KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十三章 ソエルスブルクにて 10

「──というわけで、またあっしがあの方《陛下》の伝言をレヴィンのダンナに……」
王城の執務室で、痣だらけの小男が渋い表情を作って立っている。
レヴィンはその正面にいた。
彼は長椅子にくつろいで横になっていた。長い金髪を片方の肩に垂らし、長い足は肘掛けの上に投げ出している。この部屋でこんな格好ができるのは主がいないときだけで、その貴重な時間を彼はいつも最大限に活用することにしていた。たとえ、あと数ヶ月は戻らないと分かっているときでも。
「──で、陛下はなんと?」
レヴィンの低く艶やかな声が、夕刻の執務室に響く。
「えーと……“万が一ラディウス邸にいないのであれば、早急に報告せよ”とのことでした」
「ふむ……。あの娘が王都にいないことを感づいたわけだ。なぜかな」
レヴィンは髪を優雅にかきあげた。小男──ミクローシュは言葉に詰まる。
「それは、えーっと……イグナーツ卿がお気づきになったんで……ゲヘヘ」
うつむいて、左右の手の指と指とをつつきあわせて言葉を濁す。
「何か隠しごとをしているだろう? わたしには分かるぞ」
レヴィンが冷ややかな目つきでミクローシュを見る。彼はますます言葉に詰まった。
「まあ、その、なんて言やぁいいのか、あっしもホラ……うかつなところがありまして」
「わたしがあの娘を王都から追い払ったことを知らせたんじゃなかろうな」
「えーっへっへ……ご、ご名答!」
ミクローシュは引きつり笑いで言った。こうなったらもうヤケだ。レヴィンの前で必死に揉み手をする。
「さ、さすがレヴィンのダンナ! あっしの雇い主だけあって、あっしのことはお見通し!」
「おまえのような口の軽い者を雇ったのが間違いだった」
レヴィンは呟いて、冷たい視線をミクローシュに浴びせる。
ミクローシュは、自分のまわりに雪の嵐が吹き荒れるのを感じた。
「──と言いたいところだが、今回は大目に見てやろう。おまえの口から、そのことがあの方の耳に入っても構わんと思ったから言ったのだ」
「さ、さいですか……」
ミクローシュはほっとした。とりあえず解雇されずにすむようだ。
「あの方はできるだけ急いで王都に帰還しようとなさるだろう。そうなればわたしにも都合が良い。何しろ、執務が山のように滞っているのだからな。国境行きは仕方なかったとはいえ、いつまでもぐずぐず向こうに居てもらっては困る」
レヴィンはかすかに眉をひそめた。視線を窓の外に向ける。
「ボリスク領主の尻を叩いて領地に戻らせたのはいいが……。おまえの報告では、国境ではワシュトリア軍に動きはないということだったな。ミクローシュ」
「え、へえ……。騎士連中は休暇かと思うくらいノンビリしてましたぜ……。川で魚釣ったりして。陛下は丘の上で昼寝してましたし」
ミクローシュはなおももみ手をしながら言った。国境で引き返してきた彼は、その後、国王とその騎士団が皇帝の親書を受け取り、国境をこえてソエルスブルクに進撃したことなどつゆ知らなかった。もし知っていればレヴィンに報告したろう。
だがレヴィンは、何か予想だにしないことが起こりつつあるのを感じてはいた。
「やはり陽動……。ウルヴァキア国内の事情のためにワシュトリア軍を動かせる人間がいるのか?」
ミクローシュはその呟きを上目遣いに聞いている。
「ウルヴァキアの貴族と、ワシュトリアの貴族がどこかで繋がっている……」
レヴィンはふいに立ち上がり、壁際の大きな書棚に歩み寄った。
髪をばさりと後ろに流し、手を伸ばして、高いところから何冊かの書類の束を取り出す。
「ど田舎の領主にそこまでの考えがあるとも思えん。首謀者は王都の中にいるはずだ」
レヴィンが手にしたのは、国内外の貴族諸侯の名を家系図として記した書類の束だった。
パラパラとめくり、読み物に集中しだす。
「えーと、あっしはその……宿に戻ってもいいですかね? これからイグナーツ卿のところに行くもんで、その前に飯と風呂と着替えをすませたいんですよ。なんせ、あそこはエトヴィシュ公爵邸ですから……」
「ああ」
「んじゃ、その……し、失礼を!」
「今回の使いの報酬は出さぬからな。うかつに口を滑らせた罰だ」
淡々と言ったレヴィンの後ろ姿に、ミクローシュは哀れなほどガックリと肩を落とした。


「皆さま、お夕食の前ですけれど、お茶はいかが?」
美しい刺繍を施した布靴で絨毯を踏み、黒髪の公爵令嬢みずからが銀の盆を手にして近づいてくるのを見て、話しこんでいた騎士たちは慌てて立ち上がった。
──王都のエトヴィシュ公爵邸。
王都の中でも有数の大きな邸で、部屋数は二十もある。そのうちのひとつに、イグナーツとベリス、そしてサムエルが集まっていた。ここは彼らにとって会議室のような部屋だった。それぞれの寝室も、その近くに配されている。エトヴィシュ公爵令嬢の身辺警護を命じられた彼らは、以来、この館の居候となっているのだ。
「ありがたい。いただきます」
イグナーツが立ち上がり、クリステラに笑いかけた。
しかし、クリステラはその顔をいぶかしげに見つめた。
「まあ、イグナーツさま! お顔色が優れませんわ。薬湯のほうが良かったかしら」
彼女は盆をテーブルに置いて、イグナーツに向き治る。
「え」と呟いて、イグナーツは思わず自分の顎に手をやった。
「顔色が悪い? ……おかしいな。この邸で毎日豪勢な食事をいただいているのに」
「休む時間はきちんと取っていらして? いつもわたくしのことを気に掛けてくださっているから、お疲れなのではないかしら。何も夜通し、部屋の外にお立ちにならなくても宜しいのよ」
「いや、命令ですから。それに、わたしは健康そのものですよ」
「イグナーツ卿は……」
クリステラを迎えるために立ち上がっていたベリスが、早々に座りながら冷やかすような目つきになる。
「せっかく結婚が決まった女《ひと》と一緒にいられないんで、血の気が薄くなってるんですよ」
「まあ! そんな方が?」
クリステラはキラキラと目を輝かせた。
「結婚間近だなんて、素敵ではありませんの。きっと胸のときめくような出会いがあったのでしょうね! ぜひとも、お話をうかがいたいわ。……あ、すこし待っていてくださる? わたくしの侍女たちもそのロマンチックな話を聞きたがるでしょうから、呼んで──」
「そ、そんな大袈裟なことではありませんから! どうかご容赦を」
イグナーツはすぐに出て行こうとしたクリステラを呼びとめた。
「まあ……。では、わたくしだけでも」
クリステラは少しだけ残念そうに顔を曇らせた。
が、すぐにまた目を輝かせる。両手まで組み合わせた。
「それで、どんな方ですの? どちらの家のお嬢さま?」
「い、いや。本当に、話すほどのことは何も」
イグナーツは顔をこわばらせ、短髪の頭を強く振った。
「彼女は根っからの秘密主義で。自分のことはあまり知られたくないようでして」
「えらくきれいな人ですよ。黒髪で、髪が長くて、目が神秘的で、唇が肉厚で……」
ベリスがまた面白がって口を挟んだ。イグナーツはそれを睨みつけた。
「こ、こら! 余計なことを言うんじゃない!」
ベリスとサムエルは、イグナーツがこれから結婚する予定の女性のことを知っていた。
その女性──セラエは、イグナーツが『仕事でしばらく留守にする』とだけ言い、何日も家に戻ってこないのを心配してやって来たのだ。
表向きは『仕事の見舞い』という形で、自分の作った料理を女らしく持参してきてはいたが、その顔はひと睨みで人を石にすると噂された伝説の魔女のようだった。ベリスは「よくこんな怖い女と結婚できるな」と肝が冷えたが、イグナーツ自身はそこまで心配してくれたことに感激していて、『こんなところまで手料理を持ってきてくれて、本当にありがたいよ。ちょうど食べたかったんだよな』と嬉しげだった。
「あなたがまだ話したくないのなら、無理に聞くのはよくないわね」
クリステラは椅子に腰掛けながら優しげに言った。
彼女は修道院を出たときよりいくらか髪が伸びていて、それを後ろに上げて、真珠の髪留めでとめていた。優美な首筋があらわになり、それほど特別なものではない、簡素な──といっても最上等の絹でできてはいるが──室内着を美しく見せている。
「わたしのことはともかく」
イグナーツは具合が悪そうに頬を掻いた。
「警備のことですが、やはり、もう少し手厚くしたほうがいいかもしれないと話し合っていたところです。今は五人でこの邸を警護していますが、賊はいつどこから侵入するか分かりませんし。それで、今後はどこへ行くにも最低一人は護衛をつけていただきたいのですが」
「邸の中でですの?」
クリステラは茶をカップに注ぎながら言った。
「ええ。そうです」
「まあ……。それでは、外出のときのようになるのね?」
「外出時も今までより一人増やし、三人でお守りする予定でおります」
「なんだか仰々しいわ」
クリステラは苦笑した。
けれど、その笑みもすぐに消えてしまう。濡れたような黒い瞳に憂いの影が生まれる。
「でも、そうね。城では、人死にも出たのですものね」
「侍女に厨房への立ち入りを許していたのは問題だったかもしれません。そのせいで、彼女は間違えて毒入りワインを飲んでしまったのですから」
イグナーツは浮かない顔で言った。
城で亡くなった侍女のそばには毒入りワインの瓶が転がっていたが、それは侍女自身が厨房から持ち出したものだとあとで判明した。おそらく、こっそり飲もうと思ってそうしたのだろう。まさか毒入りだとは思わなかったに違いない。
その後、城の貯蔵ワインは全て破棄された。
今、厨房そばの、地下のワイン貯蔵庫に置かれているのは新しいものばかりになっている。
「陛下の食卓に出されるものはすべて毒見がしてありますが……。ここでのあなたの食事も」
「ええ、心配はしていないわ。皆さんが本当によくやってくださるのだもの」
「いや、少しは心配していただいたほうがいいのですが。このようなときには『用心深くなりすぎる』ということはありませんよ。陛下も、あなたに万が一のことがあればどんなにお嘆きになるか……。我々も面目を失ってしまいます」
「そうね」
クリステラは言葉少なに頷いた。
それから、彼女はカップをそれぞれの騎士に差し出しながら、
「本当に大変ね。これから、これが日常になるのだとしたら」
と呟いた。
「ええ。早く片付くことを祈るばかりです」
イグナーツは顔を曇らせた。
クリステラは困ったように微笑んだ。彼女は自分のことを言ったのではなく、フィアのことを言ったのだ。だが、ここにいる騎士たちにそれを話すわけにはいかなかった。まだもう少しのあいだ、国王と結婚するのは自分だと世間に思わせておくほうがいいのだ──。