KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十章 朝よ来るな 15

ひどく痩せた女だ。
落ち窪んだ目の周りは青黒くなっている。頬はかさついて荒れており、血色の悪い唇も同様だった。服装だけは侍女のものだったが、長い袖からはみ出した手首は折れそうに細く、手の甲も顔と同じように、痛々しげに荒れ果てていた。
まるで骸骨のようだと誰もが思った。死病にでもとりつかれているのだろうか。
「侍女……か?」
さすがにあっけにとられ、最初にレヴィンが口を開いた。城の使用人や侍女の顔はほとんど見覚えていると言ってもいい彼の記憶力をもってしても、この、一度見れば二度と忘れないような女の顔を思い出すことができなかった。
「いえ……」
女の返答は、やはりと思えるものだ。
「使者の役をおおせつかり、こちらに参りました。城の者ではありません」
少ししゃがれてはいるが、案外しっかりした声だ。
女はそう言うと、執務室の中を見回し、その中のひとりに目を留めた。疲れたように椅子にもたれこんでいる一人の男だ。
「お人払いをお願いいたします、国王陛下」
それが誰なのか彼女にはきちんと分かっていたらしい。冷静に言う。
ヴィクターは吐息をついて頷いた。“使者”と名乗るからには、目的は何かも分かっていた。そのような人間がこの部屋を訪れる瞬間を、もしかしたらと思いながら待ち続けてもいたのだ。
その頷きを受け、女はやせ衰えた顔の中でも、唯一生気を失っていない瞳でレヴィンや騎士たちを見渡した。鋭いと言ってもいいほどの視線だ。騎士たちは一瞬迷ったようだったが、主君が黙っているのを見ておとなしく外へ出て行く。いまだに高いびきをかいているメルヴィンは、二人がかりで引きずっていった。
「くそっ、重てーなこの中年……」「痩せてんですけどねー?」とぶつぶつ言い合う。
「扉は壊れていて、閉まりませんよ」
レヴィンも、そう言って外へ出て行く。
その不機嫌そうな背中を女が振り返って眺めながら、くすりと笑った。
「今の、『立ち聞きする』と仰ってらしたのかしら。……行儀の悪い方」
それから、先ほどまでレヴィンが座っていた、長椅子の中央に腰掛ける。地味な紺色のドレスの裾を細い枝のような指で広げ、神経質に整える。そのあと、両手を淑やかに重ねて揃えた。すっと背筋を伸ばし、真正面からヴィクターを見据える。
艶を失ってはいるが、豊かな髪を見ればそれなりに若いと知れる。しかしすっかり痩せ衰えたその容姿は、けして美しいとは言えない。まるで老女のようなのだ。だがヴィクターは、女の仕草の向こうに別の姿を見るような思いがした。意志の強さを感じさせる瞳をのぞきこめば、揺らぐことなく見つめ返してくる理知の光がある。けして疎かにしたり軽蔑したりすることのできない、強く美しい女がそこにいるような気がした。
「お初にお目にかかります、国王陛下」
女はしわがれた唇をうっすら開いて、最初にそう言った。
「事情があって名は名乗れませんが、お許しを」
女の言葉に、ヴィクターは投げやりに頷いた。
名などどうでもいい。肝心の話はそこではない。
「俺の望むものをそちらが手札にしているはずだ。返してもらおう」
低い声を放つと、女は剣呑な視線を避けるように目を伏せ、首を傾ぐ。
「そのつもりで参りましたけれど。でも、いくつか条件がございますわ」
「その前に、──無事か?」
抑えた声でヴィクターが訊ねた。女は微笑み、「ええ、もちろん」と頷いた。
「傷ひとつつけてはおりません。ただ、少々厳しい場所にいていただいていますので……あまり交渉が長引くと“彼女”のためにならないと思いますわ。国王陛下」
──無事。
その事実を確認し、ヴィクターは知らず、詰めていた息を吐く。
けれど気を抜くわけにはいかない。どうやらこの交渉は油断ならないものになりそうだ。
「条件とやらを言え」
「彼女との結婚を諦めることです。簡単なことでございましょう?」
女がじっとヴィクターを見る。ヴィクターは目をすがめた。
予想した条件よりもずいぶんとそれは緩い。もっと高圧的に、無理難題を押しつけられるのではないかと思っていた。例えば、到底払えないような金銭の要求。もしくは『玉座をおりろ』というような直接的な要求。けれど女が口にしたのはそのどちらでもない。
『フィアと結婚するな』。──それだけの要求。
けれどヴィクターにとっては、それもまた無理難題のひとつに含まれるものだった。
「断ると言ったら」
「生きてお返しすることはできかねます」
女は平然と、過酷なことを口にする。
ヴィクターは黙ったまま片手で顎をなぞった。
「……黒幕は誰だ?」
やがて放たれた問いに、女はまるで答える気配がない。謎めいた微笑みを浮かべたまま、口を閉ざして座っている。
「エトヴィシュ公爵に雇われたのか? ……疑いたくはないが」
そう言ったヴィクター自身、本当にエトヴィシュ公爵が裏にいるとは思っていない。あの老人はたしかに、人を陥れる策謀をめぐらせることをためらわないかもしれない。しかし、フィアを攫う──などという直接的な手段に出るとは思えないのだった。
それほど若くはない、という気がヴィクターにはする。
フィアを攫ったことがもし明るみになれば、あの公爵は今まで築き上げてきたものをすべて失うことになるのだ。先々代国王のもとで“顧問官”と呼ばれ、国政の一角を担った栄誉も。不遇の時代ともいわれた先代国王の御世、ひとつでも失敗をすれば死につながる危険な道を、些細なことでつまづきはしたが、最後まで安全に渡りきった慎重さと幸運も。
そして今、王妃の座に一番近い人間は、フィアをのぞけばエトヴィシュ公爵令嬢クリステラである。我慢に我慢を重ねた公爵は、三代の国王の御世を耐え抜いて、その手に歴史を掴もうとしているのだ。その公爵が、フィアを攫うなどという暴挙に出るだろうかと思うと、さすがに疑問が残る。良心を頼みにするわけではないが、あの老人はそこまで愚かではないだろうとヴィクターは思う。
かつてフィアがエドアルドに拉致されたように、人をひとり連れ去るということは、暴挙であり愚挙である。先のことを考えれば到底実行できない。リスクが大きすぎるのだ。そのリスクを犯してでも、それをやろうという人間──。エトヴィシュ公爵ではない。もっと若く、頭が良く、それでいて後先省みない狂気を持つ人間──。
「いくらお訊ねになっても無駄でございます」
女はかさぶたのあとの残る瞼を伏せて微笑んだ。
「わたくしの口を割らせたいなら、拷問にでもおかけなさいませ。お気の済みますように」
その答えにヴィクターは舌打ちしたくなった。
拷問。そんなことが出来るわけがない。
気が咎めるという話ではない。必要があればいくらでもやるが、目の前の女は、とてもそのようなことに耐えられそうにない。骨と皮でかろうじて出来ているような体だ。殴れば骨が折れ、食事を与えずに牢に入れれば三日と持たず死ぬだろう。
そのためにそのような体を維持しているのであれば、たいしたものだと言うしかない。女の身で、そこまで覚悟が出来ている人間はそう多くはない。
だからこそ、このような“使者”の役を任されたのだろうが──。
「でも、そうしているあいだに、あなたの大切な“シスター”は死んでしまうでしょうね」
女はあくまで強気だ。
(──シスター)
ヴィクターはかすかに眉をひそめる。
フィアが修道女であるということを知っている。ならば向こうは、かなり前からフィアに目をつけていたと考えるべきだろう。──当然といえば当然だ。フィアが還俗して城に来るなり、手勢を連れて執務室に踏み込んできて、剣を振り回しフィアを連れ去ったのだ。フィアが自分にとってどのような存在か、知っていなければそこまでのことは出来ない。
(修道院ではフィアに手出しをしなかった。──アラリスがいたせいもあるだろうが、それにしても、直接襲撃されたという報告は受けていない。修道院で毒殺されかけたのは、フィアではなくクリステラ=エトヴィシュだ。それも警告で、殺すつもりではなかった)
ヴィクターは、どこまでも冷静な女の顔を見ながら考える。
(殺すつもりなら殺せたはずだ。だがそうしなかった。今回も、侍女を殺したのが最初の警告だったんだろう……。だが警告だけでは間に合いそうになかった。だからフィアを攫った。今日、フィアと俺を遠ざけておければそれで良かった。朝になれば俺はボリスクへ行かなければならない。……ボリスク)
この時期に、北の国境で季節はずれの諍いが始まる。
歴史を見ても、ワシュトリア帝国が南下して攻めてくるのは圧倒的に冬だ。一年中雪と氷に閉ざされているかの国は、兵士は暑さに弱い。冬ならば、押し返されても、けして国境を奪われることがない。一段も二段も寒さの厳しいワシュトリア国内に逃げ込んでしまえば、いくらウルヴァキア王国軍が屈強といっても、あまりの寒さに体力・気力を消耗させられて撤退する可能性のほうが高い。
だがウルヴァキアの季節は、じきに夏へ向かっていくところだ。攻めるにしても守るにしても、ワシュトリアには不利な季節。だからこそ、最初に聞いたときは耳を疑った。ワシュトリアが軍備増強しているといっても、冬に向かってのことだろうと思っていたからだ。それまでにこちらの体勢を整えれば、十分間に合う計算だった。
だがそれが崩れた。
──なぜ? なぜこの時期に?
ヴィクターは目を伏せた。
その口元に薄い笑みが浮かぶ。
それを見た女が、わずかに眉を動かした。不穏なものを見たように。
「……あなたとシスターの婚姻を認めるわけには参りません」
女が、やや硬い声で言う。
「彼女は貴族ではありませんから。……言わせていただければ、あなたさまのわがままがいけないのですわ、陛下。古から国のために尽くしてきた貴族を裏切り、平民の娘を娶るなどと仰るから。そのようなことをしている国は、ほかにございません。わたくしはウルヴァキアの民として、恥ずかしい限りにございます」
「貴族の娘ならば、いいと?」
「血筋は大切なものにございます。あなたさまがその座にあられるのも、王家の血ゆえ。血を否定なさることは、ご自身を否定なさること。そのような愚かなことはなさらないと存じますが」
「『平民でなければ誰でもいい』というのだな?」
「……ええ」
女は一瞬のためらいを見せたが、それをなかったことにするように強くヴィクターを見据える。
「あなたさまが貴族をないがしろにしていないと、そのようなメッセージを発してくださるのなら、それでわたくしどもの要求は通ったも同然でございます。特定の誰と結婚しろとは、あえて申しませんわ。ふさわしい、ふさわしくないの話はまた別にあるでしょうが」
「──いいだろう。そちらの要求を呑もう」
ヴィクターは頷き、立ち上がった。
つられるように女も立ち上がる。
「望みどおり、“貴族”と結婚してやる。フィアを『殺す』と言われて、俺に他に選びようもない」
「口約束だけでお済ましになるおつもりですの?」
女が挑発的にヴィクターを見上げる。
ヴィクターは自分の執務机に歩み寄ると、引き出しから一枚の紙を取り出した。
丁寧に、緻密なほどの手書きの縁取りがなされたその羊皮紙は、公的文書を作るのに使われるものだ。国王からの命令だとすぐに分かるよう、特別の意匠が凝らしてある。城の文書官なら、この縁取りを見ただけでこの文書の書き手が分かるのだ。
この紙に書かれた内容は、どのような内容であろうとけして疎かにされることがない。
たとえくだらないわがままであったとしても、必ずそれは実現される。王の望みだからだ。
「口約束が不満なら、望みどおり形に残してやる。誰が見ても分かるようにな」
ヴィクターは顔を上げて、執務机の向こうにいる女を見た。片手には羽ペンを持っている。
「それで……何と書けば満足だ?」
女は何も言わなかった。
その視線はヴィクターの顔ではなく、机の上の羊皮紙に注がれている。
「──クリステラ……」
やがて、女が呟く。
ヴィクターは椅子を引くと、それに座った。立ったままではさすがに書きにくい。
「『クリステラ=エトヴィシュと結婚する』と。──そのように」
女が囁くような声で言う。
ヴィクターは言われたとおりのことを、少しばかり堅苦しい文面で書き記していく。
国王が書くのに相応しいように。誰が見ても、その内容に心から納得するように。
本来、女が書かせたかったことは別のことに違いなかった。そうヴィクターは思う。だが、すんでのところで女は道を変えたのだ。危険を犯してでもフィアを完全に排除する道より、雇い主を守る道を選んだ。──見上げた女だ、と、ペンを置きながら思う。さすがに女の身で使者を任されるだけのことはある。下手をすれば不興を買って首を飛ばされてもおかしくないところを、相応の覚悟を持ってこの執務室に踏み込んできたのだと、そう思わざるをえない。
立ち上がる。すぐに紙を手に取らないのは、まだインクが乾いていないからだ。
そのあいだに、疑問に思っていたことを口にした。
「そんな体になってまで、忠誠を誓う価値のある相手なのか?」
問われた女は、最初、何を言われたか分からないというふうだった。
やがてその顔に、警戒の色が浮かぶ。女が思わず見せた動揺だった。
「この体は、病のためです。他に理由はございません」
「……なるほど」
「一言、申し上げておきますわ」
女がヴィクターを鋭く見据えた。
「あなたさまがシスター・フィアにこだわり続ける限り、わたくしの主は、シスター・フィアへの攻撃の手を緩めることはけしてございますまい。このたびのことは“警告”──二度目はないと心なさいませ」
「………」
「この念書の誓いが破られたとき、あなたさまは面目とともに彼女をも失うことになるのだと、くれぐれもお忘れなきように」
ヴィクターはそれには答えず、黙って羊皮紙を手渡した。
女がそれを受け取り、文面に目を走らせる。
とりあえず納得がいく内容だったのか、浅く頷いた。顔を上げる。
「取引成立ですわね」
「では、返してもらおう」
「わたくしが安全にここから出たあと、別の者から彼女の居場所を告げさせます。今しばらく」
待て、と遠まわしに女は言う。
「それを信用しろというのか?」
ヴィクターは思わず言ったが、
「約束は違えません」
女がきっぱりと言った。その言葉にはたしかな自信があった。
しばらく無言で睨み合う。
折れたのはヴィクターのほうだった。
「……傷ひとつつけていないという言葉、忘れるなよ」
呟くように、だが抑えきれない力をこめて言った言葉に、女が深く頷いた。
信用するしかない状況ではあるが、信頼に足る女であることは事実だった。
「それでは、お目汚しいたしましたこと、心から謝罪いたしまして──御前失礼いたします。お目にかかれて光栄でございました……ヴィクター陛下」
女はそう言い終えると、痩せ衰えた容姿に似合わぬ、実に優雅な礼をしてみせる。そして、掴めば折れそうな細い体に相応しく、足音ひとつ立てず執務室を出て行った。
入れ替わりに、待っていたかのようにレヴィンが入ってきた。
女の背を見送ったあと、レヴィンがヴィクターに視線を戻す。
「……何を書かされたんです?」
美しい顔をしかめて問いかけた側近に、ヴィクターは首を振った。
「『クリステラ=エトヴィシュと結婚する』と書いてやった。向こうの望みどおりだ」
「はあ……」
レヴィンは呆れたような声を出した。同時に片眉がはねあがる。
「いいんですか? そんなことを書いて。そうする気など、おありにならないくせに」
腕を組んだレヴィンの姿を、ヴィクターはじっと見た。
本来この側近からして、自分とフィアの結婚にいい顔をしていない。クリステラとの婚姻は、願ったりかなったりという話であるはずだ。だというのに、いざとなればこんなことを言う。
「……なんです」
不審に思ったレヴィンが、むっとした顔になって問う。
「何かわたしに言いたいことでも」
「言っても無駄なことを言う趣味はない」
ヴィクターはそっけなく言い、背を向けた。
「どういう方法か知らないが、あとであの女の仲間から連絡があるはずだ。たぶんここへ来るだろう。それまで一眠りする。誰か来るか、動きがあれば知らせろ」
言って、長椅子に横になった。
「……本気でクリステラ令嬢と結婚なさるおつもりですか? ヴィクターさま?」
最近『陛下』というのがすっかり口癖になったレヴィンが、珍しく名前を呼ぶ。
けれどヴィクターは返事をしなかった。面倒くさそうにきつく目を閉じただけだ。
本気なのかと問われても、答えようがない。本気だろうが冗談だろうが、フィアを盾に取られて『一筆書け』と言われれば、断れるはずもない。まして相手は、フィアにこだわるかぎり、『フィアを何度でも危険に晒し続ける』と言明しているのだ。
朝になればボリスクへ発たなければならない自分に、フィアを守る手段はない。ボリスクへフィアを連れて行くことは不可能ではないが、それもまた危険な賭けだ。国境へ行けばあらゆる煩雑なことが待っている。四六時中フィアから目を離さずにいるということなど出来るはずもない。どこに敵の手の者が潜んでいるか知れないのだ。
このままでは駄目だ。必要なのは根本的な解決で、フィアが攫われるたび、自分が探し回るということではないはずだ。こんなやり方には遠からず限界が来る。いつかフィアを失う羽目になる。
そうしたくないなら、ここで決断しなければならないのだ。
相手の望みどおり、フィアと結婚しない道を選ぶこと──。
それこそが、フィアを最も安全にする決断だ。皮肉な話だが、それが現実だった。
分かっているから拒まなかった。ただ──それだけのことだ。きかれるまでもなく。