KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十三章 ソエルスブルクにて 3

夜明けの空に地平から光が差した。
瞬く間に、それは世界を染め替える白い色となる。強い光に押されるように雲が動き、風が流れるのが見えた。帝都の上にくすぶっている灰のようなにおいが、それとともに押し流されてゆく。もうこの都は──ワシュトリア帝国帝都・ソエルスブルクは燃えていなかった。ただ、死んだように静まり返っていた。焼け崩れた、数え切れないほどの建物の残骸とともに。
精鋭の騎士ばかりを二千名集めたウルヴァキア国王軍は、人口十万以上と言われる大陸屈指の都へと、今まさに雪崩れ込もうとしているところだった。
帝都の巨大な門は壊されており、侵入は容易だった。入ってすぐに直線の道がある。驚くほど幅の広い道で、ほとんど広場といってもいいようなものだ。両側には古代の神々の彫像が立ち並んでいたが、それらのいくつかは崩壊し、顔面、腕と、いたるところが崩れ落ちている。まるでこの都が神に見放されたことを象徴しているようで、馬を駆るヴィクターをはじめ、ウルヴァキアの騎士たちは皆息を呑まずにいられない。門をくぐったのちはさすがに少しスピードを落としたので、それがよく見えたのだ。帝都の中は何百年という歳月で磨り減った丸い石で道が舗装されており、あまり早く走らせると馬が足をとられる可能性がある。
帝都に入ってからの動きは全て打ち合わせ済みだった。
広い帝都の制圧に兵力の大半を裂き、若い皇妃エミーリヤと、その幼子イリヤを探す。それはウルリクに任せることになっている。ウルリクはワシュトリアの帝都内の地理に明るく、ワシュトリア語も話せるから何も心配はない。彼が若いころにワシュトリアに住んでいた時期があったということを、ヴィクターはこの遠征で初めて聞いた。それは実際、帝都に突入する前日──昨日のことだった。

『わたしの祖国は、かつてワシュトリアの領域内にありました。しかし、わたしの父の代にはワシュトリアに併合されました。ほとんどの者がその現実を受け入れましたが、わたしは一人国を飛び出し、長い流浪の末にウルヴァキアの王都へ……』

『異国人として差別されることを覚悟しておりましたが、あなたの祖父君、イヴァーン陛下はわたしを認めて取り立ててくださいました。わたしは陛下に対して言葉に尽くせぬ大恩がございます。それが、わたしがあなたに永遠の忠誠を誓う理由です、ヴィクター陛下。偉大なるイヴァーン陛下の血を受け継ぐあなたこそ、けして滅びることのないわたしの祖国。どうか、このような異国の戦いでけしてお命を落とされませぬよう──』。

自分が別働隊の指揮官になると決まったとき、ウルリクはヴィクターに向かってそう言って頭を下げた。
何を大袈裟な、とヴィクターは言いかけたが、言葉にはならなかった。祖父が重用した騎士、ウルリク=ユハース。移民だとは知っていたが、ワシュトリア人だったとは知らなかった。──いや、ワシュトリア人という言い方は彼の誇りを傷つけるだろう。彼の祖国はもはやこの地上にない。そして今は、それはこの自分の中にあるという。この血の中に。
──ヴィクターは帝都内に散っていく、ウルリク率いる別働隊の背中を見た。帝都の門をくぐった二千の騎士たちのうち、千二百がそれに従って道を曲がってゆく。その半分以上がウルリクの配下である近衛騎士たちだ。彼らは戦いにはそれほど慣れていないが、未経験というわけではない。それにウルリクはうまく指揮するだろう。彼は自分の以前の失敗を十分に悔いている。王城をヴァレンヌ法皇騎士団に落とされたときの失敗を。
残りの八百騎は高台の宮殿に突入することになっている。
馬上にいるヴィクターはそのほぼ先頭にいた。
普段城でうろついているような近衛騎士はほとんどがウルリクの別働隊のほうについていき、ここにいるのは正規軍──戦争では主力となるウルヴァキア王国騎士団の騎士たちだ。城ではあまり顔を合わせないが、彼らのことはよく分かっている。ワシュトリアとの国境争いのとき、寝食をともにして苦しい状況を耐え抜いたのがこの騎士たちだからだ。彼らは普段は(王都から離れたところの)自分の封地にいるので、王都での召集にすぐには応じられず、そういう形になった。ボリスク近郊で彼らが合流したときには本当に懐かしかった。
ウルリクにこの騎士たちがいれば、彼も王城を落とすことはなかっただろう。しかし、それも仕方がない。ウルリクはもともと近衛騎士団の人間ではなく、こちらの王国騎士団の人間だったのだから。彼に近衛騎士団を任せたのは叔父のジグモンドだった。そして親衛隊にガーラント=オルベニウスを置き、近衛騎士団長にウルリク=ユハースを置いたのだ。叔父が存命の頃は馬上槍試合や剣術大会が頻繁に開かれていたから、それは華やかな時代だったと言えるだろう。
だが同時に、膿んだ時代でもあった。
叔父は政をとらなかった。それらはすべて側近に任せた。側近たちは私服を肥やすことばかり考えていた。ことあるごとに賄賂を取り、金で職を売り買いした。国庫の金は彼らのものに等しかった。国中から集めた税は一部の側近の懐だけに入り、必要なところには回っていなかった。
民は際限なく増えていく重税に苦しみ、国境で働く兵士は飢え、中流以上の階級である騎士たちですら、世渡りが下手な場合は深刻な経済難に陥っていた。裕福な商人や銀行家から借金をする者が続出した。法官たちの地位は金で買い占められ、法律は叔父の側近に都合がいいように書き換えられ、罪に問われることもない。
それでも、心ある者は抗議の声を上げていた。祖父のもとで勤勉に働いた役人たちがその大半だったが、稀に良心的な修道士や司祭であったりもした。だが、彼らは数日後にはさらし首になった。死体は何日も回収されず、王都にはひどい腐臭が漂っていた。うかつに通りに出る者はいなくなり、市も消えた。
そのあいだずっと、叔父は娼婦館から出てこなかった。叔父を骨抜きにした高級娼婦が、国宝ともいうべき財宝──黄金の冠や宝石を散りばめた剣など──の数々を根こそぎ手にして消えるまで。ようやく目が覚めた叔父は自分の結婚を考え直し、公爵令嬢クリステラに血迷った求婚をしたりしていたが、すでにそのときには精神に失調をきたし始めていた。彼は自分の求婚を断った公爵令嬢を反逆罪に問おうとしたが、エトヴィシュ公爵が一身を賭して宮廷から身を退いたので、それを諦めた。叔父が自分の毒殺を試みたのもこの頃だった。それらのことを、異国の首都にあってヴィクターはなんとはなしに思い出していた。
帝都ソエルスブルクは、あの頃の王都カルツアネスを思い出させるほど荒廃していた。
いや、まだそちらのほうがましだったかもしれない。王都カルツアネスには汚職がはびこり、腐臭がしていたが、人も建物も残っていた。だが今、帝都ソエルスブルクにはそれらを超えた死の気配が漂っている。見渡す限りの街並みの中で、三分の一は焼け落ちてしまっているように見える。次第に明るくなっていく空の下で見てみれば、狭い通りに固まってうずくまっているのは家を失った帝都の民ではないだろうか?
だが、それらはあっというまに視界から消えてゆく。
人の姿は少ないように思える。家に引きこもっているか、もう帝都を捨ててどこかへ逃れたか……。
気づけばもう宮殿は目の前にあった。
八百騎の騎馬が、ヴィクターを先頭にして敷地の中へ入っていく。
そこは楕円形の広場になっていた。壮麗な、今までどんな国でも見たことがないような見事な、そして巨大な宮殿がその先にあった。間違いなく、この大陸でも最高の建築物の一つだろうと思われる。いったいどれくらいの年月が建造のために費やされたのか見当もつかない。そもそも、こんなに巨大な宮殿が必要なのかどうかも。
しかし、そんなことを詮索している時間はなかった。
騎士たちは次々に馬から飛び降りた。馬のままで宮殿の中に踏み込むことはできない。
夜は空けたとはいえ、空にはまだ暗さが残っていた。宮殿は静まり返っており、夜の眠りの中にあると分かる。
重い鎧をつけずにやってきたウルヴァキアの騎士たちは、それぞれが小さな音を立てて剣を抜き放った。ヴィクターも同じようにする。皇帝の親書を携えてやってきたワシュトリア人騎士、キリルが案内のために足早に歩き出した。
「こちらへ」
ヴィクターと八百人の騎士たちが白刃を下げ、それに続く。
明るくなって互いの顔が見えるようになると、彼らは、馬で走りとおしたこの数日の疲労がどこかに消え去り、互いの目が爛々と輝き、頬が上気しているのが分かった。
ヴィクターは左手に剣を握り締めていた。肩に致命的な深手を負って以来、右手には以前ほどの力が入らなくなり、右手で持つよりも左手で持つほうが楽なほどになってしまった。とはいっても、左手で以前のように剣を扱えるわけではない。あくまで防戦のための、盾代わりの剣にしかならないだろう。それでも、ないよりはマシだ。ウルリクに嘆願されるまでもなく、こんなところで死ぬわけにいかないのだから。
キリルについて宮殿の中に進入する。
宮殿の中はまだ静かだった。ワシュトリアの騎士たちはいったいどこにいるのかと思うほどだ。だが、その疑問はほどなく氷解した。前方に現れたのは十数人のワシュトリア騎士だった。松明こそ掲げていたものの、彼らも重装備ではなかった。異変に気づいたものが飛び起きてやってきたというところだろう。
キリルが何か叫んだが、その場はすぐに乱闘になった。雄たけびが上がり、剣と剣が広い通路で打ち合わされる。鮮血が散った。次々に誰かが倒れていく。皆ワシュトリアの騎士たちばかりだった。あまりにも人数が違いすぎるため、身を翻して逃げ出した者もいた。
あちこちで血しぶきが上がる。悲鳴が上がった。
「陛下、その者と先へ! ここは我らにお任せください!」
先頭を共に走ってきた者たちが押し殺した声で叫ぶ。
ヴィクターは頷くまでもなく、その戦闘を通り抜けた。キリルもその場をすり抜ける。
「今のはミハイル殿下の騎士たちです。ミハイル殿下はまだこの宮殿の中にいると思われますが……」
少し先まで出て角を曲がったところで、二手に分かれる。
片方は皇帝の寝室へ。片方はミハイル皇子の寝室へ。
古参の騎士たちが三十名ほど、皇帝の救出のためにその場を離脱する。近いので、中庭を通り抜けてだ。場所はキリルから説明を受けており、迷うことはない。残りは分散して宮殿内の制圧に努めながら、最終的にはミハイルの部屋に向かう。ヴィクターは精鋭の騎士たちとともに足早に歩き出した。キリルは早足で先に行きながら、「皇帝陛下がご無事だとよいのですが」とひどく緊張した声で呟いた。
ヴィクターは「そう願う」と答えた。全てが、皇帝の存命にかかっている。
ただ、皇帝がもし死んでいたとしても、ミハイルがすぐに皇帝になれるわけではない。そのためには大主教の認可が必要なはずだ。ここは異教の国ではあるが、そうしたしきたりは同じだった。
帝都に火を放ち、民を焼き殺したミハイルが聖職者に認められるかといえば、それは怪しいところだった。だが、ミハイルが望むならどんな方法を使ってでも帝位にはつける。大司教を脅してもいいし、自分の言うことをきく者に挿げ替えることもできる。ミハイルがそれを躊躇するとは思えない。自分の民ですら焼き殺しても平気なのだから。
ミハイルが狂っているとは、ヴィクターは思わなかった。狂うというなら、歯車が狂っただけに違いない。
偉大な父の後を継ぎたかったミハイル。
それを望まず、生まれたばかりの末子に全てを譲りたかった老皇帝。
ただ、すれ違っただけだろう。権力の中心では往々にして起こる悲劇だ。自分と叔父も似たようなものに違いない。互いに思惑があり、望む世界がある。それがかみ合わない場合、道は二つしかない。自分が引き下がるか、相手を引き下がらせるかだ。ミハイルが選んだ道と、自分が選んだ道は同じだった。どちらも相手を引き下がらせるほうを選んだのだ……。

『──ヴィクター殿下。あなたはなぜ、この国を救おうとはしないのです』。

かつて、自分に向かってそう言った男がいたのをヴィクターは思い出す。
中年の下級役人だった。身分こそ低かったが、その男とは親しかった。

『あなたは王の甥だ。ジグモンド陛下を娼館から引きずり出し、政の場に連れ戻せるのはあなただけだ。陛下の側近たちがどれほどあてにならないか知らないはずがないでしょう。彼らをこの城から一掃できるのもあなただけだ。あなたは、望めば全てを変えることのできる力をお持ちだ。それだけの権力と、立場を。だが、いつもそのことをお忘れだ。自分はそうした面倒ごとには関わりたくないのだ、という顔をされている。そして実際、知らん顔を決め込んでおられるのだ。しかしわたしは言わなければならないのです。あなたに。この国が腐り落ちてゆくのを、面白い見物だと思って見物しているだけのあなたに』。

その男はその時、人を憎むような顔つきをしていた。
だが、その目はひどく澄んでいた。まるで修道士のように澄んだ目を。

『あなたはご自分を高尚な人間だと思っておられるのでしょうが、それは違う。王族としての待遇だけは手厚く受け取っておきながら、なんら責任を果たそうとなさらないあなたは、ジグモンド陛下と同じだ。私欲に溺れる、陛下の側近たちと同じだ。何も変わらない。あなたは何も盗んでいないと思っているかもしれない。民から、何も盗んでいないと。だが、それも違う。あなたは盗んでいるのだ。民の幸福を、民の繁栄を──未来を奪っているのはあなたなのです、ヴィクター殿下。他の誰でもなく。シヴェリウス王家の一員として、あなたが叔父であるジグモンド陛下に正しい政をさせることができないなら。あなたがた王族はみなゴロツキの盗賊と同じものにすぎないのです……』。

『わたしは今からジグモンド陛下に直訴しに参ります。ジグモンド陛下は、即位なされたころには英明な君主の素質を見せられていた。あの頃のことを思い出していただくしかないのです。この国はもう待てないのですから。あなたのように黙って見ているだけでは、誰ひとり、何ひとつ、救えはしないのですから。だからわたしは行きます。下級役人の自分には、なんの発言力もないことは分かっている。それでも、わたしの言葉は陛下のお心を動かすかもしれない……。万に一つでも、その可能性があるなら』。

──宮殿にはいたるところに衛兵がいた。
彼らは赤いクッションの椅子に座り、壁にもたれて居眠りをしていたが、金属音の混じった物騒な足音に気づいて飛び起きた。そして廊下を埋め尽くすウルヴァキアの騎士を見て顔を引きつらせた。キリルがワシュトリア語で何かを叫ぶ。それを聞いて、衛兵たちは抱えていた槍を放り出して逃げ出した。キリルが言ったのは『皇帝陛下の援軍だ。我々と戦うな、ここを離れろ』ということだった。ヴィクターにはワシュトリア語は分からないが、行く先々でそう言うように命令したのは自分だった。
犠牲は最小限に留めたかった。自分たちはワシュトリアの解放のために来たのであり、侵略しに来たのではない。戦う気のない者を殺し、財宝を略奪するために来たのではない。それがどんな綺麗ごとにしか聞こえないとしても、ヴィクターはそれを譲るつもりはなかった。だからここに来るまでに、帝都での略奪や暴行を一切禁じると厳命した。自分の配下が無法者の集団だとは思っていないが、それだけははっきりさせておく必要があった。

(あの男……ダーヴィドという名前だったな)

長年忘れていたことを、ヴィクターは急に思い出した。
国王に直訴すると言って娼館へ行き、その場で切り捨てられた哀れな下級役人。
──いや、自分には哀れむ資格などなかった。あのときは確かにそう思ったのだが。
彼の思いは自分と比べようがないほど純粋で、高潔だった。あの澄んだ目そのままに。

『──わたしは何もかも捨てて逃げ出したのだ。城から、父から』

広大な迷路のような宮殿の中をひた走っていると、懐かしい声が頭に響いた。

『幼い頃から自分にのしかかった期待と責任に耐えられなかった。わたしはそれに応えようとした。期待に応え、責任を果たそうと。この国の王子として、偉大なるイヴァーン王の息子として、そうするのが当然のことだと。……だが、出来なかった。父に近づこうとすればするほど遠ざかる。まるで蜃気楼のようだった。わたしは混乱し、自信を失った。わたしは父のようになれないと思った。父の決断力も、豪胆さも、自分にはないことに気づいたんだ。おまえの母親に出会ったのはそんなときだった』。

『彼女はわたしを愛してくれた。文句のつけようのない妻であり、母だった。おまえという素晴らしい宝物をわたしにくれ、家庭のあたたかさを教えてくれた。その彼女の愛が、わたしというちっぽけな器をすべて満たしてしまった。小さいが、美しい村……。栄光も富もなかったが、それでも、王都とは比べ物にならないほどの楽園だった。わたしの王国はそこにあったんだよ、ヴィクター。だからわたしはウルヴァキアを捨てたんだ。玉座など、幸せな家庭に比べればどれほどの価値があるというのだろう。わたしには分からなかった。迷いもしなかった……』。

父、アルベルトの声だった。
優しく、穏やかだった父。
自分とはあまり気性が似ていなかった。そのせいか、父とぶつかったことがヴィクターはなかった。父に比べたら、ウルリクとのほうがよほど喧嘩をしたというものだ。そうしたことを、行けども行けども同じような光景ばかりが続く巨大なワシュトリア宮殿の中で、次から次へと扉を開くように思い出していた。
(死ぬ前はいろいろなことを思い出すというが……。俺はもしかして、今日死ぬんじゃないか?)
ヴィクターは自分で自分を怪しんだ。それくらい妙だ。
ウルリクには『こんな異国で死んではならない』と念押しされたというのに……。
あまりにも散漫に出てくる記憶の数々に、ヴィクター自身閉口していた。だが、そんな奇妙なことが起こっても仕方ないと思うくらい、この宮殿の中には異様な空気が漂っている。数え切れないほどの扉があり、部屋があるはずなのに、どこもかしこもしんと静まり返っているのだ。
しかしその静寂も破られるときがきた。
突然無数の足音が響いてきた。こちらへ駆けてくる。
通路の曲がり角の向こうだ。道はそこしかない。
正面衝突になるのを予感した。足音からしてかなりの人数だ。百人を超えているかもしれない。
ウルヴァキアの騎士たちは進むのをやめた。最前列の一団の中にいるヴィクターは、足音がここへ到達する時間をはかった。──まだ時間がある。四回呼吸する間ほど。そして、彼の耳は木がぶつかりあうような小さな音をとらえていた。
「弓を持ってる。角まで下がれ」
ヴィクターは自身も後ずさりし、早くしろとばかりに片手を振った。
後ろにつかえている騎士たちは一斉に下がりだした。この狭い通路で、弓をつがえた敵の的になるのはごめんだ。それに自分たちが下がらないと、前にいる国王も下がれないのだ。自分たちの主君が常に前に出たがるのは悪い癖だと考えている騎士が、「陛下、お下がりください。戦闘になります!」と叫んだ。他の騎士たちも急いで細い隙間を開け、ヴィクターを中に引きずり込む。そのまま奥に押し込めてしまった。
「盾を構えろ!」
最前列にいる指令格の騎士が押し殺した声で怒鳴った。
「一度矢をやり過ごしたら一気に前進するぞ。盾を忘れるな!」
その命令はすぐに全員に伝わる。ウルヴァキアの騎士たちは角を曲がって後退したところの通路に分散し、壁に身を寄せながら盾を構える。重い鎧は身に着けていないから、この盾が唯一の防御壁だった。
足音は近づいてきた。しかし一度止まった。向こうもこちらの気配に気づいたのだ。弓をつがえる音がした。互いに、相手が見えない場所にいる。この宮殿の廊下はいたるところで右に左に曲がっているからだ。先に相手の視界へと足を踏み出すのがどちらか、どちらも考えているような静けさが流れていた。
指令格の騎士が足元に向かって指をさしてみせた。
その合図とともに、前にいる騎士たちが一斉に足を踏み鳴らした。
ざっ、と音がする。同時に向こうで弓弦が鳴り──
ほどなく、目の前の壁に無数の矢が突き刺さるのが見えた。
ウルヴァキアの騎士たちは一気に角を曲がって前進する。そこには、弓をまだ下ろしていないワシュトリア騎士たちがいた。彼らは最初の一撃が空振りしたことを知り、次の矢を放とうと弓を構えているところだった。だが、それは間に合わなかった。抜き身の剣を掲げたウルヴァキア騎士が彼らに襲い掛かった。ワシュトリア騎士たちは弓を捨て、剣を抜いた。打ち合いになった。すぐにその場は流血と悲鳴の中心地となる。次々に前の列の者が絶命していった。
キリルが後ろからワシュトリア語を叫んでいたが、ワシュトリア騎士たちは攻撃をやめなかった。
「ミハイル殿下の騎士です」
キリルが再び叫んだ。ウルヴァキア語で。
「側近たちです。彼らはわたしたちをミハイルの部屋に近づけまいとしています──ミハイルは必ずこの先にいます! ここから先に他の道はありません! 袋小路です!」
キリル自身、剣を掲げてワシュトリア騎士たちに打ちかかっていく。
皇帝の騎士である彼は、帝都にたどり着いたとき、何より先に皇帝が無事であることを確認したかったはずだ。しかし、宮殿内の道案内のためにこちらに残った。今頃は途中で別れた別働隊が皇帝の身柄の確保に向かっており、それを成し遂げていておかしくない時間だが、そちらの状況がどうなっているのかは分からない。
ただ、ミハイルの騎士がこちらに終結しているのなら、別棟にいるはずの皇帝は無事なのかもしれない。もし皇帝が絶命していれば、ワシュトリアの騎士たちはそう叫ぶだろう。キリルに向かって、彼を絶望させるために。しかし彼らは死に物狂いで戦っている。これは──自分たちが追い詰められたことを理解している者の顔ではないだろうか?
しかし、そうだとしたらなぜ皇帝を生かしていたのだろう。
ミハイルには、やはり父は殺せなかったということか──。
怒号、血しぶき、剣と鎧の音。
おなじみのものの中で、ヴィクターにはさまざまなことを冷静に考えるだけの余裕と時間があった。列の後方に下がってしまったために。ここからほかに出来ることといえば、前にいる者たちの戦いぶりをじっくり観察することくらいだ。
ウルヴァキアの騎士たちはよく戦っていた。ワシュトリアとの戦争を経験した者が大半のはずで、さすが正規軍だと褒められる戦いぶりだった。若くはないがベテランの者が多く、周りを見る余裕もある。放っておいても勝利するだろうとヴィクターは思った。いかなる戦いにおいても油断は禁物だが、負けそうにないと言ったらいいのか、どこからどう見ても向こうのほうが不利に見えた。数の劣勢、必死さ、そもそも彼らがワシュトリア国内でさえも孤立しているであろう特殊な状況──。
第四皇子ミハイル。
第一皇子と第二皇子をいかなる手段を用いてか廃し、第三皇子ムスティスラフを帝都から追い払うことに成功した男。三人の兄を押しのけて帝位を掴もうとした彼は、しかし、第五皇子イリヤの誕生によって全ての足場を失ってしまった。病床の皇帝イルニードは第五皇子イリヤに帝国を継がせると言った。それがミハイルを逆上させた。
父に見限られたと感じたのか、それとも、赤子でしかない弟に嫉妬したのか。
ミハイルの心は分からないが、彼の野望は潰えたも同然だった。追い詰められたミハイルに出来るのは、自分に逆らう者に腹を立てて帝都に火を放つというような、子供じみたことでしかなかった。しかし、ヴィクターにはそんなミハイルの気持ちは理解できた。哀れというのか──人間とは基本的にそうしたものだと思うからだ。自分がもしミハイルの側近だったとしたら、彼のために最後まで戦ったかもしれなかった。ワシュトリア人の騎士として──。
しかし、そうではない。ヴィクターはウルヴァキアに生まれ、ミハイルはワシュトリアに生まれたのだ。それが全てだった。互いに国を預かる立場になったが、ミハイルは全てを失い、ヴィクターはそうではなかった。
(これ以上は考えまい……)
ヴィクターは自分の思考に無理やりケリをつけた。これ以上考えれば、ミハイルを斬れなくなりそうな予感がした。皇帝の親書がある以上、皇帝が逆賊と決めたミハイルを生かしておく理由はないのだ。情にほだされて生け捕りになどしたら、その後の始末に困るのは目に見えている。牢に入れても頭痛の種になるだろうし、中途半端に孤島送りなどにするくらいなら、ここで一思いに斬り捨てたほうが互いのためになるだろう……。
最初ウルリクは、『ミハイルを斬るのは自分に任せて欲しい』と言ってきていた。もしかしたら彼はこのような状況を想定したのかもしれないが、ヴィクターはヴィクターで、ミハイルの粛清は自分の手でしなければならないような気がした。だから却下した。宮殿から脱出したはずの皇妃の探索は、帝都の地理に明るいウルリクに任せるのが最善だった。それに、皇帝の救出や皇妃の救出、第五皇子イリヤの救出は、美談ではあるが、そのような美談を欲してヴィクターはワシュトリアへ来たわけではなかった。
ワシュトリアとウルヴァキアの同盟関係を作るため、皇帝に貸しを作る。目的はそれだけだ。そのためにはミハイルが邪魔であり、彼を討ち果たすことこそが、両国の同盟関係の始まりになるのだ。一時の情に流されてその目的を見失えば、こんな異国に来たこと自体が無駄になる。

『下級役人の自分には、なんの発言力もないことは分かっている。それでも、わたしの言葉は陛下のお心を動かすかもしれない……。万に一つでも、その可能性があるなら』──。

死んだ男の言葉が脳裏に蘇った。
あの男が命を賭けても踏み込めなかった領域に、今、自分は立っている。人を動かし、何かを変えられる場所に立っている。
ここから何が出来るだろう?
この場所から。この瞬間から。
願わくば、振り返ったとき、これでよかったと思える道を歩いていたいと痛切に感じた。そこに居てほしい者たちがいて、守るべきものがあり、自分の人生に誇りが持てるように──。
もう何度も漠然と思っていたことが、急に強い形を伴って心の中に現れたようだった。ヴィクターは自分の心臓がどくりと脈打ったのを感じた。
「前に通してくれ」
ヴィクターは突然、目の前の騎士の肩を掴んだ。半ば衝動的な行動だったが、裏返せば熟慮の結果でもあった。迷いはなかった。
ヴィクターと同じように、最前列の戦況を固唾を呑んで見守っていた騎士が、びっくりしたように振り向いた。
「……陛下?」
「通してくれ。頼む」
言いながらヴィクターは強い視線をひらめかせ、その騎士を押しのけた。
「陛下、いけません! 前に出られては!」
古参の騎士がすぐに気づいて、主君を止めようと横から肩を掴む。しかしヴィクターはその手を引き剥がした。目に映るのは最前列の状況だけだ。そこではワシュトリアの騎士とウルヴァキアの騎士が、血しぶきを上げながら戦っている。傷を負った苦悶の声、剣を打ち合わせる激しい音。狭い通路の中にこだまする無数の怒声。その場に倒れ伏している数はけして少なくはない。ざっと見ても、もう二十ほどは死体が積みあがっているように見える。その中にはウルヴァキアの騎士らしき背中もある。
あと何百人がこの場で死ねば、この戦いはおさまるのだろう。
ワシュトリアの騎士たちは廊下の奥から、次から次へと現れ出る。どうやら百人以上がそこにいたようだった。いつのまにか彼らは、ウルヴァキアの騎士の侵入に気づいていたのだろう。そして密かにミハイルのいる棟に集結していた。もはやこれまでと理解したとき、彼らはミハイルを見捨てて逃げ出すのではなく、彼を守ることを選んだのだ。皇帝に見捨てられ、民衆からは狂気の皇子と呼ばれたミハイルを守ることを──。
「キリル。──キリル!」
ヴィクターはワシュトリア人の騎士を探して叫んだ。
その騎士はすぐにヴィクターの声に気づき、振り向いた。彼は最前列というわけではないが、ここよりもう少し前にいた。
「陛下?」
ヴィクターは自分の騎士たちをかきわけて進んでいた。何度も周囲の騎士に止められ、「危険です、後ろへ!」と手を伸ばされたが振り払った。キリルはその状況を見てとって、彼のほうから急いで近づいて来ようとした。ヴィクターはそれを片手を制して止めると、苦労して彼のところまでたどり着いた。
「ここでの戦いを放棄するなら、ミハイルを殺さないと伝えてくれないか」
ヴィクターはキリルの顔を見て言った。キリルは目を見開いた。
「陛下、しかし……それは、不可能です」
彼は呆然とした顔で言った。「出来ません」
「なぜ出来ない?」
ヴィクターは彼の肩を掴んで訊ねた。本当にその理由を知りたかったし、知らねばならなかった。
キリルは落ち着かないように視線を周囲に向けた。
「ミ……ミハイルを殺さないということは、生け捕りになさると?」
「そのつもりだ」
「ミハイルはもはや逆賊! 皇帝陛下はミハイルの粛清を望んでおられるのです!」
キリルは恐れるような、怒ったような、複雑な顔になって叫んだ。
彼は、異国の国王が突然何を言い出したのかを理解しかねていた。
「だが、息子だろう?」
ヴィクターはそれに静かに言い返す。キリルはぎゅっと唇を引き結んだ。
「おまえの皇帝が親書に書いて送ったのは、『ミハイルを殺せ』という命令ではなかった。ミハイルの手から皇妃とその子を救出しろと、それだけだった。ならば、ミハイルを殺すことは皇帝の命令ではないのだ。俺はそう判断する。……さあ、今すぐワシュトリアの騎士たちに『戦いをやめろ』と伝えろ。そうすればミハイルを殺さないと言え」
「ミハイルは正気を失っております。この帝都に火を放ったのですよ! それで多くの民が死んだことでしょう。何百、何千という民が……。皇帝陛下はミハイルの存命をお望みではないはずです。ミハイルが生きていれば、幼いイリヤ殿下に危害を加えようとします。必ずそうなります!」
キリルは頑なに首を振る。
「出来ません、わたしには。それは皇帝陛下のご意思ではありません!」
「俺もさっきまでそう思っていたが、はっきりと確かめてからでも遅くないと思い直したのだ」
「しかし……」
「本当にミハイルが悪魔のような人間であるなら、なぜこの騎士たちは命がけで戦っている?」
「それは」
確実な言葉を言おうとしたキリルは、しかしふいに言葉を失った。
よく考えれば、彼自身にもその答えは分からなかった。ただ、『忠誠のため』としか。
──忠誠?
──そうだ。自分は皇帝の騎士だが、彼らはミハイルの騎士。それが彼らの道なのだ。だから戦っている……。
「彼らがミハイルの騎士だからです、陛下。それだけのことです」
キリルはそう言ったが、ヴィクターは辛抱強く説得を続ける。
「おまえが命を賭して運んだ親書を思い出せ。皇帝は親書にこう書いていた、『慈悲と良心によって』とな。それは何を意味している? 慈悲と良心とはなんのことだ? 皇帝が本当に望んでいるのはなんなんだ? ……キリル、頼むから言うとおりにしてくれ。皇帝に会って、皇帝がミハイルの死を心底望むのであれば、そのときには俺がこの手で剣を抜こう。だが、今はまだその時ではない。そんな気がするんだ」
頼む、ともう一度繰り返した。
キリルは周囲の騎士たちの顔を見回した。ウルヴァキアの、ヴィクターの騎士たちを。
彼らは仕方がないというように首を振って見せた。主君がそう言うのなら、そうするしかないのだ、というように。
キリルは「わ……分かりました」と言ったが、彼自身はひどく混乱していた。ただ、そうするしかないとようやく理解できていた。彼はもう少し前に出て、ワシュトリア語で何かを叫んだ。同時にヴィクターも、自分の騎士たちにもっと後ろに下がるように命じた。
「狙いは第四皇子ミハイル一人だ。彼を生け捕りにせよ! 他の血を流すな!」
つまらぬ情に流されれば目的を見失うと自分を戒めたばかりだったが、情のない人間など──
この世界に生きていて、なんの面白いことがあるというのだろう?
目的だけを達成すればいいのなら、自分はもっと早くそれが出来ていた。
国王になるのが人生の目的であったことなど、一度もない。『つまらぬ情』に流されたから、自分は──おそらく、何度も何度もどうしようもない失敗を繰り返しながらも、この場に立っているのだ。そのことをヴィクターは思い出していた。あの下級役人の声や、父の言葉が幻のように蘇ったときに。
つまらぬ情と軽蔑しながら、自分はいつもそれに流される人間なのだ。今、ようやく分かった。

『あなたは何も盗んでいないと思っているかもしれない。民から、何も盗んでいないと。
 だが、それも違う。あなたは盗んでいるのだ。民の幸福を、民の繁栄を──』。

『栄光も富もなかったが……わたしの王国はそこにあったんだよ、ヴィクター』。

自分の王国。

──きっとどこかに、誰も争わなくて、みんなが幸せな国があるわ。
──わたし、絶対に見つける。あなたのために、絶対に見つけるわ……。

フィアの声が聞こえた。
その瞬間、ヴィクターは、自分の選択はおそらく間違っていないのだと感じた。そして思った。
いや、おまえはどこにも行く必要は無い。
それは俺の行くところにある。そのはずだ。
おまえの望む国を作ってやると──そう、約束したのだから。