KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十四章 剣と剣 5

国王が帰都したというのに、王都カルツアネスは沈痛な空気に包まれていた。
宿敵ワシュトリア帝国と同盟を結ぶという、過去数百年間誰もできなかったことを成し遂げたというのに、お祭り騒ぎにならなかったのは、それ以上の凶報があったためだ。
──国王の急病である。
帰都の途中に立ち寄ったボリスクの街で、疲労が重なり、ついに倒れたのだ。医師は『熱が高く危険であり、安静にすべきだ』と助言したが、国王は聞き入れなかった。その体で馬に乗り、反対を振り切って王都まで戻ったという。
そのせいで、再び王都で昏倒した。
今度は数日、意識が戻らなかった。
うわごとを言いながら寝ついてしまった国王に、騎士たちは動揺した。騎士だけでなく、貴族たちも慌てた。なぜなら現国王には跡継ぎがいないからだ。国王に万一のことがあり、王朝が変わりでもすれば、自分たちの特権は土台から崩れてしまう……。爵位を与えてくれ、それを保証してくれるのはこの国の威光であり、それはすなわち、シヴェリウス王朝の威光にほかならなかった。
すぐさま、重臣つどって国王の結婚について話しあわれた。そして、たとえ王都の貴族だけしか参列できないとしても、すぐにでも挙式するべきだと結論が出た。しかしその目論見も同日のうちに崩れる。白羽の矢を立てられたはずの公爵令嬢クリステラ、彼女までが熱を出して寝込んでしまったのだ。
国王と王妃候補が揃って寝込むという異常事態に城内は浮き足立った。
非難の声はまたも公爵家に向いた。表立って国王を非難するのが憚られたせいだ。
『こんなときに倒れるとは頼りない。たとえ熱が出たとしても、この国の未来のために教会へ向かうべきだ。儀式はすぐに終わり、そのあとは寝室で存分に寝込めばよい』。そう声高に言う者さえいた。
しかしオイゲーン=エトヴィシュ公爵は首を縦に振らなかった。
それどころか、公爵は『この結婚を白紙にしたい』と言いだしさえした。
それは驚天動地の発言だった。
誰もが自分の家の勢力を増すため、権力の中枢であり、力の源泉である王家と繋がりたがっている。前国王時代には数々の非難を受けながらも、宮廷を退いてまで耐え、ついにその幸運を掴んだ公爵を羨まない貴族はいなかった。公爵自身、絶世の美貌を持って生まれた娘を王妃にすることは悲願だった。それがなぜ──。
その公爵の決断が、またあらぬ憶測を生んだ。
つまり、国王の病は「それほどに悪いのだ」という憶測だ。
実際、その日以来、国王は人前に姿を現さなくなった。寝室には侍医と、わずかな側近しか出入りしない。それでも漏れ聞こえる範囲では、国王は熱に浮かされ、うわ言を言い続けているという。その噂はまたたくまに城内に広がり、王都へ広がっていった。
『国王が倒れた。危篤らしい』。
虎視眈々と王位を狙う貴族たち以外、誰もがその顔を曇らせた。
騎士たちは恩給と、封地として下賜された土地の存続のために。位の低い貴族たちは、騒乱に巻き込まれて殺されないために。役人は職の安定のために。商人は安全な商売のために。聖職者は現王朝が保証した数々のお墨つきや特権を守るために。
そして民は、日々の食料と家を失うのを恐れて顔を曇らせた。ひとたび争いが起きれば、巻き添えになるのはいつも末端の民だからだ。
その不安を見透かしたように、地方領主たちが動き出す。いずれも伯爵位を持つ者たちだ。
もしこのままシヴェリウス王家が断絶したとして、次に王家に相応しい家はどこか──?
彼らは王都の、とある伯爵邸の一室で秘密裏の会合を持った。話しあわれたのは、どの家が次に王位を手に入れるとしても、自分たちの富と権力は現状のまま維持されるということだった。それさえ確認できれば怖いものはない。
俗に“三公”と呼ばれるエトヴィシュ公爵家、ラディウス公爵家、コシュト公爵家の三家は、本来なら王家を守ることと引き換えにその地位を約束されている。しかし、エトヴィシュ公爵は娘の結婚をとりやめさせ、ラディウス公爵は病身で故郷を離れられない。残るコシュト公爵も、あいかわらず中央と距離を取っており、王家を積極的に支えようという意志に欠けている。
三公が動かないのは、国王の病状が絶望的だからだ。
これはもう駄目だろうと、あちらこちらで囁きがかわされる。
王都の空は人々の不安で灰色に濁った。そのためか雨が降り続き、人々はますます沈うつな気分になったのだった。


──八月もあと一週を残すだけになった。
ルーデックは月末にはルーゲンを発つという。彼と過ごせるのもあと少しだ。
彼とつまらないことで喧嘩して以来、ふたりの関係はぎくしゃくしていた。
正直なところ、キスをする、しないでこんなに大ごとになるなんて思っていなかった。
それから三日も口をきいてくれなかったときには心底参ってしまった。なにしろ食事するときも無言、仕事に行くと言っても知らん顔、夜帰宅すると家はまっくらなのだ。ある日などはベッドにおらず、朝まで帰ってこなかった。
そんなことが続いて、仕事でクタクタになっていたのもあり、ある日突然わけがわからなくなった。話しかけても、いつものように返事がなかったのがきっかけだったかもしれない。泣きながら「もう出て行く」と告げ、何も持たずに家を飛び出そうとしたら、そのときになってはじめて彼が「おい、待てよ!」と怒鳴った。それが三日ぶりに聞いた彼の声だった……。
そうして会話は戻ってきたが、一度こじれた関係を戻すのは簡単ではなかった。
フィアもさすがに少し腹が立っていたし、ルーデックはルーデックで相変わらず怒りが抜けていなかった。どちらも意地を張り、歩み寄ろうとはしなかった。そのせいでまた些細な喧嘩を繰り返した。『パンがないのはおまえが買い忘れたせいだ』──『昨日のが半分残ってたはずなのに、あなたが夜中に食べちゃったせいよ!』。そんな言い争いをしているうちに、みじめなほど悲しくなった。なぜこんなことでいがみあわなくてはいけないのだろう?
どこかで彼と仲直りをしたいと思った。けれど、うまく言い出せなかった。フィアは誰かとこれほど激しく喧嘩をした経験がなかった。修道院では、大声を出しただけで叱られたものだ。
悶々としていたが、月の終わりに店主が「休みをくれる」という。
夏市は年に一度の稼ぎどきではあるが、月の終わりの日に領主主催の催し物がある。噂の馬上槍試合だ。「それを見ない人はいない」といっても過言ではないらしく、おかげで店のほうはガラガラに空くのだという。
それを聞いて、フィアはなんとしてもその休日をルーデックと過ごしたいと考えた。
その催し物は、例によって剣や槍をブンブン振り回す血なまぐさいものだろうから、あまり気が進まないけれど……。ルーデックは騎士だから、興味を持つかもしれない。もし彼が見に行きたいと望むなら一緒に行こう。……いや、きっと行きたがるだろう。騎士を辞めてもいいなんて言ってはいたが、ルーデックは自分の剣を大事にしている。
そしてゆっくり街を歩いて、人に揉まれながら珍しいものを見たり、屋台のものを食べたりするうちに、前のような気楽な関係に戻れるかもしれない……。
考えてみれば不思議だった。約束を交わす前のふたりは、もっと互いを信頼しあっていたような気がする。なのに結婚の二文字が出ただけで、関係はひどく窮屈なものになってしまった。
いったい何がそうさせるのか、フィアにはわからなかった。
自分は変わっていないつもりだが、ルーデックは変わった。彼は苛々するようになった。
──いや、自分もやっぱり変わってしまったのだろうか? 彼に優しくなくなってしまったのだろうか? 以前より冷たくしたつもりはないけれど……。キスを拒んだ以外は。あれだって、帰ってきて三日後とか、一週間後とかなら、あんなにひどく拒まなかったのに。


「姉ちゃん、注文いいかい!」
ほとんど満席になった店内で、席について間もない客が手を挙げて呼ぶ。
フィアは「はい!」と答え、人のあいだをすり抜けてそのテーブルへ行った。マリヤはマリヤで、別の席の客に料理を運んでいるところだ。
「肉が食いたいんだが、何かいいのはあるかい?」
旅人のような格好をした、男三人の客だった。暑苦しそうにマントの裾をはためかせて扇ぎながら、そんなことを訊く。
「野兎のシチューかワイン煮込み、ウズラのパイ、塩漬け豚の香草焼きがあります」
フィアはつっかえずに答えた。店の表に立つようになった最初のころは、これだけ言うのもしどろもどろだったが、さすがに慣れた。メニューは仕入れの状況によって変わるものの、数は多くないのでなんとか覚えられる。
「じゃあ、ウズラのパイと、塩漬け豚。それと、上等の酒を三人分頼む」
「はい」
頷いて引き返そうとしたときだった。
「──陛下の病はそんなに重いのか?」
近くの席から、そんな一言が聞こえた。
フィアは思わず振り向いた。そこにいたのは、商人のような格好をした男ふたりだった。
がやがやと騒がしい店内だというのに、彼らの話し声が耳に突き刺さってくる。
「そうらしい。このひと月、まったく起き上がれないそうだ。侍医もお手上げだとか」
「いやはや……。遠征は上首尾に終わったと聞いてたし、そんなことになってるとはなぁ」
「ここだけの話、毒を盛られたって噂も流れてるらしい。……まあ、ありえんことじゃない。去年のお触れで通行税の上限を制限したせいで、領主たちから恨みは買ってるはずだからな」
「すると、また税が上がるのか。これじゃ領主どもに貢ぐために商売してるようなもんだぜ!」
「ああ、まったくだ……。俺たち商売人から見りゃあ、ありゃ申し分のないお方だったのにな」
そんなことを話している商人たちが、ふいに視線に気づいて振り向いた。
フィアは彼らと目があってしまい、ぐっと息を呑んだ。慌てて身を翻す。
「……なんだ?」
「なんだろうな? おまえの顔が珍しかったんじゃねえか?」
怪訝そうな会話を背中に、急いでその場から離れた。
(……病気? ヴィクターさんが?)
けれど、頭はそのことでいっぱいだった。
厨房まで行っても、動揺した心は静まらない。
(嘘よ。怪我はしたって、病気なんかしそうにないわ。何かのまちがいよ……)
汚れた皿が積みあがっているカウンターに手を乗せ、忙しそうに立ち働いている店主の妻に注文を告げようとして、フィアは何を注文されたかすっかり忘れ去っている自分に気づいた。息苦しがっている鯉のように口をぱくぱくしていると、店主の妻が振り向き、怪訝な顔をする。
「ん? どうしたんだい、あんた?」
「あ、い、いえ……ち、注文を」
「ああ。なんだい、早く言いな」
急かす店主の妻に、フィアは青ざめながらなんとか記憶をひっくり返し、
「野兎……じゃなくて、ウズラ、のパイ……パイと、ええ……あっ、しっ、塩漬け豚を!」
と言った。
店主の妻は顔をしかめ、「もうちょっと要領よく言えないのかい……」と苦言を呈した。