KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十章 朝よ来るな 16

ぴしゃ……ん。
突き放されるような水音が聞こえた。ひどく遠くから。
その音に誘われるように、フィアはうっすらと目をあける。
たしかにその感覚はあったのだ。重たい瞼を開いた感覚が。
けれど、本当にそうできたのかどうかフィアには自信がない。
何も見えなかった。──何も。
何ひとつ、輪郭を見つけられない。あたりに広がるのはただただ、闇──。
フィアは横になったまま、そっと片手を上げてみた。
腕を動かした感覚はある。けれど、手のひらすら見えない。残る片手でそれを掴んで、ようやくそこに自分の手があるのだと分かるほどだ。フィアは息を詰め、両手をついて一気に身を起こした。
(真っ暗……。ここ、どこ?)
手のひらは、たしかに土の手触りを感じている。けれど、自分の問いに答えるものは何もない。墨で塗りつぶされたような、重く淀んだ世界が広がるばかりだ。
「誰か……」
声を上げかけたが、それは力なく途中で途切れる。
喉が痛い。思わず押さえ、咳き込む。
そのときにようやく、自分の体がひどく熱を発していることに気づく。喉が焼けるように熱いだけではない。首のまわりも、胸も、手のひらで押さえれば、そこが常にない熱を持っているのがはっきり分かる。
──熱い。
水があれば、と思った。けれど望みようもない。
フィアは立ち上がろうとした。深い闇の中、自分の体すら見えないというのに、立ち上がるのは簡単なことではなかった。バランスを崩し、よろめき、何度目かにようやく立ち上がれはしたものの、自分の体がまっすぐなのかどうかすら判断がつかない。
震える足を一歩、前に出す。
湿り気を帯びた土が、重みを受けて靴ごとわずかに沈んだ。
(濡れてる……。どこかに水があるのかも)
それを唯一の希望に、フィアは気力を奮い立たせる。
一歩、二歩、三歩──。闇の中、両手を広げて少しずつ進んでいく。
闇を吸っているような気がして、少し胸が苦しい。息が上がっているのだとは思ったが、それを考えるのはやめにした。考えたら、足がすくんでしまう。こんなところで、一歩も歩けずへたりこんでしまったら──。
(生きて、出られない)
その考えが、沈んでいた恐怖を刺激する。
恐怖がゆっくりとせりあがってくるのを感じた。フィアは目を閉じた。こうなったらもう、目を開けていても、閉じていても、関係がない。何も見えないのだから。
ならば目を閉じてしまえばいいのだ。すべてから目をふさいで、ただ歩くことに集中すればいい。ここがどこかなんて、そんなことを考える必要はない。先に進むのが先決だ。進めば道は開ける。どこにいても──いつだって、それだけは事実のはずだ。
──怖い。
心の声を無視して、フィアは一歩一歩足を踏み出していく。
右、左、右、左──。いつもやっていることだ。どうして難しいなんてことがあるだろう? 歩くなんて、考えるまでもなく出来ることのはずだ。
それなのに今は、ままならない。
重たい闇が自分に向かってのしかかってくる。闇が、この体を押しつぶそうとしている。
息が苦しい。
フィアは、切れ切れの自分の呼吸の音を聞いていた。怖さのあまりに、どこからかこみあげる涙があった。それを拭って、大丈夫、泣けるのだからまだ自分は大丈夫と、根拠もなく言い聞かせる。
「誰かいませんか──!?」
フィアはこれが最後とばかりに、思いきり叫んだ。
けれど、その声を放った瞬間、遠くで嵐が吹き荒れるような音がした。
それはやがて、轟音を立てながら、見えないうねりとなってフィアに襲いかかる。
我を失って悲鳴を上げたフィアの周りを、まるであざ笑うかのように舞い飛んだ。羽音──いまやはっきりと知覚できるそれが、けたたましく耳元で鳴り響く。生き物の一部のようなものがばたばたと無数に顔や体をかすめるたび、悲鳴をあげずにおれなかった。
見えない嵐が過ぎ去ったあと、フィアはその場に崩れ落ちる。
震えて、耳を塞いだ。
「誰か……たすけて……」
かぼそい声が唇から落ちた。
涙が、こわばる頬を伝い落ちる。
なぜこんな目に遭わなくてはならないのだろう? 何も悪いことはしていないのに。
王妃──。
ただ、その座につくというだけで。
これほどまでに人に恨まれなければならない。
覚悟はあったはずだった。でも、それは死ぬ覚悟ではなかった。こんなふうに、どこか分からない闇の中に閉じ込められて、行き先も分からずにさ迷い、力尽きるのを待つばかり──そんなことを予想していたわけではない。
どうしても諦めきれないのなら──死ね。
そう言われているような気がした。
倒れるように伏した地面に、熱を帯びた額が触れる。悔しくて握り締めた拳が、湿って冷たい土を叩く。そのまま動けなくなったフィアは、頭を抱えて、荒い自分の呼吸の音だけを聞いていた。
興奮がおさまるとともに、呼吸の音も小さくなっていく。
平静を取り戻せたと、自分で信じた。そう信じたかった。
──もう一度、立ち上がれるはず。
きっと、誰かが心配している。誰かが探してくれている。
そう言い聞かせた。
涙を拭い、フィアは立ち上がった。
今度こそ進むのだ。前に。
そこが必ずしも進むべき道でなかったにしても、ここでうずくまって泣いているわけにいかない。こんなところで負けるわけにいかない。負けたら、相手の思う壺だ。両手を叩いて喜ばれるだけだ。
──そんなのはいやだ。負けたくない。
進もう。たとえ、一歩ずつでも。
言い聞かせ、フィアは歩き出す。
──そのときだった。
急に足場がなくなって、体がふっと宙に浮く。
あっと思ったときには、もう穴に吸い込まれていた。折り曲げられた体が、不自然な形であちこちにぶつかる。やがて穴の底で、フィアはつかのま時間が止まるのを感じた。──動けなかった。


ぱらぱらと、上から土のかたまりが落ちてくる。
「けほっ……」
軽く咳き込んだ。口の中に入ってしまったかたまりを吐き出す。
のぼろう、と思ったのは自分でも意識しない心の動きだった。そんな気力もないのに、体はそこから這い出そうと動き始める。ここでじっとしていたら、本当に、穴の底で動けなくなってしまうからだろう。なかば本能的なものだった。
靴をはいたままではどうにもならないので、脱ぎ捨てて裸足になった。
さほど硬くない、湿った土に指を突きたて、必死で這い登る。湿った土は同時にひどく滑りやすかった。なんとかしようと焦って爪を深く土に食い込ませると、小石が挟まるいやな感覚があった。思いのほか深く挟まってしまったようなので、諦めてそのまま力をこめた。
少しのぼっては、滑り落ち──滑り落ちては、またのぼり。
何度かくりかえすうち、ようやく穴を抜け出せた。
地面に体を投げ出し、フィアはあえいだ。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
指先にずきん、ずきんと鈍い痛みを感じて、手を触れると、そこだけ爪が割れている。途中でそんな感覚はあったから、そうだろうとは思っていた。挟まった小石の圧力でそうなったのだ。
それからどのくらい休んでいたのか、自分では分からない。一瞬、意識を失っていたような気もする。──いや、もしかすると、しばらく眠っていたのかもしれない。
再びフィアは身を起こした。よろよろと立ち上がる。足がふらついた。
(諦めちゃ、だめ……。何があっても諦めないって、決めたんだから……)
熱を持つ体を引きずり、ただ進み続ける。
やがて、伸ばした手の先に何かが触れた。
壁のようだった。
手を這わせると、ごつごつした岩肌が確認できる。土と違って、こちらは湿っていない。乾いた岩肌だ。フィアはそれに手を触れさせながら、横歩きに進んだ。このまま壁伝いに進んでいけば、もしかして出口が見つかるかもしれない──。
けれどその希望もほどなく打ち砕かれる。
どこまで行っても、何もない。
光ひとつ射さず。
闇に慣れた目でさえ、目の前の岩肌を確認するのがやっとだ。
フィアは壁を背にして、ずるずると力なくしゃがみこむ。
疲れていた。心だけでなく、体力も限界だ。
熱い。水がほしい。喉が焼けつきそうだ。あえぐような息を漏らしながら、壁にもたれる。
(喉が、かわいた……)
そう思いながら、立てたひざの上で頭を抱える。
ここから動きたくないと心底思った。ここにいれば、壁がここにあるのだということだけは分かるからだ。ここから離れてしまったら、またあてどなく、闇に覆われた不気味な空洞の中をさ迷い歩かなくてはならない。進んでいるのか、後戻りしているのかすら分からないというのに。
(熱い……なぁ……ここ……)
膝に当たる自分の息が熱いのだとは、フィアは気づかなかった。
そのまま、ぐったりと横になる。苦しげに目を閉じて、荒い息をさせ続ける。
いつまでたっても楽にならない。それどころか、どんどん苦しさが増してくる。
少し眠ろう、と思った。
フィアは薄目を閉じて、世界から自分を隔離した。
眠れば、朝になっているかもしれない。そうすればこの冥府のような闇にも、光が差し込むに違いない。そうすれば行き先が分かる。それまでは──眠ってもいいはずだ。神さまだって、きっとそう言ってくれるだろう。


再び立ち上がったとき、もう何も考えなかった。
考える力もない。
うつろに、闇の中をさ迷い歩く。
自分が何をしているのか、自分で分からない。
そうだ──なぜ、こんなところにいるのだろう? いつ、ここへ来たのだろう。
ああ──もしかしたら、自分は悪夢を見ているだけではないのだろうか? 子供のころに繰り返しみたような、どこかに閉じ込められて泣かなくてはならないような、そんな夢を──。

──いつか、周りも認めてくれる。時間が解決してくれる。

ふいに、ヴィクターの声が聞こえたような気がした。
フィアは知らず、微笑んだ。
ああ──そうだったらどんなにいいか。
頑張れば認めてもらえるのなら。待っていれば、それで何もかも良くなるというのなら。
でも実際にはどうだろう? いくら頑張ったって、結局、誰も認めてくれないかもしれない。最初からそうなのかもしれない。頑張っても駄目な人間というのが、この世にはいるのだ。相応しくない。それだけの理由で、世界から拒絶される人間というのもいるのだ。そうでないなら、自分がこんな目に遭う理由が──分からない。
もしかしたら五年後、十年後、自分は一人でいるのかもしれない。
時間が経つほど幸せになれるなんて、いったい誰が言ったのだろう? 誰が保障してくれるというのだろう? 本当はその反対かもしれない。時間が経つほど、幸せはすり減っていく。不幸が押し寄せてくる。まるでこの闇のように自分を押しつぶして、息もできなくする。そうであるかもしれないのに。
頬に、涙が流れ落ちた。
──結局、怖いのだ。臆病なのだ。
幸せになるのが怖い。だって、いつかそれを失わなければならないのだから。だからいつも逃げる理由を探していた。彼が自分を幸せにすると分かっているのに、そこから逃げ続けた。それが──真実だ。
修道女だから。相応しくないから。反対する人がいるから──。
闇はなんて残酷なのだろう。フィアは泣きながら思う。闇は人の恐怖を引きずり出してしまう。眠っているものまで容赦なく。愛される資格がないと思い続けていた自分は、本当は、愛する覚悟がなかっただけなのだと、そんなことに気づきたくはなかったのに。
愛していないわけではないけれど──
愛しているともまた、言い切ることができない自分がいる。
ここに、いる。
(いっそ、他の人を好きになってくれればよかったのに)
たがが外れてしまったように泣き続けながら、そんなことを悲痛に思う。
そうだったら、何ひとつ問題など起こらなかった。誰にも反対されず、邪魔されず、こんな目に遭うこともなく、ヴィクターだって──相応しい人を選んでいたなら、さぞ楽だったろうに。
(わたしは、あなたでなくたってよかったんだもの。他の誰だって……よかったのよ)
『おまえが必要だ』。そう言われて、ただ、嬉しかっただけなのだ──。
そう言ってくれるなら誰でもよかった。ノイエでも。エドアルドでも。──シグワスでも。
──最低だ。そんなのは。
拭っても拭っても、涙は止まらない。悲しくてたまらない。
あんなに、約束したのに。たくさん、約束してくれたのに。
もう、それに応えられない。認めてもらうのを待つことも、時間がすぎるのを待つこともできない。──気づいてしまったからだ。これ以上、一歩も先へは進めないと。だから悲しいのだ。悲しくて、どうしようもない。
「──……フィア! いるのか、フィア!!」
聞きなれた、自分の名を呼ぶ声。
誰のものかなんて、考える前に分かる。
その場に崩れ落ちながら、フィアは激しく泣きじゃくった。何かが壊れてしまったように。
自分を見つけてくれるのはいつだって彼なのに、その彼に、言わなければならないのだ。
「どこにいる。返事をしろ! ──フィアッ!!」

ヴィクター……あなたと一緒にはいられない。
だって、わたしはあなたを愛していないから。

そう、言わなければならないのだから。


松明を掲げ持った騎士たちが、地下空洞へ続く階段をかけおりていく。
──王都の外れ。ゆるやかな丘陵の上にある、見晴らしのよい王族の墓地の一角。
ぽっかりとあいた四角い穴から地下へ伸びるその階段は、普通なら開放されることがない。その存在すら、長らく国家機密だったのだ。けれど今は、続々とおりてゆく騎士たちの鉄靴によって踏み荒らされている。フィアがこの地下空洞のどこかに置き去りにされていると分かってから、すぐに差し向けられた救援が彼らだった。
そこに国王の姿はない。自ら馬を駆って城を出て行こうとしたヴィクターは、けれど近衛騎士団長であるウルリクに止められた。
『あの娘のために軍の出立が遅れるようなことがあれば、わたしはあの娘を斬ります』。
迷いもなくそう言い切った騎士団長に、さすがのヴィクターも反論できなかった。
平民の娘ひとりの安否より、国家の危機に対応する遠征軍の出立のほうが一大事。
その理屈は、ヴィクターにも分からないではなかった。
──いや、よく分かっていた。だからこそ、奥歯を噛み締めながらも城に踏みとどまったのだ。代わりに気心の知れた騎士たちが、『必ず探します』と言い残して次々に城を出て行った。
その騎士たちが今、松明を片手にフィアを探して走っている。
「シスター・フィア! いるのか、シスター!」
ベリスが声を枯らして叫ぶ。
暗黒の地下空洞は、大昔の墓場でもあり、今は使われることはない。城から王家の墓地へと抜けるその空洞の一部には複雑な迷路もあり、迷えば出られないと言われていた。そうでなくとも光の射さないこの時間、真っ暗な地下にひとり閉じ込められたフィアは、どんなに恐ろしかったことだろう──。
「どこにいる。返事をしてくれ! 頼む──シスター・フィアッ!!」
そうして、がらんどうの空洞の中をどのくらい進んだときだったか、
「向こうに何か影が見えるぞ! あれじゃないのか!?」
他の騎士が叫んで寄越す。
ベリスがはっと息を呑むのと、隣をまた別の騎士が駆け抜けていくのとは同時だった。
見れば、珍しくまじめな顔をしたフィルデールだった。
ベリスもはっと我に返り、その後を追う。
先にたどり着いたのはフィルデールだった。倒れているフィアに駆け寄り、その体を揺する。
「シスター。……シスター! しっかりしろ、シスター・フィア!!」
フィルデールに抱き起こされたフィアは、かすかに意識があるようだ。
松明の炎に照らし出されたのがまぶしいのか、顔をそむける。それは同時に、フィルデールの胸に顔を伏せることにもなった。フィアはその胸に震える片手を寄せると、服の一部を掴んだ。そして、力なく何かを呟いていた。
フィルデールがそれを聞き取ろうと身を屈める。
「大丈夫そうですか?」
ベリスも身を屈めて訊ねた。ここまで馬で駆けたうえに、走ってきたせいで息が上がっていた。そもそもこの地下空洞の中が妙に息苦しいのだ。落ち着かない気持ちで腕を上げ、額の汗を拭う。
「大丈夫そうだけど……ね」
フィルデールは呟いてから、フィアを抱き上げる。
「見つかった。──城に戻ろう」
フィルデールが、後を追ってきた騎士たちに大声で言う。
騎士たちの顔には、さすがに少なくない疲労の色があった。
頷く顔に、やれやれと苦い表情が滲んでいる。
ベリスはフィルデールの隣を歩き、松明を掲げてフィアの顔をのぞきこんだ。
「……泥だらけだな。かわいそうに」
「そうだなあ……」
フィルデールはどこかぼんやりしたふうに相槌を打つ。ベリスは怪訝な顔になる。
「どうかしたんですか? フィルデール卿」
「え? 何が?」
「何がって、ぼんやりしてるじゃありませんか」
「眠いんだよ。だって、昨晩から寝てないからね」
フィルデールは言いながら小さくあくびをする。
たしかにそうだとベリスは思った。
「夜が明けたら出立ですからね……。誰か、馬上で居眠りして落馬しないといいですが」
「こんな時期に遠征だなんてねえ……。まったく、ついてないよな」
フィルデールは苦笑いしてみせたが、やはりどこか心ここにあらずというふうだ。ベリスは自分の先輩の様子がおかしいのに少し疑問を持ちながらも、自身、急に押し寄せてきた眠気に我慢しきれず大あくびを漏らす。
「馬上で居眠りするコツを副団長に教えてもらおう……」
ついそんな愚痴をもらすと、そのときだけはフィルデールは常日頃の彼に戻り、
「コツなんてものはないよ、あの人の場合。落ちても構わないと思ってるだけさ」
といつもの軽い毒舌を放ち、ベリスを笑わせたのだった。