは、それに頷くことができない。
フィアひとりのために遠征の出立日を遅らせたとなれば、のちのちのどんな非難を受けるか分からない。──いや、目に見えているではないか。以前、勝手に近衛騎士団を動かしたときも、足元の宮廷からさえ、『自分たちを軽視している。王は勝手にやりすぎている』と非難の声が上がった。そのときと同じようになるだけだ。
しかも、今度の非難はフィアにも向けられるに違いない。もはやフィアの存在は、城の中でも公のものになりつつあり、その名を知っている者もけして少なくはないのだ。そんな状況で、フィアのために、国境警備を疎かにした──などと言われては。
まして昨日の軍議では、領主たちがあれほど焦り、激怒していた。
出立日は明日。それは変えることができない。
一日でも遅らせれば、それは領主たちへの裏切りとなる。彼らの税を吸い上げ、権力をこの王都に集めているかわりに領地を守る。それが彼らとの約束だからだ。──ヴィクターが約束したわけではない。古来、ウルヴァキアの王と、貴族諸侯のあいだに交わされてきた、それが神聖不可侵の誓いだ。それを破るわけにはいかない。どうあっても。
「いや……」
ヴィクターは目を伏せ、小さく首を振った。
「ボリスクへは予定通り、明日発つつもりだ。気持ちは嬉しいが……それは曲げられない」
「しかし、城に気がかりを残されたままでは……」
騎士のひとりがためらいながら言った、そのときだった。
壊れて開いたままの扉を不吉に叩く者がいた。──見知らぬ、女だった。