KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十二章 別れのとき 17

それからどのくらい走ったのか、気がつけば太陽はもう中天に登っていた。
ずっと街道沿いに走ってきたが、ちょうどよさそうな店があるのに気づいてルーデックは手綱をゆるめた。
「あの店で休憩するか。食事もできそうだ」
それが、黙々と走り通してきた彼の最初の言葉だった。
フィアは頷いたが、いろいろなことが気にかかっていた。
ようやく馬が止まり、地面に降りると、慣れない乗馬のせいで足がへたれていた。その場に座り込みそうになったが、ルーデックはそんなフィアを乱暴に引き起こし、「しゃんと立ってろ」と叱りつけるように言った。その言葉でフィアも気が入りなおし、なんとかまっすぐに立つことが出来た。
それから、思い出して自分の荷物を探った。前院長の十字架──。
荷物の底のほうを手で確かめると、紐つきの小さな木片の感触がたしかにあった。間違いようがない、これだ。フィアはそれを握り締め、心の底から安堵した。安堵しすぎて冷や汗が流れるような感覚だった。割れた木片の小さなほうはすぐには見つからなかったが、そこまで確かめるのは諦めた。紐がついているほうが本体で、そちらに十字架の形が残っている。これがあっただけでも良しとしなければ……。
ルーデックが早くしろというような目でフィアを見たので、フィアは十字架を引っ張り出して彼のあとについていった。
それを急いで首にかけながら「食事代はある?」と心配になって訊ねた。
ルーデックは大丈夫だというように頷いた。
「盗賊から取り返したのがある」
そうだった、とフィアは思い出した。どういう理由かは知らないが、後から宿に戻ってきた盗賊の一人をルーデックが返り討ちにして──彼は彼自身の所持金だけは取り返したのだ。
中に入ると、他の客が何組かいた。街道を通る旅人たちだろう。店は意外なほどに繁盛しており、会話が行き交って賑やかかった。ルーデックとフィアはその間を通って奥の席に座った。ルーデックが選んだのは目立たない場所だったので、フィアはほっとした。ほどなく女将がやって来て、注文を訊いた。ルーデックは「スープとパン、あとは肉を一皿。水もくれ」と言った。
注文を待つあいだに、ルーデックは机に突っ伏すようにして頬杖をついていた。フィアは、彼は疲れているのだろうと察した。
「王都に戻れればな」
彼はぽつりと呟いた。がやがやとした周囲の声にかき消されそうな声だった。
「おまえは、嫌だというんだろうけど」
「わたしに気にせず、戻ったらいいのよ」
フィアはおずおずと言った。それは強がりではなく本心だった。
「おまえ一人をこんなところに放り出して、俺だけ戻れるかよ」
ルーデックは不愉快そうな口調で言って、椅子の横に立てかけた彼の剣をつついた。
「これでも俺は騎士だからな……。騎士は『女子供を見捨てちゃいけない』んだとよ。誰かそう言ってた」
「ふうん……」
フィアは気弱に相槌を打った。確かに、騎士たちはそうだろう。その信条を彼らが守ろうとするのをもう何度も見てきた。
「フィルデール卿だったかな……。いや、エンドレアス卿だったかも。いかにもあの人が言いそうなことではある」
あまり聞き慣れない名前が出てきてもフィアは気にしなかった。ヴィクターには数え切れないほどの騎士がいる。
料理はすぐに運ばれてきた。香草をまぶした鳥はうまそうに湯気を立てており、パンも焼きたてのように温かい。それを見ると、今まで空腹を感じなかったフィアでさえ食欲のことを思い出した。焼きたてのパンなんて何よりのご馳走だ。
「へえ……。繁盛するわけだ」
ルーデックは納得したように呟いて、さっそく肉の皿を引き寄せた。
フィアも、パンが盛られた皿に手を伸ばす。
「いただきます。温かいパンなんて久しぶり……」
そっと口に運ぶと、それは本当においしかった。フィアは黙々とパンの味を噛み締めた。これさえあれば他に何もいらないと思うほどだったが、続いて運ばれてきたスープもまた良い味がした。ルーデックは嬉しそうに「うまい」と言い、それを見ているとフィアも嬉しかった。昨晩以来、彼がこんなふうに笑ったのを見たことがなかった。
「肉もうまいけど、パンがうまい」
「そうね。本当においしい」
ルーデックの言葉にフィアは同意した。
しかし、その後は急に言葉少なになった。「どうしたの?」と訊きかけたフィアだったが、彼がどこか憂鬱そうな顔になっているのを見て言うのをやめた。彼は明らかに何か陰気なことを思い出していた。周囲の喧騒の声さえ遠くなったような顔で、じっと物思いに耽っている。
「──俺、騎士に向いてないのかも」
やがて、ぽつりと彼が言った。
フィアは彼の顔をまじまじと見つめた。
「昨日、嫌な夢を見た。俺が殺した男が追いかけてくる夢だった」
彼はため息をつき、水を飲んだ。パンをちぎる手を止めて、眉を強くひそめる。
「夢じゃないみたいにはっきりしてたよ。あの顔は……一生忘れることはないだろうな」
「でも、あの人は盗……」
フィアは言いかけて、ふいに強く口をつぐんだ。
そこから先は言うべきでないことだった。少なくとも前はそんなことを考えたりはしなかった。フィアは自分が変わってしまったように思い、空恐ろしいような気持ちを抱いた。欠けた十字架をぎゅっと握り締め、心の中で聖母へ赦しを乞う祈りを唱えたが、自分が一度抱いた不穏な思いはすぐには消えないような気がした。
「まっ、過ぎたことを言うのはやめるとしよう」
ルーデックはわざと快活に言った。彼は彼で、自分の話題がフィアを落ち込ませたことに気づいていた。
「それより、これからのことだ。もっと西のほうにルーゲンって大きな街があって、目指してるのはそこだ。近くに青い湖があって、綺麗なところだって聞いてる。治安もいいし、あそこなら仕事もすぐに見つかるだろ」
「わたし、湖って見たことない」
フィアはちょっと微笑んだ。ルーデックは頷く。
「王都からわざわざ見に行くやつがいるくらいだ。悪い評判は聞いたことがないな。とにかく、住むには苦労しない街だと思うぜ」
「行くのが楽しみだわ」
フィアは言ったが、リヴォーの村をまだ完全に忘れられていなかった。
小さくて、静かで、美しくて──あの村こそ、自分がずっと生きていくべき場所だ。そう決めていたのに。
「住む家が見つかるまでは一緒にいてやるよ」
考え込んでいたフィアに、ルーデックが言った。
フィアは顔を上げ、息を呑んだ。
「え? でも、あなたは……」
「どうせみんな遠征に行っちまってるし。俺だけ城に戻ったって、またつまんねえ雑用を言いつけられるだけだからな。それなら、のんびり休みを満喫するほうがましってもんだ」
彼は皿に残った肉の脂をパンで掬い取りながら言った。
「それで怒られてクビになったら、それはそんときだ。どうなったって構うもんか」
「やけになっちゃだめよ、ルーデックさん! あなたはちゃんとした……立派な騎士だわ。クビだなんてこと」
フィアは思わず言ったが、ルーデックは聞く耳持たない様子だった。
「言ったろ、別になりたくてなったわけじゃないって。ウルリク=ユハースが俺を騎士にしてくれると言ったから、じゃあ、なっとくかって思っただけだ。辞めろというならいつだって辞めてやる。たっぷり年金ふんだくってやるよ、兄貴たちの分まで」
彼は全ての料理をきれいに平らげ、最後に一気に水を飲み干した。
それからフィアの手元を見て、まだ残っているパンをじろりと見た。
「おまえ、食うの遅いな……」
「あ、ご、ごめんなさい。すぐ食べるから!」
フィアは慌てて言って、残りの大きな塊を口に押し込もうとした。しかし、それは難しかった。かといって今さら口から出すわけにもいかず、水も飲めない、喋ることもできない状態でモゴモゴするしかない。ルーデックはあきれたような顔でそれを見ていたが、やがて、礼儀正しく横を向いて頬杖をついた。
「慌てなくていいぜ。急かしたわけじゃない。ちょっと、言っただけだよ……」