国王が危篤だという噂を聞いて以来、フィアは落ち着かない日々を過ごしていた。
噂はいろいろだった。遠征の疲れが出ただけだと楽観的にいう人もいれば、一服盛られて、もう駄目だろうと悲観的に首を振る人もいた。何が真実なのか、ルーゲンにいるフィアには分からない。この街はあまりにも王都から離れすぎている……。
王都を出たことを今ほど悔やんだことはなかった。
かといって、今さら戻れないことも承知していた。
(わたしはもう、“関係ない”人間なのよ)
できるだけ冷静になろうとしながら、フィアは自分に言い聞かせた。
けれど、そう思うはしから、心はそれに反発した。
──関係ない?
──たしかに、結婚のことはそうだけれど。
だからといって、それで彼との関わりが何もかもなくなってしまうというのは変だ。だって彼の存在はまだ自分の中にあるし、その記憶も、思い出というほど古びてはいない。
(でも、どうしたらいいの?)
フィアは葛藤する。
(わたしがお城へ行って、それで……どうなるの? 会えるかどうかも分からないのに。……ううん、レヴィンさんはきっとわたしを追い返すわ。それはそうよね、『二度と会わない』って約束して、あんなにお金も貰ったんだもの……)
そのことを考えれば、自分はやはり王都へは行けない、ここへいるのがいいのだ、と思う。
けれど、またしばらくすると(でも、万一のことがあったら)と不安に思い出す。
考えたくないことだ。あのヴィクターが死ぬなんて!
でも、彼だって不死身ではない。前にシグワスとの戦いで大怪我をして、死にかけたこともある。あのときのことを思い出すと、フィアは今でも胸が苦しくなる。あまりにも耐え難くて、自分の命をすり減らしてもかまわないから、彼を助けてくださいと、必死で神に祈ったことを思い出す。
彼を失うのが──とても、耐え難いように思われて。
(このまま王都に行かなくて、本当に後悔しないの?)
改めて自分に問いかければ、後悔しない、と言い切れる自信はない。
これは彼を愛しているとか、そういうことではないとフィアは思った。もしロゼッタやノイエや、シスター・カレンが危篤状態に陥ったと知らされたら、自分は同じように神に祈るし、それでもなお、居てもたってもいられない気持ちになるだろう。つまりその“家族のように大切な人たち”の一人にヴィクターも数えられている、というだけのことだ。
ルーデックを裏切るわけではない。
そんな気持ちはひとつもないのだ。
だったら……そうだ。彼にちゃんと説明をして、必ずこの街に帰ってくると約束すれば、王都へ行けるかもしれない。なんだったら彼の馬に乗せてもらってもいい。二人で行くのなら、ルーデックも遠出を許してくれるのではないだろうか?
フィアはそう思ったが、最後のところでは、やはり躊躇いが残った。
もし病床のヴィクターのそばへ行き、瀕死の彼の手を握りでもしたら──
そのとき、自分の心は、不用意に彼に引きずられてしまうかもしれない。
そうはなりたくない。誰にとっても、それはいいことではない。
ヴィクターだって、クリステラとの結婚を前に自分に会いたいと思わないだろう。
行かないほうがいい。会いたくても、その気持ちは押し殺してしまうべきなのだ。
──フィアは眠れぬほどに悩んだが、結局、どこへも行くことはなかった。
──一方、ルーデックもフィアの異変に気づいていた。
朝食が喉を通らないようだし、夜も眠れないのか、明け方ちかくになってからもぞもぞとベッドを抜け出す……という日が続いている。そんなとき、彼女は足音を忍ばせて階段を下りていく。寝ている者を起こすまいとしてのことだろう。しかし、ルーデックはたいてい起きていた。彼もまた、寝苦しい夜を幾日も過ごしていた。
彼の耳にも国王危篤の報は届いている。
休暇中の新人騎士にわざわざ知らせに来てくれるような、そんな親切な同僚はいないのだが、この街にいれば嫌でも噂が耳に入る。誰も彼もその話をしていると言ってもいいほどだ。
ならば、フィアは王都へ行きたいだろう。
噂を聞いて、まず思ったのはそのことだ。
しかし、実際にそれをフィアに言うとなると、なかなか難しい。彼女はこのところ、正午すぎにはもう酒場へ出かけてしまう。人手が足りないとかで、料理の下ごしらえをやらされているのだ。それで、日付が変わるような時間まで戻ってこないのだから……。
(城の料理人だって、そんなに長く働いてやしねえよ)
と、彼は呆れまじりに思う。
近衛騎士たる自分にしても、朝から晩まで立ち働いていたわけではない。他の騎士たちもそうだ。詰め所では盤ゲームや札遊びをする姿が日常茶飯事に見られたし、『見回り』と言って城下に下りるとき、その行き先はたいてい酒場か娼館である。
──つまりフィアと話が出来るのは、午前中だけなのだ。
一緒に朝食を取る時間。
そのあと、彼女が皿洗いをしたり、洗濯物を片づけたりする時間。
だが、彼にも自分の仕事がある。井戸の水を汲みに行ったり、頼まれた食材を買いに市場へ行ったりしなければならない。となると、純粋にフィアと一緒にいられるのは、本当に朝食のあいだだけということになる。
けれど、その朝食の席では、いつも当たりさわりのない世間話をしてしまう。
近所の人がどうだとか、市庁舎に新しい仕事の張り紙が出ていたとか。肝心の言葉はいっこうに出てこない。そんな自分に彼はだんだんと苛立っていき、その様子を見て、フィアもちょっと怯んだような顔になる。そして会話は途切れる。
気まずい時間だ。
──『王都へ行けよ』。
言うべき言葉は、たったそれだけなのに。
フィアの憂い顔を見るたび、明日こそは言わねばならない、と自分に言い聞かせる。
けれど、言えない。その一言が、彼の心に重しのようにのしかかる。
(なんで俺が……他人に道を譲ってやらなきゃならねえんだ?)
という思いもないではない。
表の自分は、フィアを王都へ行かせてやるべきだと言う。しかし裏の自分は、そんなことを言う必要はないと首を振るのだ。相反する二つの心のどちらが自分の本心なのか、やはりどこか判然としない。
(このまま黙ってりゃ、フィアはひとりで王都へ行ったりはしないだろ……。もしそうしたとしても、『行くな』と言えば、あいつはここに留まる。この街に。あとはじっと待ってりゃいいんだ。そのうちに国王の身に異変が起きるかもしれねえ。そうなったら……)
そうなったら、こっちのものだ。
悪魔が、岩場の影からそう囁いてくる。
国王さえいなくなれば、フィアはもう自分との結婚をためらわない。泣き崩れる彼女を慰めるのは自分の役目になり、そういう自分を、いつしかフィアは好きになるだろう。今までよりもずっとだ。
それを期待して、何が悪い?
これは当然受け取るべき報酬ではないのか? 彼女を王都からここまで送ってきたのは自分であり、盗賊から守ったのも自分なのだ。家を借りてやり、職探しを手伝い、結婚を申し込んだ。どこが間違っていた?
間違っていたのはフィアだろう。前の男を忘れられないのに、他の男と結婚の約束をしたのだから。
しかしそれを責めるつもりは、ルーデックにはなかった。
過去は過去だ。いずれ記憶は薄れ、忘れる。それがどんなに甘く、美しい思い出であるとしても。そんなものより、毎日パンをふた切れ買うために一緒に悪戦苦闘する人間のほうがずっと大事だと、いつか彼女も気づくはずだ。
フィアの心が自分の上にないのは、ずっと前から分かっていた。自分はそうした勘働きは人より鋭いほうなのだ。ただ、分かりたくなかったから、分からないふりをしていただけで。
今さら、『あいつは俺を好きじゃなかったんだ』などと言って泣くつもりはない。
最初から不利な戦いだった。何しろ相手が相手だ。国中の女が憧れる“身分”の相手と結婚の約束までした娘に、『あなたのほうがいい』と言わせるのには、長い時間がかかるのだ。それは覚悟していた。
それを、こんなところで諦めるのか? ──ただの噂なんかで?
いずれにしろ、待てば待つほど自分のほうが有利になる。それまでフィアをこの街に──自分のそばに引き留めさえしておけば。そうして一日一日、喧嘩をしながらでも、新しい思い出を積み重ねていけば──。
それでも言うのか? ──『王都へ行けよ』と?
「………」
ルーデックはまた寝返りを打った。
窓からは月の光が静かに差し込んでいて、床板の隙間の溝さえはっきり見えるほどだ。しんと静まり返った部屋の中、彼は長いこと考え続けていた。そう簡単に答えの出る問題ではなかったから、この日もまた、寝苦しくほろ苦い夜となった。