物思いに沈んでいたノイエに、会話の糸口を与えたのはフィアのほうだった。
「今日はお城に行ってきたんでしょう? ノイエさん」
ひとしきり泣いたあとのある顔で、さっきよりは明るく言う。
そこには悲しみの色はあまり残っていなかった。むしろ、泣いてせいせいしたというようだ。フィアのほうはもう気持ちに整理をつけてしまったのだろうかとノイエは疑った。いや──それが自分の望みではなかったか。ヴィクターを忘れて欲しいというのが。
「ええ……」
「何か新しい知らせはあった?」
「新しい知らせ……ですか?」
「例えば、あの……ほら。遠征の話、とか」
フィアは言いづらそうにもごもごと言う。
ああ、とノイエは内心で相槌を打った。
やはりヴィクターのことが気になるらしい。彼が遠征の地でどうしているか知りたいのだろう。そのことに少しばかり安堵する。──実際、複雑な気持ちではあった。忘れて欲しいと願いながらも、こうして不安顔でいるフィアを見てほっとしもする。
結局、自分もまだ割り切れていないのだろうとノイエは思った。
なぜこんなことになってしまったのか理解できずにいる。ヴィクターに腹を立て、ときに感情的になって彼を非難しながらも、それでも心のどこかでは何かの間違いであってくれたらと願っている。──彼を、信じたいと。
「まだ戦闘があったとは聞いていません。ワシュトリアの状況が分からないのでなんとも言えませんが……それほど大規模な戦争にはならないのではないでしょうか。夏にワシュトリアが攻めてくるというのは聞いたことがありませんから、向こうも本気ではないのではないかと」
「そう……」
フィアはほっとしたようだった。
慰めるための説明ではあったが、それが功を奏したのを見てノイエは満足した。
しかし、言わなくてはならないことがあるのを思い出し、顔を引きしめる。
「あなたに大事なお話が……」
「大事な、話?」
「あなたのおばさまのことです」
ノイエは静かに言った。フィアが目を見開いた。
──あたしは何もしてないよ! あの娘なんだ。みんなあの娘が仕組んだことさ!
何も知らずに騙されてるんだろう。あんたもとんだお人よしだよ。
そう、あたしやあんたみたいにね、善良な人間がコロッと騙されちまうんだ。あんな顔をしてあの娘、人を殺したって平気なんだから──恐ろしいもんだよ! だからね、あたしじゃないんだ……あたしじゃない……信じておくれよ……毒を盛って人を殺すなんて、そんなことができるはずないじゃないか!
この顔を見ておくれ、この顔を見ておくれ! これが無実の人間の顔だよ、ようく覚えておきな! こんな人間を牢に入れてね、罰を与えようなんて。そんなことをしたら神さまのバチが当たるよ!
いいかい、あたしゃ教会にお布施をしたことだってあるんだよ! たんと金が余ってる金持ちが、ちょっと小銭を取り出して投げ入れるのとはわけが違うんだよ! 手持ちの金をみぃんな賽銭箱に投げ入れたんだ。ねえ、まるで崖から飛び降りるような気分がしたもんだよ。貧乏人だってね、そのくらいの勇気はあるんだよ……明日の食い物のことなんてちっとも考えちゃいなかった。だってそうだろ、いいことをした人間が、明日の食い物に困るはずがないんだからね!
それにしても……まあ、えらい男前を捕まえたもんだよ!
でもね、あんた、気をつけな! あの娘はこうやって、身内が牢に入れられてたって全然平気な娘なんだ。冷たいんだよ……ずっと根に持ってるに違いないよ。
何をって──
あ、あたしが、あの子を捨てたことを恨んでるに決まってる!
それをずーっと根に持ってね。ほんとに性根の卑しい子だよ。修道女なんて言ったって、人を許す気持ちなんかこれっぽっちもないんだから! そんな恨みがましい娘と結婚したって、不幸になるのは目に見えてるよ──ああ、待っておくれ。どこに行くんだい! 話はまだ終わっちゃいないよ!
ちょっとあんた! 待ちな、いいことを教えてやるから待ちな! 待ちなったら!!
ね、ねえ……。あたしもこんなところに入れられて、ひどい拷問を受けて、すっかり頭が錯乱しちまったけど……本当はね、あの子にだっていいところはあるんだよ。結婚にだって賛成してるんだ。そうだよ、許さないなんて一言も言ってないよ! あんたとあの子の結婚……うん、上出来じゃないか? ねえ? 神さまもびっくりなさるよ、あんたみたいな立派な身なりをした騎士様が、あの子みたいな不出来な娘を面倒みてやろうっていうんだからね……。
だ、だからね、あたしをここから出しておくれでないかい……ねえ、頼むよぉぉぉ! あたしは本当に何もしちゃいないんだ……。あんたなら、ちょいとそこの牢番に口ぞえして……袖の下でも掴ませれば、あっさり出してくれるに違いないよ。そしたらあたしは消えるよ。本当だ、約束する。あんたを煩わせたりしない。あの子の幸せを遠くで願って、毎日神さまにお祈りするよ……
ちょっと! どこ行くんだい!
話はまだ終わってないって言ったろ……こっ、この人でなし! あたしを置いていこうってのか、そうはいかないよ! この野郎……なんて男だい! やっぱり頭がおかしいんだ、あの子と結婚しようなんて男はみんな……いかれてるよ! 騙されて、骨の髄まで吸い取られりゃいいんだ。家も財産も失って、あたしみたいに乞食になっちまえ! 畜生!
ああ……神さま! どうしてあたしがこんな目にあうんだ。悪いのはあの子で、あたしじゃない! あの子は呪われてるんだ……だからあたしはそれをちゃあんと知ってて、あの子を孤児院にやったんだ。将来、こんなふうに家族を捨てる娘だからだよ! 血も涙もない娘に育つからだよ!
あんたも──報いを受けるといい! ああ、畜生! なんだってこんなことになるんだよ! 腹が立つったらないよ……ああ、いやだ……いやだ……助けて……誰か助けておくれえええ!
あたしは無実だ。無実なんだ。悪いことなんかしたことがない。一生懸命生きてきたのに、その結果がこのザマだよ……ああ、ひどい世の中だ! ひどい世の中だ! 悪人だけが生き延びて、あたしみたいな善人がこんな目に遭うなんて──……
「──おばさんの行方が分かったの!?」
フィアが前のめりに身を乗り出した。ノイエは首を振った。
「いえ……。はっきりしたことはまだ」
「そ、そう……」
今度はフィアは落胆したようだ。
それを見ながら、ノイエはあらかじめ用意していた話を慎重になぞりだす。
「衛兵や使用人たちにも聞いて回りましたが、そのような人は見ていないと」
「城に、いなかった……。おばさんが」
フィアはためらいがちに繰り返した。
納得できない、というように小さく頭を振る。
「でも、一緒にお城に行ったのよ。おばさんが一人で……帰ったとしても、そのあとは行くところがなかったはずだわ。お金も持ってなかったから、宿にも泊まれないし」
フィアは懇願するようにノイエを見て、手を握った。
「お願い、ノイエさん。前にも言ったけど、おばさん、たぶん教会の近くにいるんだと思うの……。炊き出しの列に並んだことがあるって言ってたもの。わたしとはぐれてしまって、行くところもなくて、そのあたりで過ごしてるんじゃないかっていう気がするの……だから探しに行かせて!」
「あなたを外にはお出しできません」
ノイエは首を振った。フィアがやっぱりというような顔になる。
「でも、もう一度探してみましょう。今度は教会関係者にも問い合わせてみます」
そんなことをしても無駄なのは分かっていたが、真剣に言った。
「うん、お願い」
フィアはほっとしたように頷く。それを見れば心が痛まないではなかった。けれどノイエは動じまいと努めたし、動じなかった。城で見たあの“光景”──あれを思い出せば、嘘をつくことに躊躇いもない。
そのほうがフィアのためだと分かっているのだから、何を動じることがあるだろう。
何度も捨てられていいはずがないのだ。
そんなことが許されるわけがない。
「出来る限りのことはします」
ノイエはフィアの手を強く握り返した。
「しかし、それでも見つからないときは、縁がなかったのだと思って諦めてください」
そう言うと、フィアはひるんだように視線を逸らした。
「諦める……」
「そうです。そう約束してくださらないなら、私もこれ以上探せません」
「どうして?」
フィアは目を潤ませた。
「だっておばさんは……血の繋がった家族なのよ。カレフ兄さんはどこにいるか分からないし、おじさんは死んじゃったかもしれないって言うし、居場所が分かるのは……もうおばさんだけだわ。おばさんがいなくなったら……」
かすかに涙ぐむフィアに、ノイエは腕を伸ばした。
手のひらを頬に触れさせ、指先で涙を拭ってやる。
「懸命に身内を探しておられるあなたのお気持ちは分かりますが、相手には相手の都合がある。もしかしたら、何かの事情であなたと顔を合わせづらくなったということも考えられるでしょう? 人の気持ちは……分からないものです」
フィアはじっと考え込んだ。
納得しようとして、苦しんでいるように見える。やがてぽつりと呟いた。
「私、一人ぼっちになる」
「いいえ、私がいます」
ノイエはきっぱりと言った。
「言ったでしょう、あなたをラディウス家に迎えると」
「でも……わたしにはもう、ノイエさんの妹になる理由がない」
フィアはかすれた声で言った。
「なぜ、そんなことを」
驚いて見つめると、フィアは瞳を向け返してきた。
「だって、そうでしょう? ノイエさんのお家に行くっていうのも、あれが……肩書きが必要だったからでしょ? わたしが貴族だって。そうじゃないと、ヴィクターさんと結婚できないから」
「……ええ」
フィアにはちゃんと分かっていたのかと、少しばかり苦い思いを噛み締める。
当然の話かもしれない。フィアはもう子供ではないのだ。それどころか最近は、前よりもずっと大人びたように見える。何かの拍子に、こちらのほうが動揺して──見境のないことをしてしまいそうになるほどに。
「でも、それももう必要がなくなったの……」
「だからといって、私との関係まで切ると?」
自分でも驚くほどに声がこわばった。フィアは首を横に振った。
「そんなこと言ってない。ノイエさんは大事な友達だわ……ただ、これ以上迷惑は掛けられない、って思ってるだけ。ヴィクターさんと結婚しないなら、わたしは貴族になる必要がない……ううん、最初から、なれるとは思ってなかった。だって、貴族の家に生まれたんじゃないんだもの。どうやったって、クリステラさんみたいにはなれない」
「それは違う」
ノイエは思わず声を荒げた。
驚いたフィアが小さく肩を震わせる。それを強く掴んで直視した。
「あなたを当家に迎え入れたいというのは、あくまでも私の意志であり希望です。陛下のことは関係ない」
「関係なく……ないわ」
フィアは力なく呟いた。目を逸らす。
「もう、何もかも終わってしまったんだもの」
それに関してはフィアの言うとおりだった。
全てはもう水泡と帰したのだ。フィアとヴィクターは結婚しない。そのための根回しも必要がなくなった。ラディウス家に籍を入れるという話は、ヴィクターとの結婚を前提にしたものだ。その前提が崩れた今、養女の件も白紙に返ったと考えるべきだった。
ノイエにもそれは重々分かっていた。分かっていたが、認められなかった。
頬が──かっと熱くなった。
「では、私とのことも終わりだと? 陛下とのことが終わったから?」
なぜこんなに感情的にならなくてはならないのかと思うほど気持ちが昂ぶった。ヴィクターとのことがどうなろうが、フィアを養女に──という件は揺るがないとどこかで思っていた。それをなかったことにすると言われて、ノイエは初めて、ここでフィアとの関係も終わってしまうのかもしれないという予感を抱いた。
その予感に戦慄した。
そんな未来を想像していなかった。
漠然と──そばにいてくれると思っていた。どんな形でも。
胸が苦しくなった。今まで感じたことのない苦しみだった。
まるで、本当の家族を失ってしまうような──。
「なぜ、そんな残酷なことを仰るのです……。私は最初から、あなたにとっては、陛下を通して関わる人間の一人でしかなかったというのですか?」
ノイエは憔悴したように言った。抑えきれない感情の狭間の、谷間のような瞬間。
「違うわ、ノイエさん……。さっきも言ったとおり、大事な友達だと思ってるわ」
「友人だというなら、頼ってくれてもいいでしょう!」
慰めるように伸ばされた手が、躊躇いがちに腕に触れたとき、気がつけば叫んでいた。
「なのにあなたは、私からまで逃げようとしている」
「そんなことない……逃げたりなんて」
「では、約束したとおり、一緒に領地に行ってくださいますね?」
「行きたいけど、行けないのよ……。分かって、ノイエさん」
フィアはつらそうな顔になった。
「もう、誰にも迷惑掛けたくない」
「迷惑ではないと申し上げている。何度も。それとも、嫌なのですか? 嫌なら嫌と、そうはっきり言っていただいたほうがいっそ諦めがつきます。陛下と別れて、もう付き合う理由もなくなった私とも距離を置きたくなったと、そうはっきりと」
「そんなこと思ってない。ノイエさんのことは好きよ、一緒にいるとほっとするし……」
それは嘘ではないと思えた。少なくともノイエには真実に聞こえた。
「では、私と来てください。フィアさま」
フィアはううんと首を振り、それは出来ないというように顔をそむけてしまう。
ノイエは喉まで出掛かった言葉を飲み込むかどうか、しばらくのあいだ迷った。
言えば、一線を踏み越えてしまうのは分かっていた。
けして褒められたことではないということも承知している。自分は理性を失っており、何を言い出すか分からない状態にあるということも。だから今すべきことは、ここから離れ、一人になって頭を冷やすことだった。
全て分かっていた。けれど、どうにもならない。
「還俗までした結婚話が破談になって、今さらあなたに行くところが?」
「それは……」
フィアは唇を噛んだ。それだけは言われたくなかったはずだった。それでもノイエは言った。フィアに行き場がないのは事実だからだ。今、ここで自分が手を離せば、フィアは躊躇わずに自分のもとを去るのだろう。
──そのあとは?
まさか教会の炊き出しに並ぶというのでもあるまい。
今さら修道院にも戻れないはずだ。そんなフィアが、どこへ行くというのだ。一人で。たとえ今は嫌われても、憎まれても、引きずってでもフィアを連れて行くのが自分の役目だとノイエは思った。そうすれば、いつかフィアも分かってくれるに違いない。これが自分の幸せだった、こうなって良かったと。
(──なんという傲慢だ)
人はこれほどまでに身勝手になるのかと思いながらも、ノイエは全てのためらいを捨てた。いつもフィアだけが、自分をそうさせてしまう。他の誰のためにも、これほど必死になったことはなかった──。
「妹になる理由がないと仰るなら──」
ついに、ノイエは口を開いた。
「私の妻になればいい」
抑えた声で言う。フィアが、愕然として顔を上げた。