その日からしばらく雨が続いた。降ったりやんだりする気まぐれな雨のせいで、フィアは幾度も難儀な目に遭ってしまった。
この日もそうだった。リヴォーの村に行ったはいいが、午後に差し掛かったところで雷雨になってしまったのである。雷が轟いて空が光ったかと思うと、花壇の手入れをしていたフィアはあっというまにずぶ濡れになった。
慌てて道具を片付け始めるが、そのあいだに雨はどんどん強くなる。
さすがに体が冷えた。ぶるっと震えて、帰ろうとしたときだった。
レキシュ家の扉が開き、主人の男が姿を見せた。
「おい」
男はぶっきらぼうな声でフィアに声を掛ける。
フィアは黙ったまま振り返り、男を見つめた。
「風邪を引くぞ。……中に入れ」
男はひどく気が乗らなさそうな顔をしていた。視線も逸らしたままだ。
それでもフィアは嬉しかった。
「はい」
答えて、屋敷の玄関へ駆け寄る。
男はぷいと顔を背けるようにして背を向けると、奥へ入っていく。さすがに使用人を雇っていただけあり、内装は立派だった。暗かったけれど。
フィアはもうずぶ濡れの髪を軽く絞って水気を落とした。肩の水滴も払い落とす。それから靴の泥をよく脱ぐって屋敷の中に足を踏み入れた。
男が飲み物を用意しているあいだに、フィアは部屋の中を見回した。
暖炉の上には家族の肖像画が飾ってある。肖像画を描かせるなんて本当にお金持ちだったのだと驚いた。近寄って見てみると、どうやら奥方のものらしい。美しい、清楚な雰囲気の女性が柔和に微笑んでいた。
「綺麗な人……」
フィアは思わず呟いた。
男が湯気を立てた飲み物の器を盆に乗せて戻って来る。
フィアの呟きには答えなかった。間違ってはいなかったに違いない。
フィアはしばらく肖像画に見入っていた。兄のカレフは、養子になる前からこの家の奥方と親しかったとおばが言っていた。それも分かる気がする。もうフィアが忘れてしまった母親の面影が、この中に残っているような気がしたのだ。
魅入られるように見つめていると、男がフィアの前に器を置きながら意外なことを言った。
「このレキシュ家とあんたの家のリンネル家は、遠い昔は親戚だったらしい」
「……えっ」
驚いてフィアは男を見た。男は渋い顔をしながら頷いた。
「だから、妻が『リンネル家から養子を取りたい』と言い出したとき、強くは反対しなかった」
「この肖像画の人、お母さんに似てるような気がしたんです」
フィアは絵に目を戻した。
「不思議だなって思って。そんな事情があったんですね。知らなかった。おばさんも、なんにも言ってなかったし……」
「この村でも、このことを知ってるのはうちだけだ。じいさんの、そのまたじいさんの時代の頃の話だからな。それにあんたのおばは、よその村からリンネル家に嫁いできたんだ。知らなくても無理はない」
男は椅子に座って茶を飲み始める。
フィアもありがたく飲むことにした。
少し味は薄いけれど、温かい。雨で冷えた体にはちょうどよかった。
ちらりと男の様子を見ると、男はうつむきがちに黙々と茶を飲んでいる。無口な人のようだった。
「あのう、レキシュさん……」
「なんだ」
「わたしとおばさんがこの村に越してきても、構いませんか?」
おずおずと訊ねる。男は何を今さら、という顔で笑った。
「あんたの好きにすりゃあいいさ。俺には関係ない話だ……」
その声には諦めの色がある。
うんざりしているというようには聞こえなかった。フィアはそのことに少し安心した。
「あんた、この村に住んでないようだが……」
男が白髪交じりの頭を上げ、上目遣いにフィアを見る。
「あ、はい」
フィアは頷いた。
「この近くにある宿にいます。おばさんの家をまだ片付けていないから……」
「さっさとそうして、引っ越すなら引っ越してきたほうがいい。宿賃がかかるだろう」
男は相変わらずぶっきらぼうな口調だったが、親切で言ってくれているようだ。
「宿賃は、まとめて先に払ってあるんです。ひと月分……」
「そうなのか」
「はい。だから、片付けはゆっくりやろうと思って」
「ふん、そうか……」
男はまた茶を飲んだ。視線は相変わらず床に置いたままだ。
フィアは外の雨音に耳を澄ませた。雨はますます強くなっているようだ。
「雨……やみませんね」
それどころかひどい雷鳴が何度も轟いている。思わず身をすくめそうになる轟音だ。
窓の外が何度も光るたび、どきりとする。
「昨日から天気が悪いからな。……まあ、この時期にはよくあることだよ」
男はあくまで淡々としている。
「そうなんですか。王都では、夏はあんまり雨は降らなかったから」
「ここはずっと南のほうだからな。南は、雨が長く続く時期がある。あんたこの村に住んでたのに、そんなことも知らないのか」
「小さい頃にこの村を出たから、よく知らないんです」
フィアは言った。
「そういやあ、そうだったな……」
男は虚を突かれたように黙り込んだ。
しばらく沈黙が流れた。雨はますます強くなっていて、このぶんではとても外に出られそうにない。
「あんたの連れが迎えに来てくれりゃあいいのにな」
「ええ……」
「あの連れと一緒に住むのか?」
男に思いがけないことを訊ねられる。
「いえ、違います」
フィアは慌てて否定する。
「あの人は、その……と、友達です。おばさんの家を片付けるまで、一緒にいてくれてるだけなんです」
「ふうん。ルーデックって名前なんだろ?」
「知ってらしたんですか?」
「何日か前、外で大声で言い合いしてた」
「あ……」
フィアは恥ずかしくなって黙ってしまった。たしかに彼と口げんかをしていた。その声が聞こえてしまったのだろう。
「あんたの親父さんと同じ名前だ」
「そうみたいです」
「思慮深くて穏やかだった。人に好かれる人間だったよ。……体は弱かったけどな」
「わたし、お父さんのことはほとんど知らないんです。わたしが生まれる前に死んじゃったって……」
「子供の頃に流行り病にかかって、足を悪くしちまったんだ」
男は淡々と話し続ける。
「だから結婚はしないと自分で言っていた。寝台から起き上がるのも苦労するほどだったからな。でもあんたの母親は、そういう男を選んだ。あんたのおばが大反対するから、二人ともこの村を出ていっちまったけどな……」
「お父さんの話を聞かせてもらって、嬉しい」
フィアは男を見つめて目を潤ませた。
「わたし、ほとんど知らないんです」
「あんたの母親は話さなかったかね」
「話してくれたかもしれないけど、覚えてないんです」
「そうか。……まあ、きっと話しただろうな。あんたの父親は感じのいい男だった」
男はそう言うとしばらく黙った。
また雷の音が轟く。
フィアは窓の外を見た。窓に叩きつけるような強い雨が降っている。他には何も見えない。
だんだん薄暗くなってくるとさすがに心細い。男が立ち上がって灯りをつけた。
ふと、何かに気づいたように窓の外に目を凝らす。
「誰か来たようだ。あんたの連れじゃないか」
「えっ」
フィアは立ち上がり、男のそばへ行った。もう一度窓の向こうに目を凝らしてみると、確かに人影が近づいてくるように見える。ルーデックだろうか? そこまでは分からない。
しかし、ずぶ濡れの誰かが駆けて来るのを見るとそわそわした気分になった。
「ちょっと、見てきてもいいですか?」
「ああ」
フィアは玄関のほうへ行った。扉を開けてみると、走ってくるのはルーデックだ。ひどく濡れている。まるで池にでも落ちたような濡れ様だ。それもそのはずで、外は豪雨が降り続けている。足元など煙が立ったようになって見えないほどだ。
「ルーデックさん!」
フィアは叫んだ。
ルーデックも手を振って寄越す。
「ここにいたのかよ! 探したぜ!」
彼が怒鳴った。軒下に滑り込んだ彼は息を弾ませ、「ちょっと休憩させてくれ」と喘ぐように言った。ずぶ濡れの髪を片手でごしごしとこすって水滴を飛ばす。濡れた頬も腕で拭った。
「何か、体を拭くもの借りてくる」
「そんなもんいいから、帰るぞ!」
ルーデックがフィアの腕を引っ張ろうとする。
「あ、待って! レキシュさんにお別れの挨拶をしなきゃ」
フィアは慌てて屋敷の中に駆け戻った。
男は立ち上がりもせず椅子に座っている。
「レキシュさん、雨宿りさせてくれてありがとう。今日は帰ります」
「ああ」
またおいで、というような言葉は男は口にしなかった。どちらかといえば「もう来なくていい」というような素っ気なさに見える。フィアはぺこりと一礼してルーデックのもとに戻っていった。男はその後ろ姿を眺めて、また、何事もなかったかのように自分の生活に戻った。一人きりの生活に。