KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十三章 ソエルスブルクにて 1

誰かが扉を叩いた。静かに、けれど少し乱暴に。
「皇妃さま。エミーリヤさま!」
押し殺した囁き声がした。
部屋の真ん中で身を竦めていた若い女はすぐに扉に駆け寄り、重たい木の閂を外す。
隙間から滑り込むようにして室内に入ったのは、ワシュトリア皇帝の騎士グレデンだ。年は三十なかば、精悍な顔立ちをしているが、今はそれに疲労の色が濃い。目元は黒くくすんで、ここ数日一睡もしていないのがうかがえた。
「イリヤ殿下は?」
グレデンは小さいが、鋭い声で問いかけた。
「眠っているわ。先ほどまでぐずっていたけど、なんとか寝かしつけました」
若い女は答えた。彼女こそエミーリヤで、皇帝の一番若い皇妃だった。
石造りの狭い部屋は二間続きになっている。部屋の仕切りに扉はなく、ただ壁をくりぬいたような出入り口があるだけだ。だから、その奥に置かれているベッドに幼子が眠っているのはすぐに見通せた。グレデンは入り口の扉を静かに閉じ、エミーリヤに向き直った。
「ああ、そうだ。わずかですが、お持ちしました」
思い出したように彼は懐から包みを取り出した。
それを受け取ったエミーリヤは包みを開き、「パンだわ」と目を見開いた。食べ物を見たのは一日半ぶりのことだ。この部屋には水を入れた甕《かめ》と、果物がいくつかあるだけだった。
「こんなものしか用意できず、申し訳ありません」
グレデンは心底申し訳なさそうな顔をした。エミーリヤは弱々しく首を振った。
「仕方ないわ。外はミハイル殿下の兵でいっぱいなのでしょう?」
「ええ。彼らは徒党を組んで巡回しています。我々を探しているのでしょう……」
「陛下の騎士たちはどこへ行ってしまったの?」
そう問いかけるエミーリヤの顔には深い失望の色がある。グレデンは彼女に明るい話題を提供したかったが、難しかった。
「帝都の民を逃がすために、西のハルグラードか、東のマディナブルクへ向かったと思われます。とにかく帝都が燃えていたときのことですから、わたしも彼らがどうしたのか分かりません」
「では、陛下のおそばには、今は誰もいないというの?」
「いえ、まだ数十名が宮殿に残っております。しかし、今は自由を奪われているでしょう。宮殿はミハイル殿下の騎士に制圧されていますから」
「どうしてこんなことに」
エミーリヤはパンをグレデンに押し付け、顔を覆った。隙間から見える美しい顔は、このときばかりはひどく歪んでいた。
「ミハイル殿下が帝位が欲しいというのなら、くれてやればいいのだわ! わたしはそんなもの欲しくない。イリヤだって望まないはずよ。この子はまだほんの幼子なのだから!」
「皇妃さま、お静かに! ここを見つかってはなりません」
「イリヤが欲しがってるのは帝位なんかじゃない。ゆっくり眠れる場所と、食べるものだわ。わたしだって──」
エミーリヤはそう言うと、グレデンの胸にすがってわっと泣き出した。
もともと貴族とはいっても、エミーリヤは下流の出だ。侍女として皇帝の近くに仕えていたのを、数年前に偶然見初められただけなのだ。皇妃などと呼ばれることにも慣れておらず、頼りにする皇帝の命も風前の灯で、彼女には何も頼れるものがない。次期皇帝とも目されているイリヤは、まだ一歳にも満たない赤子だった。
「大丈夫です」
震えるエミーリヤの肩に両手を置き、グレデンは言った。
「皇帝陛下は隣国ウルヴァキアの国王に親書を送られました。親書を託されたのはキリルで、彼が帝都を出てからもうだいぶ経っています。あと何日かすれば、必ずや助けが来るでしょう。ここでそれを待つのです」
「そんなもの、どうやって信じろというの? 外の国から助けなど来るはずがないわ。あなただって本当はそう思っているくせに……ああ、もういっそ死んでしまったほうがましよ。お願い、グレデン。どうかわたしを殺して!」
エミーリヤは興奮し、グレデンの胸の中で激しく泣きじゃくる。
「皇妃さま、何を仰います!」
グレデンはさすがに顔色を変えたが、エミーリヤは嗚咽を漏らして泣き続ける。
「じ、侍女のセリーナは広場で磔《はりつけ》にされたのよ。わたしだってああなるに違いないわ。だって、ミ、ミハイル殿下が憎んでいるのは、セリーナではなくわたしだもの! ……怖い。怖くてたまらないの、グレデン。陛下のお子など身ごもらなければ、こんな……こんなことにならなかったのに……!」
エミーリヤは身も世もなく泣いていた。グレデンもそれ以上の言葉がない。
帝都の消失した部分はかなりの面積にのぼっている。民衆は最初怒り狂い、つぎに絶望した。火があまりにも長く燃えすぎたのだ。第一皇子と第二皇子は死に、第三皇子ムスティスラフは帝都を捨てて逃げ出した。第四皇子──ミハイルは手のつけられない狂気に陥っている。そして、ここにいるエミーリヤとイリヤを見つけ出さんと血眼になって探している。
ここは貧民街で、幸いにも消失を免れた部分にある。しかし、ここにも捜索の手は伸びるだろう。間違いなく。グレデンも、数日おきにここに足を運ぶたび、もしかするとエミーリヤもイリヤも連れ去られているのではないか、殺されているのではないかと気が気でない。だから二人が無事でいるのを確認すると、いつも心底ほっとするのだ。
それにしても、せめて皇帝陛下がご健在なら。グレデンは口惜しい思いを抱いた。
偉大な皇帝。あの方さえおられれば、帝国は斃れることはない。しかし今は病床にある。
どんな偉大な主君も病と高齢には勝てないのだと思うと、空しさのような気分に襲われる。
あれほど栄華を極めた都が、まさか皇帝の息子であるミハイルの手によって滅んでいくとは! グレデンは炎に包まれた帝都を見たとき、どっと体の力が抜けるような感覚に襲われた。何もかもどうでもいい、手遅れだという思いが込み上げてきて、地面に引きずり倒されるような感じがした。だが、その心に閃光のようにイリヤのことが浮かんだ。皇帝が自分に託し、宮殿から密かに抜け出させていたイリヤとエミーリヤ。そうだ、この母子がいる限り、皇帝の帝国はまだ終わりではない。帝位継承者イリヤの命がある限り。
絶望している暇はない。あの二人を守れるのは自分だけだ。それが皇帝陛下の命令でもある──。
その思いがグレデンを鞭打った。だから立ち上がれた。
自分の命を繋げてくれたのはイリヤだ。歩くこともできない、この幼子がいなければ、自分は自決していたかもしれない。
皇帝の使者に任ぜられたのは、皇帝に信頼されている騎士のひとりキリルだ。彼は古い家柄の出で体力に恵まれているし、頭の回転も速い。彼なら、どんなことがあっても親書をウルヴァキア国王のもとへ届けてくれるだろう。そして国王を説得し、救援に向かうよう説得してくれはずだ。
キリルを信じるのだ。彼にはそれができると。
グレデンは、エミーリヤを自分の妻のように強く抱きしめた。
良き友人であり同僚であるキリルが、自分の仕事を終えてここに戻ってくるのを信じるしかない。それまでは自分も自分のやるべきことをやる。ミハイルの魔の手から聖なる母子を守り続けるのだ。この二人を失えば全て終わる。自分の命にかえても、この二人だけは守らねばならない……。


──ワシュトリア帝国皇帝第四子・ミハイル=ベスサラボフは、薄暗い部屋の窓際にたたずんでいた。
宮殿の一室。広さは十分にある彼の自室だ。
窓は開けなかった。開ければ、帝都を焼いた煙の残りが入ってきてしまう。火は消えているが、煙はまだ残っていた。ぐずぐずと、ここから立ち去りたくないというように。
炎に包まれた帝都の光景は一生忘れられないだろう。生死がかかればあんなにも人は必死になれるのだ。それを宮殿が建つ丘から見下ろし、ミハイルは面白く思った。だから声を上げて笑った。そばにいた騎士はぎょっとしたように目をみはっていたが、構わなかった。
ここまで来ておいて、今さら何を驚くことがあるだろう? 第一皇子と第二皇子を廃することに関しては、この男だって諸手を挙げて賛成したではないか。全てが思い通りになった今になって、『帝都はおしまいだ』と深刻ぶる必要などあるのか? ミハイルはひどく奇妙に思い、それが余計におかしかった。
今、皇帝は病床にある。もう長く顔を見ていないが、自分で自分の身を起こすこともできまい。そして、その皇帝の部屋からは、無残に焼け落ちた都の姿は見えないのだ。あの部屋は北側にあるから。
だが、とミハイルは考える──だが、もし見えていたら、あの人はどう思っただろう? 自分が何十年もかけて、精魂こめて作り上げた都が灰になるのを見たら?
絶望するだろうか。
それとも『仕方がない』と淡々と呟くだろうか。自分が意に沿わない息子だと知ったとき、自分を見捨てたのと同じ、あの残酷なまでの冷淡さで?
「──ミハイル殿下。失礼してよろしいですか?」
外から男の声がした。落ち着きのないダミ声だ。
ミハイルは何も言わずに窓の外を見ていた。
やがて、痺れを切らしたように扉が開いた。ミハイルが何も言わないときは入室しても良い場合がある──ということは、その男は一応知っていた。ただ、そうだと思って扉を開けると激怒されるときもあるので、今回もそうではないだろうかというような、かすかな怯えのまじった顔をしてはいた。
「し、失礼します」
男はおずおずと言って部屋に入室した。少し太った小柄な体に、絹やびろうどの高価そうな服を身に着けている。その指には宝石がいくつもはまっていた。頭は禿げ上がり、額には汗が滲んでいる。男はそれを布で拭いた。もう体に染みついている動作だ。
「その、お探しのエミーリヤ妃とイリヤ殿下の行方ですが……」
ミハイルはようやく興味が出たというように振り向いた。
「報告しろ」
彼はぼそぼそと聞き取りにくい声で言った。子供のころはもっと明朗な喋り方をしていたが、成長するにつれ、彼は陰気さを強く見せるようになっていった。それは家系のせいだ、と言われたこともある。実際、自分と母を同じくする第二皇子のネストルは、自分とかなり似た陰気な顔をしていた。もうその兄もいないのだが。
「はっ、その……貧民街の住民が、身分が高そうな男が近くの建物に出入りしているのを見た、と。まあ乞食の言うことですから、あてにはなりますまいが……。万が一、それが皇帝の騎士でないとも限りませんからな。一応、あなたのお耳に入れておくべきことと思いまして」
高価な絹の手ぬぐいで汗を拭き拭きいう男を、ミハイルは冷ややかな目で眺めていた。
ミハイルは顔立ちは整っているほうだった。眉は薄いが形がよく、目は切れ長で、その瞳は見るものをはっとさせるターコイズ色、鼻筋も通っていた。薄い唇は品のいい感じで、全体的に痩せてはいるが、痩せすぎというほどでもない。ただ、彼の瞼はどこか憂えるように重たげで、目の下には灰色の大きなくまが出来ていた。もともと青白い顔をしているうえにそのくまがあるせいで、まるで死神のような顔色に見える。
一方、男は──彼は内務大臣で、名をゲラシムと言った。
長く大臣を務める有能な男でありながら、ミハイルのような二十にも満たない若者を過度に恐れるのは、ミハイルが皇族だからではない。それ以上の理由があるのだ。第二皇子ネストルと第四皇子ミハイルを産んだのはバラバノフ家の娘だが、ゲラシムはそのバラバノフ家と縁戚関係にある。それが、どんな状況になってもミハイルを見捨てられない何よりの理由だった。
しかしそのゲラシムさえ、このような状況になり、宮殿から逃げ出したい気持ちに駆られていた。しかしミハイルが自分に何をするか分からないという気持ちもあって、踏み切れずにいた。そばにいれば、とりあえずミハイルは何もしてこないのは分かっている。彼が激怒するのは見捨てられたときだけなのだ。
「……燃やせ」
やがて、ミハイルは聞き取りにくい声で呟いた。
「……は?」
ゲラシムは目を丸くした。自分の聞き間違いかもしれないと思いながら。
ミハイルはもう一度「燃やせ」とぼそり、繰り返した。その言葉を部屋に刻み込むように。
「煙であぶれば、隠れているものは虫のように出てくる。それがなんであれ……見ものだ」
ミハイルは細面の顔をまた窓の外に向けた。その目には暗い翳がある。何か不吉なものを見て、生涯それを忘れられないというような、悲哀に満ちた目だった。
「は、しかし……」
ゲラシムは躊躇していた。ミハイルは振り返らなかった。
「すでに帝都は半ばが灰だ。今さらためらうこともないだろう、大臣」
「しかし、またあなたの仕業だと民は騒ぎ立てますぞ。ミハイル殿下。そうなったら……」
「すでにそうなのだ。そうだろう?」
ミハイルはゲラシムをじっと見た。ゲラシムは取り乱しそうになった。
「ご、後生ですから、そのようなことをわたしにお命じにならないでください! 殿下!」
「口答えは無能な人間のやることだ。職を取り上げられたくなかったら言うとおりにしろ」
ミハイルは冷たく言い捨てた。
ゲラシムは息を呑んだ。今さら何を言っても無駄だと理解したのだ。彼は無言で頭を下げた。そして転がるように出て行った。
「どうせ父の作った都だ……」
ミハイルはひとり、部屋の中で呟いた。
自分の都ではない。自分のものではないのだから、燃えたって構うものか。
燃えたら作り直せばよいだけの話だ。そのためのアイデアならたくさん持っている。──そう、西の国々のようにすればいいのだ。ヴァレンヌ法皇国よりもっと西の、ハイネベルクやフランツヴァイクといった小さいが美しい公国や、ニーベンブルグ王国、パヴァリヤ王国といった魅力的な王国のようになればいい。
一度だけ旅をしたことがあるそれらの西の国々が、ミハイルの中に西への幻想をかきたてる。ワシュトリアは世界一の国だ、ソエルスブルクは世界一の都だと聞かされて育ってきたが、自分の目で見た西の国々は遥かに文化的で、遥かに洗練されていた。ワシュトリアはあれには追いつけない。いや、追いつけなかったのだ。炎が強い意志を持って地を這ったあのときまでは。
焼け崩れていく建物を見ながら、ミハイルはどこかで安堵していた。これで、やり直せる……。
自分が皇帝になる前に、いらないものは全部片付けてしまいたかった。
過去を思い出すようなものは何もいらない。何もかも新しくなるべきなのだ。父の都も、父の騎士たちも、今日のことしか考えない無知な民たちも、西の不完全な借り物でしかない文化も──何もかもが灰になってしまえ。
そうして初めて、ワシュトリアは真に強く、美しく甦ることができるのだ。自分のもとで。
ミハイルはあのとき、真っ赤に燃える空の向こうに、灰の中から生まれ変わるという不死鳥の幻影を見ていた。それは今も彼のまぶたの裏にある。数百年という長い時の檻の中から、解き放たれるときを静かに待っているのだ。