「ただいま」
誰もいない、まっくらな家に声をかける。
扉を閉め、木の板を倒して閂をかけた。それから、暗いままの空間を横切り、狭い階段をのぼる。
二階の寝室に入り、自分のベッドのそばへ行った。小さな窓の鎧戸を開き、外の月明かりを入れる。ほの明るくなった室内で衣服を脱いだ。それを長櫃の中に入れる。洗濯は休みの日にまとめてだ。夏市がはじまってからというもの、毎日遅い帰宅になってしまい、家事をこなす余裕がない。一晩眠って、朝になってから……。
下着姿で小さくあくびをし、ベッドに片膝を乗せたときだった。
後ろから人の気配が近づいてきたような気がして、振り向こうとした瞬間、もう抱きすくめられていた。
フィアは思わず身を固くした。とっさに、泥棒──と思ったのだ。だが、違っていた。後ろから回された腕は害意を抱いたものではなく、むしろ、その反対だった。鼻先が懐かしそうに髪に埋められ、耳元でため息のような吐息の音がした。
フィアはふっと体の力を抜いた。相手が誰かがわかったからだ。
同時に、その瞳をくもらせる。
過去にも同じような経験をしたことを思いだしたのだ。
それは王都の大教会でだった。祈りを捧げ、帰ろうとしたとき、その人はうしろから突然抱きしめたのだ。そのときの腕の力の強さを、まだ自分は覚えているのだとフィアは思った。なぜなら、それが今とはまったく違ったものであったことを、すぐに思いだせたのだから。
(──こんなことさえ、忘れられないんだ)
フィアは自分がいやになった。そのせいで涙まで出てくる。
鼻がつんと赤くなるような感じがした。フィアはうつむいた。そして、手を顔にやって、目元を拭った。
「……何も言わないんだな」
少しばつの悪そうな響きが、首の後ろでした。
「せっかく帰ってきたってのに、『おかえり』の一言もなしかよ」
身を離したその人は、フィアが振り向くのを待っていたらしかった。
けれど、フィアは振り向かなかった。少しうつむいたまま、黙っていた。
「なあ。何黙ってんだ? フィア?」
苛立ったようなルーデックの声がする。
「……びっくりさせたのは悪かったよ。その……帰ったとき、おまえ、まだ戻ってなかったからさ。驚かしてやろうと思って、隠れて待ってたんだ。そのうちに、その……寝ちまっててよ。おまえの足音がして目がさめた。そしたら、部屋に入ってくるなり、いきなり脱ぎだすんだもんな! こっちのほうが慌てちまって……」
ルーデックの弁解を聞きながら、フィアはもう一度こっそり涙を拭いた。
それから、ようやく振り向く。窓を背にして、彼に顔を見られないように。
「おかえりなさい……」
やっとのことで言うと、ルーデックは月明かりにその顔を照らさせながら、「お、おう……」と頷いた。けれど、その顔は気まずそうに歪められている。
「その……なんだ、ええと……。ね、寝るなら寝ろよ。そんな格好になったんだし」
彼は慌てたような口調で言い、顔をそむけて言った。
フィアはベッドから離れ、長櫃を開けに行った。古い革張りのその箱から、さきほど脱いだばかりの服を取り出し、身をかがめてすっぽりと着る。たぶん髪はぼさぼさになってしまったろうが、暗いから、気にするほどでもないだろう……。
「ううん、寝ないわ。せっかくあなたが帰ってきたんだから……。お茶でも入れる。先におりてるから」
そう言って、フィアは部屋を出て行った。
そのあとを、ルーデックが慌てて追いかける。
「お、おい! いいよ、もう……時間も遅いし」
「だって、眠気がさめちゃったもの。あなたがわたしをびっくりさせたから」
「……お、怒ってんのか? おまえ?」
「もし泥棒だったら、わたし、あなたを殴ってたと思う。棒で」
「泥棒じゃねえよ!」
「わかってる。だから、『もし』って言ったじゃない」
フィアは少しばかりつっけんどんに言った。べつに怒っているわけではなく、びっくりしすぎて動揺したのだ。そのせいで思いださなくてもいいことまで思いだしてしまって、気持ちが落ち着かないだけだ。
「ほんとに、悪かったよ……。だけど、俺も夜通し馬を走らせてきて、クタクタになったんだ。許してくれよ」
「怒ってないったら」
「怒ってるだろ!」
「………」
「ほらみろ、怒ってる! だから黙ってんだろ!」
「違うったら! ……いいから、そこに座って!」
フィアは今度こそ怒って振り向き、ルーデックに向かって指をつきつけた。その指をすぐにテーブルのほうに向ける。ルーデックは気圧されたようにそこに座った。まるで剣をつきつけられて脅されでもしたように。
「お湯を沸かすわ。時間がかかるけど、いいでしょ?」
フィアはかまどの前に身をかがめて言った。
「いいけどよ……」
ルーデックが後ろで言う。彼はふてくされた顔になり、頬杖をついていた。
「おまえさ、なんでこんなに帰ってくるのが遅いの? ほんとに仕事してたのか?」
「そうよ。ほかに何があるの?」
フィアは火打石を鳴らした。
「どっか出かけてたのかと思って」
ルーデックがぼそりと言う。
「どこに? 市場も教会も、もう閉まってるのに」
「いや、教会に行ったとは思ってねえけどな……」
「あのね、夏市っていうのがあるの」
「夏市?」
ルーデックは怪訝そうな顔をした。フィアは火を起こしながら頷いた。
「うん。ルーゲンは、八月になると毎年大きな市が立つんだって。それで、お客さんが多くて、店を夜遅くまで開けてるの」
「あー……。そういや、そうだったな。俺は行ったことねえけど、兄貴たちから聞いたことはある。思いだした」
彼はようやく納得したようだ。その声から疑惑の色がなくなる。
「そうか、そんな季節か……。道理で人が多いと思った」
「お休みがもらえたら夏市に行くんだけど、なかなか貰えなくて……」
「主日は? 明日、日曜だろ?」
「明日も仕事。午前中から行くの」
「はあ?」
ルーデックは露骨に顔をしかめた。
「日曜も仕事? ……ふざけんなよ、あの店主。こんな夜遅くまで働かせたあげくに、休みもないってどういう了見だ。明日、俺が怒鳴り込んでやる!」
「や、やめてよ!」
フィアはルーデックの前に蝋燭を置きながら、慌てて言った。
「そんなことしないで! 働けなくなっちゃうじゃない。せっかく仕事を覚えたのに」
「だったらもう働かなくていい。……ああ、俺、王都から金をおろして来たんだ。当面の生活費くらいにはなるだろ」
ルーデックは二階を指さした。金はそこにあるという意味だろう。
フィアはかまどの前に立ち、無言でいた。
ルーデックの気持ちは嬉しいが、仕事をやめてしまったら、これからの生活に困るような気がする。それに何より、楽しいのだ。店主はよい人だし、店主の妻も働き者で、マリヤは……もうすぐ辞めてしまうのかもしれないが、彼女と友達になれたことも嬉しかった。
「やめたくないの。自分の居場所を見つけた気がするから、頑張りたい」
「ふうん……」
ルーデックは気に入らなさそうにうなった。
「それより、今度のお休みはどれくらい?」
フィアは話題を変えた。
「ひと月だ」
「そんなに?」
目を丸くして振り返る。ルーデックは肩をすくめた。
「ああ。俺なんか、いてもいなくてもどっちでもいいんだよ」
そう言ったが、すぐに言い直す。
「いやまあ、いろいろと特別扱いもしてもらってるしな……」
「三日くらいで戻るのかと思った。でも、それなら……夏市、一緒に行けるかもしれない」
「そうだな。俺も行ったことねえから、行ってみてもいいぜ。買うもん、ねえと思うけど」
「そんなことないわ。なんでもあるって、人が言ってたもの」
フィアは温かい湯でハーブの茶を入れ、ルーデックの前にカップを置く。
「それに、一緒に歩くだけで楽しいと思うの」
椅子を引いて座ると、ルーデックがじっとフィアの顔を見る。
彼はカップを横に押しのけ、手を伸ばした。
フィアが驚いているあいだに、彼の手がフィアの手を掴んでいた。
「……なあ」
「な、なに?」
「俺、王都にいるあいだ、おまえのことばっかり考えてた。おまえに会いたいって思ってた」
ルーデックは真剣な顔で言う。その手にぐっと力が入った。
「おまえは? 気持ちは変わってないか?」
フィアは押されたように黙っていた。
彼の顔を見つめていると、嘘はつけないと思う。
気持ちは変わっていないけれど、ときどき違う人のことを考えたり、思いだしてしまうのだ──と、正直に言うべきだろうか? そう思ったが、とても言えない、と思い直した。言う必要もないのかもしれない。それは自分の心の中だけのことで、時間が経てば風化する記憶だ。だから、今わざわざそれをルーデックに言って、彼を落胆させる必要はない……。
けれど、自信がなかった。
──本当に忘れられるのだろうか?
もし忘れられずに、このまま一年、二年と過ぎていったら、それこそルーデックを傷つけることになる。
暗闇の中、突然自分を抱きしめたのがルーデックではなく──別の人かもしれないと思ったなんて。
それは、裏切りではないのだろうか。
「わたし……」
フィアは小さく呟いた。カップから立ちのぼる湯気が、その息で揺れる。
もしも、ルーデックと一生一緒にいる自信がないなら、それを言うのは今だという気もする。
「あなたと……一緒にいたいと思ってる。でも、ときどき……」
「なあ、キスしていいか」
ルーデックが強引に話を遮った。
フィアは思わず目を見開く。
「えっ?」
「キスしていいか?」
ルーデックが繰り返した。
彼の顔は、話の続きなど聞きたくない、と言っているように思えた。自分が何を言おうとしたか、彼は察したのかもしれない。フィアは黙っていた。彼の気持ちは分かるような気がするけれど、その問いかけに頷くのは、今は難しい気がした。
「俺たち、婚約してるんだよな。それなのに、キスもしてないなんておかしいだろ」
彼はフィアの手を掴んだまま立ち上がった。
そのまま引っ張られ、フィアも立ち上がらざるを得なくなる。
小さなテーブルがかたわらで揺れた。彼は強い力でフィアを抱き寄せた。
「いいよな?」
有無を言わさぬ瞳で見つめられ、フィアは息をのんだ。
突っぱねるべきだろうか? でも、それはルーデックを拒絶するのと同じことだ。
けれど、だからって、こんな急でなくてもいいのに……。
両極端の気持ちで揺れているあいだに、ルーデックが顔を近づけてくる。
フィアは葛藤し続けた。ここで彼を拒めば、もうこの関係は終わりかもしれないという気持ちと、それで終わるようなものなら、最初からだめだったのだ、いつでも終わってしまえばいいという気持ちと。
ルーデックと別れたいわけではないのだ。でも、自分の気持ちを無視するようなやりかたはいやだった。「いやだ」と言えないことで、彼を嫌いになるのも、もっといやだった。ほかに良い機会もあるはずだ。お互いに、そうしてもいいと心から思うような。そういうときに──。
「……だめ!」
フィアは寸前で彼の胸を押した。強く。
突き飛ばすほどに。
ルーデックが虚を突かれたように目をしばたく。
「い、今はだめ。気持ちの準備ができてないから!」
フィアは必死で言った。
「おまえはできてなくても、俺はできてる」
彼は不機嫌そうな顔になった。
「わたしはできてないの!」
フィアは後ずさった。
「何も……帰ってきたばかりで、キ……そ、そんなことしなくてもいいじゃない! お、お茶だって飲んでないし……お休みはまだひと月もあるんだから!」
ルーデックは黙っていた。
それから、彼は身を翻した。すたすたと階段をのぼっていく。
「ルーデック!」
「寝る!」
彼は捨て台詞のように言った。
フィアは途方に暮れたような顔でその場に立ちつくした。
どちらも手をつけないままのお茶だけが、ほんのりと良い香りを漂わせている。
──ルーデックは、それから三日ものあいだ、一言も口をきいてくれなかった。