──この前日──
エミーリヤ皇妃とイリヤ皇子をかくまっていたグレデンという騎士は、運よく一命をとりとめていた。
その友であるキリルは、医者からの報告を聞いてほっとし、胸を撫で下ろしていた。
キリルがウルヴァキア国王に呼ばれたのはそんなときだった。彼は深夜に呼び出されたことに面食らいながら急いで支度をし、国王のいる貴賓室へ向かった。
国王の部屋には他に二人の騎士がいた。ワシュトリアの侍女たちが「神話に出てくるような美形の人だ」と噂話をしていた巻き毛髪のフィルデールと、やや小柄だが、りりしい顔立ちと引き締まった体つきを持ったエンドレアスだ。
国王のほうは普段と変わりなかった。くつろいだ服装で、長椅子の中央に腰を下ろして他の者たちを出迎えた。何事だろうかと訝しがりながら向かいに座ったキリルに、彼は「単刀直入に訊くが」と前置きし、予想だにしなかった質問をぶつけてきた。
『イリヤ皇子は、たしかに皇帝の息子か?』
『……えっ?』
あまりに意外な質問だったため、キリルは唖然として聞き返した。
『それは、どういうことですか? 国王陛下? イリヤ皇子の出生に何か疑問点でも?』
『ある者が、エミーリヤ妃と騎士グレデンの関係を疑っていた。念のために確かめたい』
国王はキリルの顔をじっと見て言った。
互いのあいだにある大理石のテーブルの上には銀の燭台が置かれ、数本の蝋燭がいっせいに燃えて明るい光を放っている。しかし、部屋の中が全体的に薄暗いのは否めなかった。キリルは自分の表情を隠すようなものが何もないのを知った。フィルデールとエンドレアスは少し離れた場所に座っていて、彼らのところにも灯りはあったが、こちらのものより弱い。
『どうなんだ? 正直に答えてくれ』
『そ、そのようなことを、なぜ突然──』
『おまえはグレデンという騎士とは友人なのだろう? もしその者の危惧が真実であれば、あとでことが明るみに出たとき、皇帝の名誉だけでなく、グレデンという騎士の名誉も永久に失われる。真実なら真実で、俺にも打つ手がないわけではない。とにかく、先に本当のことを知っておきたいんだ。それが皇帝やイリヤ皇子を守ることになる。……分かるだろう?』
『わ、分かります』
キリルはかろうじて頷いた。
突然の話に冷や汗が垂れる思いだったが、とにかく、自分の知っていることを話すべきだと思った。
『ご心配の件ですが、そのようなことは断じてありません! グレデンは忠義の騎士です。責任感が強く、エミーリヤ妃にも心からの忠誠を誓っておりますが、それはすべて皇帝陛下のため、ワシュトリアのため! それ以外の理由など何もありません。彼を昔から知っているわたしが保証します。彼は不実をするような人間ではありません』
『信じていいんだな?』
国王の目は鋭かった。キリルは頷いた。
『信じてください。大神に誓って、グレデンは潔白と申し上げることができます!』
国王は表情をゆるめて『分かった』と頷いた。この話はそれでおしまいになった。
──次に、国王はムスティスラフについてあれこれと質問をはじめた。
彼がどんな食事を好むか、好きな場所はどこか、親しかった人間は誰か、側近たちはどのような人間たちかというようなことから、皇帝との関係をもっと詳しく語ってほしい、他の皇子たちとの関係は? ──と、ありとあらゆることを次々に質問してきた。キリルは変わり者の呼び名の高いムスティスラフについて語るのはまったく気が進まなかったが、国王の求めに応じて渋々説明した。
そのような、いささか謎めいた話し合いは深夜まで続いた。
日が昇るまであと少しというころになって、やっとキリルは国王の前を辞去することができた。フィルデールは部屋の中で居眠りしているように見え、エンドレアスもあくびをかみ殺していた。国王は眠そうではなかった。去り際にそのことを疑問に思って口に出すと、『前の日にゆっくり寝たから、大丈夫だ』と返答があった。
この人は疲れ知らずだなと思いながらキリルは自室に戻り、ベッドに倒れこんだ。
国王──ヴィクターの行動にはまだ続きがあった。
彼は寝ているフィルデールを足で蹴って叩き起こし、『ウルリクを呼んで来い』と申し付けた。
フィルデールは『しょうがない』というような顔で立ち上がり、がりがりと首筋を掻きながら近衛騎士団長の部屋へ行った。近衛騎士団長は国王の部屋からそう遠くないところに部屋をもらっていたので、実際にはそれほど手間がかかったわけではない。
ウルリクはほどなくやって来た。そして、フィルデールとエンドレアスが護衛のために扉の外に立っていないのを咎めた。──それに加えて、恐ろしい目つきで。フィルデールとエンドレアスはいきなりしゃきっとしたようになって、さっさっと足取りも規律正しく部屋の外へ出て行った。
ヴィクターはウルリクにある“頼みごと”をした。
ヴィクターのほうは、ウルリクがそれを断るだろうと考えていたのだった。だから、そのときの彼の口調はあまり歯切れがよくなかった。それどころか、言い出すまでにずいぶんと遠回りな話をしたりした。しかし、その遠回りな話のなかで、ウルリクは主君が自分に何を頼みたいのかを察した。
『つまり──皇帝があなたにくれると言った大将軍位を、わたしに委ねたいと?』
『あ、ああ……そう。そういうことを言いたかった……んだが』
ヴィクターはまだ歯切れが悪かった。彼はウルリクの顔色をうかがった。
『しかし、そうするとおまえは当然ながらここ《ワシュトリア》に残らなくてはならないだろう。まあ、ワシュトリア語が話せるんだから、生活にそれほど不自由はないとしても……実際、どんな待遇になるか分かったもんじゃないからな。皇帝が存命のうちはいいだろうが、そのあとは、ワシュトリアの騎士たちはおまえの言うことには従わなくなるだろう。他の将軍たちも……』
『幼いイリヤ皇子には、武力を行使できる人間が後ろ盾につかなくてはならない。それは事実でしょう。そうでなくては、こうまで荒れたソエルスブルクは治まらない。皇帝の考えにはわたしも賛成します。ワシュトリアでは、肩書きがなければ人を動かすことができませんからな』
ウルリクの意見ははっきりしていた。
『しかし、それと、あなたが大将軍位を受けるというのは別の話です。そんなことは許せませぬ』
『いや、名前だけはもらっておこうかとも考えたんだが……』
『いけません』
ウルリクはヴィクターの迷いを一刀に切り捨てた。
『あなたはウルヴァキアの国王であり、ワシュトリア皇帝の臣下ではない! あなたがワシュトリアに跪く理由などひとつもない。あなたはこの国を混沌から救ったのですぞ、陛下! 感謝はされても、臣下扱いされる筋合いはありませぬ。そのような無礼な提案、まじめにお考えになりますな。情けない』
『別に、俺から言い出したわけじゃ……』
ヴィクターはぼそぼそと言いながら、叱られたような顔で唇を曲げていた。子供のころからの条件反射で、ウルリクに叱られるとそうなってしまうのだ。ずっと独り身だったため、子供を持つことのなかったこの男は、子育ての仕方を知らないせいで何かにつけて容赦がなかった。
ウルリクはおもむろに姿勢を正した。ヴィクターはそれに気づいて視線を上げた。
『ワシュトリアの大将軍位──わたしが引き受けましょう』
ウルリクはきっぱりと言った。
『誰しも、異国人が軍の上層にいるのをよくは思わない。たとえ王でもそれは同じです。わたしなら、元はワシュトリア人。いくらか恨みも薄まりましょう。それに、イリヤ皇子が成人するまでのあいだだと言えば、ワシュトリアの騎士たちも渋々ながら納得するはず。あとのことはわたしにお任せを』
ヴィクターはすぐには何も言わなかった。自分から言い出したことだったというのに、言葉につまったような顔をしていた。
『……ああ。頼んだぞ』
やがて彼はそう言い、複雑な表情を隠そうとするように目を伏せた。
『イリヤ皇子の養育も、おまえならこなせるだろう。何しろ、あれだけ反抗的だった俺をここまで育てたんだから……』
『あなたは今でも反抗的ですよ、陛下。どうも、ご自分では分かっておられないようですが』
ウルリクは真面目な顔のままで言った。
ヴィクターはその顔を見上げて、黙って苦笑した。
──皇帝はキリルと、もうひとりの騎士に支えられて自室へ戻っていった。
おそらく、これが皇帝が公式の場に顔をだす最後の行事になっただろうと、その弱々しい後ろ姿を眺めてヴィクターは思った。隣に立つウルリクも同じ思いを抱いたようで、
「かつては憎いと思った皇帝も、こうなってみると、一日でも長く生きてほしいと願うばかりですな」
と苦々しい声で呟いた。
「そうだな」
ヴィクターは頷いた。そして、自分も部屋に戻るために踵を返す。
大広間にはまだ大勢の人々がいた。これから祝いの宴が開かれることになっていて、さっそくのようにその用意が始まっている。それが整うまでのあいだは部屋で休めるのだ。宴じたいも、なにも絶対に出席しなければならないというような堅苦しいものではない。あくまでも双方の騎士と、人々の交流のためのものだ。
「帝都のほうはどうなっている?」
「配下の者たちに警邏させ、負傷した人々の救出にもあたらせております。ソエルスブルクの民は我々を歓迎しているようですな。彼らは帝位継承争いにうんざりしていたのでしょう。そのために大勢の死者が出たのですし、無理からぬことですが」
「そういえばミハイルの件だったな」
ヴィクターはワシュトリア騎士が左右に開いてくれた大扉を通り抜け、外の廊下に出ながら言った。そこは広い廊下で、広間の喧騒とは無縁に静かだった。ワシュトリアの人々が信仰する“大神”の、憂いがちな顔をした全裸の像が隅に置かれている。
「俺がミハイルを殺さなかったのに文句があるようだが」
「当然です。イリヤ皇子が帝位継承したとき、ミハイル皇子は障害になるでしょう。あなたに、それが予想できなかったとは思えませんが」
ウルリクは隣を歩きながら言った。後ろには幾人かのウルヴァキア騎士たちがついてきている。
「ミハイルはウルヴァキアに連れ帰るつもりだ。皇帝にもそう話した」
「馬鹿な」
ウルリクは顔をしかめた。
「ウルヴァキアには、すでにムスティスラフ皇子が亡命しておりますぞ。そのうえ、ミハイル皇子まで」
「ムスティスラフは呼び戻して、宰相に任ずる」
「もうお決めになられたのですか? それは」
「それがいいだろうと思ったんだ。ミハイルは気性が激しすぎて、弟の補佐役には向かないようだしな。ムスティスラフならあまり権力に興味がないというから、将来的にイリヤの邪魔になることもないだろう。……もしそうなったとしても、軍とのつながりがないから排除は楽だ」
「ムスティスラフ皇子にまともな政治ができるとは、とても……。飾りならば務まるでしょうが」
「できなくとも“させる”しかない」
ヴィクターはウルリクを見返って肩をすくめる。
「それに、そう頭は悪くなさそうだったぞ。キリルの話ではな」
「一筋縄ではいかぬ、妙な御仁と聞いております」
「おまえが適当に牽制すればいい。イリヤの世話だけじゃなく、ムスティスラフの目付け役もやれ」
「人使いが荒いですな」
ウルリクは嫌そうな顔をした。ヴィクターはちょっと笑った。
「『人は使うものだ』と俺に教えたのはおまえだ」
「まったく……こんなときだけそれを引用なさる」
それからしばらく、二人で無言で歩き続けた。
途中で幾人かの騎士に呼びとめられ、あれこれと指示を求められた。ヴィクターも、ウルリクも、どちらもそれぞれに。それに答えながら先に進む。ソエルスブルク宮殿の内部は相変わらず入り組んでいて、おかげで、構造を覚えているはずのヴィクターも何度か迷う羽目になった。
「……ん? おかしいな、中庭に出た。こっちのはずが……」
「陛下、あそこに見事な噴水がありますぞ」
ウルリクがそれを指差した。
柱の向こうに見える中庭の中央に、水をたたえた大きな噴水が見える。
「ああ、本当だ。いい技術者でもいるのか、ワシュトリアには噴水が多い」
ヴィクターは言ったが、その目は自分の部屋のある棟を探して上のほうに向けられている。
「土木や治水を得意とした古代の技術者たちは、最終的にワシュトリアに行った者が多いと聞いています。もともとは西の人間たちでしたが、救世母教を嫌ってこの国へ……」
「俺はあの宗教が国教になってから生まれたから、別になんとも思わんが、年寄り連中はたしかに嫌っていたな。ウル教のほうが正当な宗教だとずっと言っていた。今ではもう、その神殿を見ることもほとんどないが」
「あれを国教になさったのはイヴァーン陛下でした。陛下は新しいものがお好きな方で、古いものにあまり固執なさいませんでした。しかし、あれだけは、わたしもするべきではなかったと思っております。ウルヴァキアはウル神の国。ウル神を信仰しないヴァキアの民には、いつか天罰が下るような、そんな気がするときが……ふとあります」
ウルリクは噴水の近くへ行き、そのふちに腰を下ろした。
ヴィクターはそれを振り返り、少し呆れた顔をした。
「何を座りこんでるんだ、そんなところに」
「少々足が疲れました。年ですかな」
「………」
ヴィクターは少し考えてからウルリクのそばへ行った。
立ったまま、自分の父親ほどの年の男を見下ろす。
「……本当にいいのか?」
その声には憂いのような影があった。
ウルリクは問いかけにたいして眉を上げてみせた。
「何を今さら。もう皇帝にも『人選が決定した』と言ったあとですのに」
「嫌なら、他の方法を考える。おまえがワシュトリアに残らなくてもすむように」
「ソエルスブルクに住んだ経験があり、ワシュトリア語を話せて、長として騎士団を動かした経験のあるわたしが適任です。幼いイリヤ皇子の養育を見守るのも、わたしには向いた仕事かもしれませぬ。かつてあなたにしたのと、同じことをすればいいのですからな」
「おまえの教育は厳しすぎた。イリヤにはもっと易しくしろ」
ヴィクターは言って、ウルリクの隣に腰を下ろした。
「あの頃の俺より子供なんだから」
「わたしと話せるようになるには、あと数年かかるでしょう」
ウルリクの答えはもっともだった。イリヤはまだ一歳になるかならないかだ。
ヴィクターは小さくため息をついた。
「おまえと出会ってから十七年ほどか。振り返ればあっというまだったな」
「あなたは十二でいらした」
「家に踏み込んできて、いきなり人を攫ったな。今だから言うが、しばらくおまえを恨んでた」
「そうでしょうな」
「あれからすぐ母上が亡くなったが、そのことも、俺はすぐには知らされなかった……」
「あなたを城から出すなと、イヴァーン陛下の命令でした」
ウルリクは大柄な体を前かがみにして答えた。
ヴィクターは両手を噴水のふちにかけて空を仰ぎ、苦笑した。謝るとは思っていなかったが、今でもそれは変わらないらしい。ウルリクの中では、国王の命令は絶対だったのだ。
「いつも、おまえは祖父の言うなりだったな。祖父が亡くなったあともそうだ。ずっとあの人の命令に従って動いていた。子供の俺の言うことなんか聞いてくれたことがなかったな。最初に馬をくれたのと……いや、それくらいしか思いだせん。そのあとは怒られた記憶しかない」
「このような性格ですので、ジグモンド陛下にも敬遠されておりました」
「祖父の言うことしかきかないような騎士を、叔父上が重用するわけがない。……でも結局、近衛騎士団長にはなれたじゃないか」
「ジグモンド陛下が新設した“親衛隊”がいましたから、近衛騎士団はそれの下部組織のような扱いになって、あのころはたいして重職ではありませんでした。仕事もほとんど衛兵や憲兵と同じでしたし、毎日盤を出して駒遊びが出来るくらいに暇なものでしたな……。ようするに閑職です。門番だったころとあまり変わらない」
「ああ。たしかに」
ヴィクターは頬をかいた。彼自身、一時期は近衛騎士団に所属をしていたこともある。そのころは確かに近衛騎士団というのは、親衛隊よりも格下で、たいして仕事もない、肩身の狭い職だった。だからほとんど酒場に入り浸っていた気がする。
「親衛隊のほうが威張ってたっけな。ガーラントなんか、自分が城主のような顔をしてた」
「あの男は嫌いでした。することが雑で、無責任だった。何も考えていなかったのでしょう」
ウルリクは顔をしかめた。ヴィクターも気づかずに同じ顔をしていた。
「それは同意だ。あいつはひどかった」
「しょせん異国人など頼りにならないと言われているようで、見るたびに腹立たしかった。わたしが自分が移民であることを極力隠してきたのは、あの男のせいだと言っても過言ではない。騒ぎを起こしていなくなってくれたときにはせいせいしました……」
ウルリクは日焼けした色の肌の顔を空に向けた。
空は青く、高く澄んでいた。風は夏とは思えないほど涼やかで、肌寒いほどだ。
「……なあ」
ヴィクターは隣の男に改めて話しかけた。
「『国に戻ったらしばらく好きにさせてもらう』と言ったが、覚えてるだろうな?」
「ええ、まあ……」
「しかし、おまえをワシュトリアに置いていくことになった。あの約束は反古にするのが公平かもしれん」
「気になさいますな。わたしには妻も子供もおりません。必要なものは使用人に送らせますし、彼らも、もし望むならこちらに呼び寄せることはできます」
「なら、好きにしていいか?」
「勝利したら、と申し上げましたが……」
ウルリクは言って、生真面目だった顔を根負けしたように笑ませた。どこか苦く。
「こうなった以上、『認められない』とは言えませんな……。お好きになさいませ」
ヴィクターは笑って、ウルリクの肩を軽く叩いた。
「その一言が聞きたかった。おまえの口から」
それから、ついでのように「お前もこの国で美人を見つけて、早く結婚しろ。六十すぎで新しい妃を持った皇帝を見習え、それより十は若いんだからな」と言うと、ウルリクはいかつい顔をムッとしかめ、「わたしが反対しなくとも、結婚問題で『つまづいていた』あなたにいわれたくはありませんな……」と答え、ヴィクターを見事に黙らせた。