KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十二章 別れのとき 19

市庁舎で借りた家は、役人が言ったとおり、こぎれいで感じのいい家だった。市が立つ表通りから離れすぎない場所で、静かな、治安のよさそうな通りに面している。外壁は確かに新しく塗りなおされていて、周りの古さに比べると少し目立つ感じだった。中に入ると、古いが、木の床などはこげ茶のいい色で雰囲気がある。一階は台所、二階は寝室で、小さな屋根裏部屋もついている。寝室にはベッドも用意されていた。二つだ。
荷物を置き、台所に置いてあった丸テーブルに向かって座る。テーブルもイスも古い木で出来ており、頑丈そうなものだ。他にも皿や鍋、薪、箒に桶と、生活に必要なものはみんな揃っていた。それらを見回して、フィアは力なく吐息をついた。見知らぬ街に来てすぐに住居が見つかったことで、気が抜けたようになってしまったのだ。
ルーデックも向かいに座った。けれど、彼は横を向いてテーブルに頬杖をつく格好で、フィアのほうは見なかった。
「もっと大きな家も借りられたけど……家賃のことを考えて、一番小さいところにしたぞ」
彼はなぜか言い訳をするように言った。
「使用人がいないと掃除できないようなところを借りてもしょうがないだろ」
「これで十分よ。十分すぎるほどだわ」
フィアは彼が話しかけてくれたことにほっとしながら、小さな声で答えた。
実際、ルーデックは王都にはこれよりも大きな家を持っていた。近衛騎士の給金で、普通の庶民よりも良い家に住むことができるのだ。彼には身の回りのことをしてくれる従者こそいなかったが、家を管理してくれる人間はいて、生活のこまごましたことはその人間に頼んでいた。給金の余ったものは銀行に預けており、すでに田舎にちょっとした土地を買えるくらいの額は貯まっていた。ただ、ここではその金を下ろすことは出来なかった。そうするには王都に戻るしかない。
近衛騎士の身分証明と引き換えに、この街の移住制度を活用して家を借りるというのが、所持金に乏しい彼がフィアに出来る精一杯のことだった。といっても、夫婦として名前登録するというのは、確かにフィアは渋るだろうと思っていたが、腹を立てて黙り込むほどのことでもないと思っていた。フィアの態度はルーデックの心を少なからず傷つけていた。
「あの金を盗まれさえしなきゃ、貴族区で家を借りて、使用人も何人か雇えたんだけどな……」
ルーデックは誰に話すともなく、独り言のように言った。
フィアには、未だに自分が失った金の金額は判然としなかった。ただ、袋いっぱいに金貨が詰まっていたということだけは知っている。改めてルーデックに言われると、使用人を雇えるほどの金だったのだと思い、さすがに少し憂鬱になった。ただ、その金が惜しいというのではなかった。用意してくれたレヴィンに対して申し訳ないと思っただけだ。彼が自腹を切ったのかどうかは分からないが、レヴィンの金か、さもなくばヴィクターの金に決まっている。
彼のことを思い出すと、その瞬間から気持ちが混乱してきた。心臓の鼓動が早くなり、胸が締めつけられるような感じがした。さっき海を見たときと同じだ。フィアは、何も考えまいと自分に言い聞かせた。ここは新しい街で、新しい生活を始めるための場所なのだ。以前のことは思い出すべきでない。そうするとしても、それはもっと生活が落ち着いてからだ。
何もかも夢だったと思うときが来るに違いない。みんなが、楽しい、懐かしいときを思い出してそう言うように。それにもう、フィアには半ば全て夢のように思えてくるのだった。実際、そう思ったほうが気が楽だった。
「い、いいのよ。お金なんて、初めからなかったんだと思えばいいんだもの。わたしの手から、おばさんの手に渡った……それだけのことだわ」
フィアはそう言ったが、ルーデックはそれを横目で冷ややかに見た。
「まだハンナが生きてると信じてるのか?」
ルーデックは淡々とした口調で恐ろしいことを言った。フィアはぎくりとした。
「どうしてそんなこと言うの?」
「とっくに殺されてるだろ。盗人にしてみりゃ、金を手に入れればそれでいいんだ。ハンナと山分けしたら取り分が減っちまう。ってことは、始末したほうがいいってことだ。やつらは必ずそうするさ……。あの女は間抜けだから分からなかったんだろう。そういうとこだけはおまえに似てるな……ハッ」
ルーデックは白けたように笑ってみせた。
フィアはそれに対して何も言わなかった。
黙っているフィアに、ルーデックが不機嫌そうな視線を向ける。
「まだ怒ってんのかよ?」
「そうじゃないわ」
フィアは首を振った。本当に、そうではなかった。
「今、おばさんのこと考えてたの」
「考えても無駄だ。あれは自業自得だよ」
「おばさんには生きててほしい。わたしが思うのは、それだけ」
フィアはそれ以上、おばの話をする気はなかった。話しても無駄だというのは、ルーデックの言うとおりだ。
「そうかあ? あんなやつ、いないほうがおまえのためだと思うけどな」
「ねえ、ルーデックさん。それより、何か食べない? もうじき夜になるわ」
フィアは気を取り直して明るく提案した。話を打ち切りたかったのもあった。
「あっ……その、お金があれば、だけど」
「あるよ。それくらいは」
ルーデックは頬杖をついたまま言った。彼は腰に下げた袋をチャランチャランと鳴らした。
「銀貨が十枚は残ってるし、銅貨もある」
それを聞いてフィアは怪訝な顔をした。
「そんなにあったの? じゃ、もしかして、宿の修繕費を払えたんじゃ……」
「払えたかもしれないけど、いくらふっかけられるか分からねえだろ。俺はそんなにお人よしじゃねえよ」
ルーデックは抗議には取り合わないというように言った。フィアも、別に彼を非難するつもりではなかった。そんな権利はないのだ。それどころか、彼がいなければ何も出来なかったではないか。それを思うと恥ずかしくて何も言えなくなる。
「それじゃ……あなたさえ良かったら、何か食べに出かけない? この街に来て初めての夜なんだし」
「いいぜ」
ルーデックはそれには快く応じてくれた。しぶしぶという顔はしていたが、口調はそれとは違っていた。
「教会前の通りに何軒か酒場があったから、あのへんに行くか」
彼はもう機嫌がよくなっていた。明るい口調で言い、立ち上がる。
「そうしましょう」
フィアも頷いて立ち上がった。
外に出ると、そこは十分に明るかった。気温も高いままで、少し蒸し暑いほどだ。涼しい風があるからそんなに不快ではないけれど。なんにしろ、日が落ちるのはまだ先だろう。
「冬になる前に、何か肩掛けみたいなものを買いたいな。早く仕事が見つかるといいんだけど」
「そればっかりはどうだろうな」
ルーデックは半信半疑の口調で言った。
「おまえって、なんか人より出来ることがあるわけ? 裁縫とか……」
「裁縫かあ」
フィアは少し考えた。空を見上げる。まだ明るいけれど、一番星だけはかすかに光って見える。
子供の頃、ろうそくの明かりを頼りに、夜を徹して縫い物をしていた母の姿をふいに思い出した。
「それもいいかも。お針子……誰か教えてくれたら、たぶんうまく出来ると思うわ」
フィアは星をじっと見つめて言った。
「『誰か教えてくれたら』って、誰が教えるんだよ? 今出来ねえなら無理だろうよ」
ルーデックは呆れたように言って歩き出した。
「おまえって、つくづく考えが甘いよな。なんっにも考えてないというか!」
フィアは彼の横を歩きながら、「それはそうかも」と小さな声で認めた。


その夜の食事は思いがけないものになった。たまたまルーデックが選んだ酒場『気さく亭』に風流な旅人が来ていて、笛や琴を鳴らして素敵な音楽を奏でてくれたからだ。
彼らは古い神話を歌ってくれた。そこには、フィアが名前を聞いたこともないような太古の英雄が登場した。
その英雄は、この国の海に巣くっていた、誰も殺すことができないといわれていた巨大な獣を、投げた槍の一撃で倒してしまったという物語だった。なぜならその槍は神から与えられた槍だったからだ。
「聖槍ガエボルガは魔獣と同じ生き物の骨から作られた……それがために獣は死んだ……おお、なんということか、それ以外のものでは獣をしとめることができなかったのだ! 同族の骨と魂から拠りだされた、深く、残酷な一撃以外には……。それこそが神の計画、大いなる知恵……称えよ、神を。世の終わりと始まり……神聖な掟、すべては円環のように……」
彼らは朗々とした声で歌い、柔らかな音で笛を吹き、優雅な手つきで琴を鳴らした。
歌が終わると拍手が起こった。歌が見事だったからだ。
フィアも、その歌に不思議なほど魅了されていた。同時に、自分でも理由の分からない悲しみを感じた。
ルーデックは特に感銘を受けた様子もなく、頬杖をついてその歌を聴いていた。彼にとっては、古くさい神話よりも目の前の肉の切れ端のほうが魅力的だった。音楽は料理を引き立てるものでしかなかった。しかし、連れのフィアが熱心に聞き入っているようだったので、そのことには彼は満足はしていた。偶然とはいえ、自分が選んだ店だったからだ。
酒場の他の客には、くたびれた服の年寄り、いかつい騎士らしき男とその従者たち、けだるげに目を輝かせた若者たちなど、さまざまな者たちがいた。皆、旅人の歌に聴き入っていた。やがて歌が終わると、年寄りが、「あんたたち、どこから来なすったね?」と旅人に声をかけた。旅人は快活な様子で──案外に若い者たちだった──「王都だよ」と言った。
「そうかい。王都はどんな具合だね? 変わりはないんかね?」
「いいや、じいさん。ワシュトリアのせいで北が騒がしいようだよ。国王陛下は騎士を率いて遠征にお発ちなされた。あの方はどうやら根っから戦がお好きと見える」
「新しい国王陛下はどうなんだ、その……良いお方なのかね? 前国王陛下の甥って話だが?」
老人が心配そうに訊ねる。人のよさそうな目をした老人だった。
「悪くない」
旅人は軽く頷いた。
「人頭税を取るって話があって、あのときには暴動になりかけたもんだったけど、あの方が即位なさってからその話も聞かないね。王都近郊は通行料も下がったらしい。商人たちは喜んで活気づいてる。王都は前よりにぎやかになったよ。前は年中打ち首の知らせがあって、誰かしら死んでたものだが……」
「そうかい。それなら、死ぬまでにまた一度行ってみたいもんだ」
「そう遠くないんだから、いつだって行けばいいんだよ。じいさん」
旅人がまた快活に笑う。老人はため息をついた。
「この年になると、家を出るのも面倒でね」
「まあね。……じゃあこの話は知ってるかい? 国王陛下がエトヴィシュ公爵家の令嬢と結婚するって話なんだが。これがまたこの世のものとは思えない美人で、月の女神の生まれ変わりかと思うほどなんだ。煩わしい俗世から離れて修道院に入ってたのを、陛下たっての願いで還俗なされたって話だよ。わたしはこの話を歌にしようとしてるところでね……何しろ二人の国王から求婚された女性なんて、他にいないんだからさ!」
旅人の話をぼんやり聞いていたフィアに、向かいからルーデックの手が振られる。
「おい。生きてんのか?」
フィアは我に返った。
「もちろんよ。生きてるわ、ほら。息もしてるし……ご飯だって食べてる」
フィアは目の前の皿の料理を、木の杓子で口に運んだ。けれど口に入れる前にダラダラとこぼしていた。思ったよりも杓子と口のあいだが離れていたようだ。ちょっとびっくりして下を向く。
「あれ……?」
「……おい?」
ルーデックはげんなりしたような顔で、女将に「何か拭くものをくれ、連れがこぼした!」と声を掛ける。店内は活気があって賑やかかったので、その声は特に他の注目を浴びることはなかった。
旅人たちのいるテーブルの周りからは話し声が途切れることはない。すっかり酔って気分が良くなった老人や、王都の話に興味津々の騎士などが、旅人たちに矢継ぎ早の質問をしていた。ルーデックは、その騎士がど田舎から出てきたらしいということを突き止めようとしていたが、その話に耳を済ませるより、目の前のフィアをどうにかすることのほうが先決だと気づいた。
「せっかくいい調子だったのにな。変な話になっちまった。あのじじいのせいで」
「そ、そう? 別に……変な話じゃなかったと思うわ。素敵な……」
フィアはこぼしてしまったスープを拭き取りながら言った。
「ほんとかよ? そのわりに、ぼさーっとしてたじゃねえか」
ルーデックは半信半疑の顔だ。フィアは首を振った。
「それは、違うことを考えてたの」
「違うことって?」
「最初の歌のことを考えてたのよ。聴いてた? ルーデックさん。神さまの槍、ゲルボンガ……のこと」
「そんな名前だったか?」
ルーデックは怪しむように眉をひそめた。フィアは頷いた。
「あの歌がね、なんだかすごく心に残って……。あの人に頼んだら、もう一回歌ってくれないかしら? また聴きたいんだけど」
「やめとけよ。金取られたらどうする、もったいねえ」
ルーデックはあくまで現実的だ。
彼が残った料理をつつくあいだ、フィアは旅人たちの話にそれとなく耳を傾けた。
彼らは今は別の話をしていた。南のほうにある、黄金の都の遺跡の話のようだ。
潰した豆と芋の料理をパンで掬い取りながら、フィアはけれど、神話のことよりも先ほどの会話のことを思い出していた。ヴィクターとクリステラの結婚の話のことを。ああいう具合に、国中の人がその結婚を心待ちにしているのに違いない。そうされるだけの価値のある祝い事だ。
(……良かった。あのまま王都に残らないで)
フィアは自分の心の中に改めて呟いた。
もしそうしていたら、自分はきっと悪夢の中に落ちてしまっていただろうと思う。クリステラをひどく傷つけ、城の人々を落胆させ、王都の民に不審を持たれ、聖ドロテアの修道女たちに噂や中傷で迷惑をかけ──とにかく、いいことなどひとつもなかったに違いない。
ふと思い出して指を見ると、割れた爪はようやく半分ほど戻ってきていた。その爪が元通りになる頃には、きっと、何もかもが思い出話になっていることだろう……。
「なんか飲むか。酒でも」
ルーデックが気を取り直したように言う。
「せっかく、この街に来て初めての夜だろ? いいじゃねえか、祝いの酒を飲んだって」
「そうね」
フィアはそれには気持ちよく同意することができた。
そうだ、こんなめでたい日にはぐでんぐでんに酔っ払ってしまったほうがいいに違いない。これは新しい人生の門出の日だ。誰も自分のことを知らない街で、自分ひとりでいったい何ができるのかを確かめてみる、その第一歩の日なのだ。──といっても、今日はずいぶんとルーデックの手を借りてしまったけれど……。明日からはもうそんなことはない。
ルーデックが女将にワインをふたつ頼んだ。
ほどなくそれが運ばれてくる。
生ぬるいワインを入れたグラスは分厚いうえに欠けていたが、気にするほどのことではなかった。ルーデックはそれを掲げ持ち、フィアに向かって振ってみせた。
「じゃ、この街に来た記念の日に……」
「全部忘れてやり直せますように!」
フィアも元気よく言った。ルーデックは苦笑した。
「全部忘れてか。……はは、そりゃいいや!」
彼は勢いよくグラスをあおった。フィアもそれに負けまいとばかりに同じようにする。
渋くて、とても一気に飲めるような味ではなかったが、躊躇はしなかった。ルーデックは女将を振り返り、「エールを持ってきてくれ、四杯!」と景気よくいう。フィアは一口で半分ほどなくなったグラスの中身を眺めて一息つくと、残りを断固たる決意とともに喉に押し流した。何もかも分からなくなるほど酔っ払うまで帰らないという決意で。