KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十四章 剣と剣 3

ルーゲンの酒場“白鹿亭”でフィアが働き出してから、一ヶ月がすぎた。
皿洗いの仕事にも慣れ、今では軽く鼻歌を歌いながらこなせる。ときたま熱い湯で火傷するのと、皿を割るほかはなにも問題はない。
厨房には店主の妻がいて、彼女が料理を作っている。
香辛料がピリリときいたその味つけは、薄味が当たり前だと思っていたフィアにとっては少し刺激の強すぎるもので、最初はちょっと苦手だった。修道院ではこんな辛いものは出なかったと思う。けれど、店でまかない料理を食べさせてもらえるのはありがたいことだ。家に戻ってから、くたくたの身で夕食を作らなくていいのだから。
店にはひっきりなしに客が来る。旅人から常連まで客層は幅広い。異国人も少なくない。
大きな話し声や、ときには歌声まで響いて深夜まで賑やかで、とにかく活気がある。近隣も飲食店が並んでいるから、通り全体が華やかだ。店主も店主の妻も、他の店に負けまいと精力的に働いている。そんな場所にいると、フィアも自然と元気が出てくる気がするのだった。
「──このお皿もお願い!」
「はーい」
若い娘がカウンターにドンと汚れた皿を積み上げる。
フィアは鼻歌を歌いながらそれを桶の熱湯につける。
若い娘はすぐに持ち場に戻る。「いらっしゃいませ!」と明るい声が響けば、鈴の音を鳴らしながら新しい客が来たのが、厨房からでもわかる。
フィアはまた皿洗いに集中する。
少し後ろでは、店主の妻が忙しそうに野菜を切っている。そこは彼女の戦場だ。
「フィア、スープ皿をおくれ! 三枚!」
「はい、おかみさん!」
フィアは別の桶の水で急いで手を洗い、洗って拭いてある木皿を持って行く。最初のうちはまごまごしてばかりで怒られていたが、一ヶ月働いてやっと呼吸が合うようになった。きびきび動かないと、彼女にはこっぴどく叱られてしまう。少し短気なのだ。
「ありがとね。……ああ、あとでそこのハーブも擦っておいて。暇なときでいいから」
「はい」
皿洗いといっても、他にもこまごまとした雑用がある。仕事を覚えるまでは目が回りそうなほど忙しかった。
店主と店主の妻は、ウルヴァキアの南にあるクナトリアという国の出身らしい。そこの北部では、商売のやり取りが多いので、ウルヴァキア語も話せる人が多いそうだ。
主人は、「故郷に戻るのは王都に行くより近い」という。
だとすると、一週間もかからずに行けるということだろうか? そんな国があるということさえ知らなかったフィアだが、それなら一度は行ってみてもいいと思ったりした。ルーデックが戻ってきたら……。
店にはもうひとり、マリヤという名の娘が働いている。先ほど皿を積み上げていった人だ。
もう三年も四年もいるという看板娘で、年はフィアより三つ上の二十だ。料理の皿をいくつもいっぺんに運べる器用な彼女は、よく働き、よく気がつき、目もぱっちりとした愛嬌のある美人で、常連客たちから愛されている。
フィアはときどき、皿を洗いながらマリヤの動きを見る。上下に間仕切りの壁があるので、ぱっと見ても上半身くらいしか見えないが、少し身をかがめたり、体をひねったりと工夫すれば、店内の様子はだいたい見通せる。
でも、いくらマリヤの様子を観察してみても、自分があんなに器用に立ちまわれる気がしない。きっとテーブルの飾り脚に足を引っかけて転ぶのが関の山だろう。そうしたら料理の皿がどこかへ飛んでいき、中身は誰かの頭にかかり、その客は激怒して立ち上がって、皿は落ちて割れ、平謝りしようと立ち上がった拍子にがつんとテーブルの天板に頭をぶつける……。
──悪夢だ!
そんなことを考えていると、フィアはつくづく(皿洗いでよかった)と思うのだった。
たしかに火傷したり、掃除のために厨房の床を這いずりまわって、足が汚れたりはするけれど。それで誰かに叱られるわけではない。身のおきどころがないほどこっぴどく叱られる以外のことなら、フィアはたいていのことに我慢できた。
働き始めた当初は店主の妻にひどく叱られるので、帰宅したら悲しくなり、テーブルに突っ伏してめそめそと泣いた。自分がひどく役立たずで、ぐずの能なしのように思えたのだ。それで(明日には辞めよう)と心に決めるのだが、翌日、店で「ありがとうね!」とか、「あんたのおかげで、皿洗いから解放されて助かるよ。立ちっぱなしの仕事ですっかり腰を悪くしちまったから……」などと優しく声を掛けられると、(やっぱりあと一日いよう。……ううん、三日は頑張れるかも!)と思い直す。
それに、家にひとりきりでいるのはやっぱり寂しい。叱られても、誰かと一緒にいるほうがずっとましだ。
修道院にはいつも誰かがいた。城だってそうだ。誰かしらの姿がある。けれど、このルーゲンでフィアは初めて、誰もいない家に戻るという経験をした。まっくらでしんと静まり返った家は、呼吸をするのを忘れているようで、心がひえびえとした。そのままじっとしていると暗闇に呑みこまれるような気さえして、我に返って灯りをつけるのだが、その手も震えた。
ルーデックはなぜ戻ってこないのだろうと、彼を恨みたくなった。しばらく戻れないと言っていたから、分かってはいたけれど……。
一週間、十日と過ぎるごとに、孤独はつのった。だから店にいる時間だけが、フィアにとっては唯一の安らぎだった。すぐ近くに人の気配を感じながら、客の賑やかな話し声や笑い声を聞いていると、心からほっとするのだ。
今ではだいぶ余裕ができて、早朝からぶらぶら街を散策したり、休日のミサに参加したりと、この街の生活を満喫できるようになった。そうしてみると、何を悩んでいたのかと思うくらい、街にはたくさんの人がいた。朝から市場が開き、馬や馬車が行き交い、子供たちが遊び、恋人たちが広場で語らい……。
いつしか、店を辞めようとは思わなくなっていた。
仕事を覚えるにつれ、店主の妻にも叱られなくなった。店主の妻はだんだんと陽気で朗らかになっていった。叱る必要がなくて気が楽になったのだろう。店主のほうはもとから穏やかな人で、叱られることはなかった。店主はなぜか、フィアが失敗ばかりしているころから「あいつはまだ街に戻ってこないのか?」などと、ルーデックのことまで気にして気遣ってくれた。もちろん、皿を二・三枚割ったからといってクビにしたりもしなかった!
フィアはすっかり白鹿亭に馴染んだ。
今では、一緒に働く人々が家族のようにさえ思えた。だからルーデックが戻ってこなくても寂しくない。どうせ彼のことだから、手紙すら「めんどくせえ」と思って書かないに違いない。
そう思って、ふと、皿を洗う手を止めた。
(何、してるんだろ。今ごろ……)
『国王陛下は北方へ行かれた』。
その噂は聞いている。まだ戻ってこないというのも知っている。
北方にどんな騒乱があるのか分からないが、戦争なんてしなきゃいいのにと思う。どうしてみんな、ちゃんと席について、話しあいで解決しないのだろう? 剣を振り回すのが好きなのだとしか思えない。
──そうだ、剣が悪いのだ! あんなものがあるから……。
フィアは世の中の真理を見つけたような気持ちがした。そのすごい発見を誰かに知らせたいと思ったが、我に返れば、目の前には汚れた皿が山のように積みあがっている。慌てて桶に手をつけてみれば、湯もぬるい。これでは肉の脂が落ちない。フィアは焦って手を洗い、ぐつぐつと湯が煮え立つ鍋のほうへ行った。そこは店主の妻が調理をしているところだ。
「あの……おかみさん、お湯ください!」
離れたところから声をかけると、「あいよ」と背中を向けたまま返事がある。
「おかみさん、鶏のハーブ焼き、にんにくと胡椒のスープ! それから、兎のシチューが二人前!」
フィアが湯を小さな鍋に移していると、カウンターにやってきたマリヤが威勢よく注文を入れる。店主の妻はそれにも機嫌よく答え、肉を網焼きする準備をはじめる。
マリヤは地下の貯蔵庫のほうへいったん足を向けかけたが、フィアが近くにいるのに気づいて戻ってきた。ちょぼちょぼと杓子で熱湯をすくっているフィアに正面から向きあい、カウンターに深く両手を乗せる。
「ねぇ、フィア」
マリヤは声をひそめ、身を乗り出した。
「うん、なに?」
フィアは手元に注意しながら答えた。よそ見をするとこぼすから危ないのだ。
「明日から夏市でしょ」
マリヤは言った。
「そしたらあなたも表に立たなきゃいけなくなるから、後で一通り教えてあげる」
「えっ?」
フィアは驚いて彼女を見た。
「夏市って? ……表に立つって、どういう意味?」
「どういう意味って、言葉どおりよ? あたしと一緒に、お客さんを席に案内したりとかー」
「皿洗いは?」
フィアは愕然として訊いた。
「誰かが皿を洗わないと……。皿が……」
「大丈夫よ。夏市のあいだは、だんなさんの知り合いの夫婦が厨房に入るから」
「えっ、そうなの?」
「この時期だけね。だってすっごく忙しくて、人手が足りなくなるのよ。主日だって休めないくらい。つまり、一ヶ月のあいだ休みなし。そういうわけだから、あなたも表に出るの。注文を取って、料理を運んで、お酒を出すの。わかったぁ?」
マリヤが念を押すような顔でフィアの顔をのぞきこむ。
フィアはとっさに「う、うん」と頷いたが、その顔は青ざめていた。
(わ、わたしが表に?)
さきほどの、料理を運ぶ最中にすっころぶという悪夢が目の前に蘇った。フィアは床に散乱する料理のなかに立ちつくし、茫然となる自分を想像していた。──実のところ、修道院では何度か体験したことだった。
「無理よ」
思わず言った。マリヤが呆れたような顔になる。
「え? 今、頷いたじゃない。うんって」
「頷いたけど! あ、あああ相槌を打っただけ! たぶんむり……無理だと思う」
「難しくないわよ。誰でもできるわ」
マリヤはカウンターの上に肘をつき、頬杖をした。その顔はちょっとしからめられている。
「何をそんなに心配してるの? 汚い皿洗いなんかより、表に出るほうがいいじゃない」
「そんなことない。皿洗いのほうがいい!」
フィアは急いで言った。
「マ、マリヤさんは記憶力がいいんだわ! だって大勢のお客さんが来ても、ぜんぜん注文を間違えないし。ハ……ハトとウサギだって、間違えたことないわよね? でも、わたしは間違えると思うの! 『ハトなみの頭』だって言われたこともあるし……とにかく、今のままでいいの! 表に出るのは、その人たちにやってもらって……」
顔を赤くしてもごもご言ったが、
「……いい?」
マリヤは身を起こし、年季の入った古い木のカウンターを手のひらでバンと叩いた。
「あなたは表に出させられるの! 何があったって!」
辛抱強い彼女もそろそろ限界にきていた。店主の妻が、何をぺちゃくちゃ喋っているのかとばかりに振り返って睨んだせいもある。
「あたしが教えてあげなかったら、あなたは明日から地獄を見ることになるわよ。それでもいいわけ? いいんだったら、あたしだってわざわざ面倒なことしないけど。早く帰りたいし」
そこまで言われて、フィアは「いやだ」とは言えなかった。
「わ、わかった……。掃除の前に行く……」
「わかればいいのよ。……あっ、おかみさん、ありがとうございますぅ!」
マリヤは、店主の妻が不機嫌そうにカウンターに置いた料理をひっつかみ、急いで表に出て行った。そのそばから、出来たての料理が次々に並べられる。魔法のようにすごいと思って眺めていたフィアは、しかし自分もぎろりと睨まれていることに気づき、慌てて鍋を持ち上げた。
「し、仕事に戻ります!」
「そうしな……。仲良しなのはけっこうだけど、お喋りはたいがいにするんだよ」
店主の妻は遠雷のような声で言った。


──八月になった。
フィアが店の表に立ちはじめて、もう一週間がすぎている。
ルーデックはまだ手紙をくれない。王都にいたときと違い、このような離れた場所にそれを送るのは大変なのかもしれないと思う。考えてもしかたがないので、それを忘れ、ただ無心になって仕事をした。
八月から開かれているルーゲンの夏市は、本当に大規模なものだった。街は異国の商人で溢れていた。頭にターバンを巻いた人たち、褐色の肌、黒い肌、それらの腕に光る金や銀の腕輪。国内の商人たちも大勢集まってきている。大きな荷馬車を、裏通りにずらりと停めている。表通りには数え切れないほどの市が並ぶ。朝市や定期市とはまったく違う、ものすごい賑わいだ。
香辛料、毛皮、宝石、絹や絨毯、馬──。ありとあらゆるものが売られている。
貴婦人が侍女を引き連れて買い物を楽しむ。騎士は従者たちと一緒に武具屋の展示品に見入っている。剣、鎧、兜に篭手。それとは別に、馬に乗った騎士たちも頻繁に行きかっている。彼らは見事な槍を手にしていた。聞けば、夏市の終わりの日には、領主主催の馬上槍試合があるのだという。名誉と賞金とを求め、国の内外から名のある騎士が集ってくるらしい。
といっても今年は、騎士の集まりはいまひとつだ、という噂も聞いた。酒場に来た武具職人たちが、ひどく残念そうに話しているのを聞いたのだ。『北方遠征が終わらないかぎり、今年は上物が売れない』。どうやら、ヴィクターが騎士を引き連れて遠征に行ってしまったせいらしい。フィアは興味のある話題に引きつけられたが、エールやワインがなみなみと入ったカップや料理の皿を手にしていては、それほど立ち止まっているわけにもいかなかった。
目が回るほど忙しかった──本当にそうなってしまいそうなほど!
夕方から夜まで、店は常に満席だった。店主は閉店時間を延ばした。毎年そうするらしかった。そのせいで深夜まで客足がたえず、いつもなら家に戻って就寝できているような時間まで、店にいなければならなかった。
皿洗いと違い、店の表に立てば頭を使うことばかりだった。注文をとって料理を運ぶだけではない。酒は自分で地下貯蔵庫に取りにいかなければならないし、その帰りに忘れずに厨房に寄り、店主の妻がカウンターに並べた料理を取って、間違いなく、それを注文した客のもとに運ばなくてはならない。酒は酒で別の客のところに運びつつ……。案の定、しょっちゅう注文をとり違えたり、運び間違えたりして、客に呆れられたり、注意されたりした。こんな大変なことを、マリヤは毎日よくこなしていると感心してしまう。
困ったことは他にもある。
フィアはルーゲンに来てまだひと月で、街のことに詳しいわけではない。まして、夏市などはじめての体験だ。それなのに、客たちはフィアを街の住人だと思いこみ、『毛皮を買うのに、どの店が信頼できる?』とか、『見世物をやっているのはどのへんだね?』とかを訊いてきたりする。そのたびにフィアはまごまごして、『この街に来たばかりで……』と言わねばならなかった。そうすると客たちは『ああ……』と言いつつも、ひどく残念そうな顔をする。
夏市がはじまってまだ一週間で、残りあと三週間もある。
そのころには自分は干からびているのではないだろうかとフィアは密かに思っている。楽しそうだから、休みが取れたら行きたいと思っていたのに……。とてもそんな余裕がない。
この日も、閉店後、ほとんど死んだようになってテーブルに突っ伏しているマリヤを横目に見ながら、フィアはせっせと床を拭きまわっていた。掃除はフィアの担当だ。皿洗いをしていたときには厨房の掃除をしていたが、今は臨時に雇われた別の人がしてくれるので、店内の掃除をやっているというわけだ。


「……ねえ。あなたって、もしかしてきれい好き?」
床を這いずりまわって掃除するフィアを眺めて、マリヤがぼそりと言った。
フィアは「えっ?」と振り向いた。しかし、マリヤの顔は見えない。テーブルの下の彼女の体しか。
「どうかな? ……掃除は、好きだけど」
「ふうん。皿洗いも、たいして苦じゃなさそうだったものねー」
「皿洗いも好き。だって、汚れてるのがきれいになるのって、気持ちがいいもの」
「まじめねえー……」
マリヤがため息をつく。
フィアは(まじめ? わたしが?)と、びっくりした。修道院にいたときは、「不まじめ」と言われた記憶しかない。不まじめで、落ちこぼれで……。自分より仕事ができない修道女などひとりもいなかったし、みんな勉強もよくできていた。
「そ、そう?」
フィアは嬉しさのあまり照れながら、床に落ちた骨をさっと拾った。ソースでベトベトのパンのかけらや、野菜のきれっぱしなど、落ちているものは数知れない。だから、雑巾はすぐに汚くなってしまう。それを、水を入れた桶で洗うのだが、その水ももう灰色に濁って汚れていた。
そろそろ水を替えないと……でも、もうすぐ終わるし。と葛藤していると、
「あたし、そのうち辞めるかも」
マリヤが突然ぼそりと言う。
フィアは驚きのあまり、身を起こそうとした。しかし、テーブルの分厚い天板に阻まれた。
がつんと音がする。
「……ったぁー」
したたかに頭をぶつけて涙目になったフィアを、「何してるの……」とマリヤがのぞきこむ。
「頭、ぶつけた……」
「ちょっとぉ。大丈夫?」
「だって、辞めたいなんて言うから」
「今つきあってる人と結婚したら、辞めようかなーって。……ほら、やっぱり人聞きが悪いじゃない? 酒場で働いてるなんてさ。彼、市庁舎で働いてる人で、けっこう評判とか気にするほうだから……。この仕事は好きなんだけどねぇ」
マリヤはフィアが拭いたばかりの床のうえに身をかがめ、膝を抱えてため息をついた。
「あなたのだんなさんって、変わってるわよねー。酒場で働いてもいいって言うなんて」
真正面から顔をのぞきこんで言われ、フィアは目をしばたいた。
「う、うん……。わ、わたし、世間知らずだから……。勉強しろって……」
「あはは、言えてる。あなたって、なんかちょっとトロくさいわよね」
マリヤは笑ってから、フィアの頭を撫でた。
「たんこぶできてない? 大丈夫ぅ?」
「たぶん、平気。もとからそんなによくないし……」
「自分でそんなこと言わないの! ほんとに悪くなっちゃうわよ」
マリヤに注意され、フィアは思わず唇をへの字にした。
「わ、わかった。言わないようにする」
「そうそう。自分で『頭いい』って思ってたら、たぶんよくなるわよ」
マリヤはにっこり笑う。
その顔を見つめて、フィアは残念に思った。せっかく友達になれたと思ったのに、もうすぐいなくなってしまうかもしれないなんて。俗世に出て、最初に出来た友達なのに……。
フィアはマリヤに何か言おうと口を開いた。そのとき鈴が鳴り、店の扉が半開きになった。
「……マリヤ?」
「あっ」
マリヤは弾かれたように立ち上がり、フィアを振り返って「帰るわ!」と言った。
「迎えが来たから」
「あ、うん……き、気をつけて! おつかれさま」
フィアも慌てて言った。
マリヤは嬉しそうな顔で店を出ていった。彼女が待っていたのはこれだったのだ。
(迎えに来てくれる人かぁ。いいな)
フィアはすこし考えながら立ち上がり、桶を抱えて裏口へ向かった。
厨房の横を通りすぎると、仕事を終えた店主の妻が、知りあいだという夫婦と雑談しているのが聞こえた。何を話しているのかよく聞こえないが、楽しげな笑い声がその場に響く。地下貯蔵庫への扉が半開きになっているところを見ると、店主は地下にいるのだろう。酒の分量でもチェックしているのかもしれない。
そんなことを思いながら裏口から裏通りへ出る。
外は満天の星空だ。
汚れた水を残飯ごと排水溝に流し、空になった桶を持ってぶらぶらと歩いていく。
どこかから、人々の笑い声が聞こえてくる。夏市が開かれているせいか、いつもならしんと静まり返っているはずの時間に、そうして人の声が聞こえ、人の気配がする。この裏通りにも、ぽつぽつと人影が見える。家々から漏れてくる灯りを頼りに、フィアは井戸のある場所へ行った。このあたりの飲食店は、みなその井戸から水を汲みあげて使っている。
井戸のある場所は、ちょっとした広場のようになっている。それほど大きなものではない。小さな、円形の広場だ。
水を汲みあげ、桶を洗う。
それから、きれいな水を入れて、それで軽く顔を洗った。
今なら、以前デュリが井戸で水浴びをしていた気分が分かる、とフィアは思った。そうしたいくらい、くたくただし、南部の夏の夜はじんわりと汗ばむ気温だ。
小さくあくびをして、フィアは桶の水を流した。
小走りに店に戻る。
短い時間のあいだに、厨房の灯りが消えていた。店の表には新しい蝋燭が灯っていて、地下室から戻ったらしい店主が椅子に座って金を数えているのが見える。
「終わりました! 帰ります」
フィアは店主に声をかけた。
店主はフィアに気づいていて、「ああ、ごくろうさん」と言った。それからまた金を数える作業に戻った。
普段なら賃金は日払いだが、夏市のあいだは忙しいので、月末にまとめて支払われることになっている。マリヤの話だと少し大目に出るということで、それは楽しみだった。ルーデックがいないあいだに、自分がどんなに金を貯めたかを彼に見せてやるのだ。
フィアはぺこりとお辞儀をし、表の扉を開いて出て行った。
また、満天の星。星は青や黄色に光って、小さな宝石のようにまばたきをしている。
街は刻々と静かになってゆく。
夜の空気はどこかけだるい。その中を、フィアは足早に突っ切って帰宅した。