KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十四章 剣と剣 19

ヴィクターは下馬し、ルーデックのほうへ歩いて行った。
若者は軽く頭を振りながら、片膝をついて立ち上がろうとしているところだった。
「手を貸そうか?」
「いい」
ルーデックは即座に答えた。押し殺した声で。
差し伸べられた手を振り払い、よろよろと立ち上がる。
疲労困憊した体に、全身鎧はいっそう重く感じられた。
彼は体を引きずるようにして歩き出した。
その目の前にはフィアがいた。
体の半分ほどの高さがある木の柵に隔てられてはいるが、上半身はよく見えている。
周囲には、興奮して立ち上がった観客たちが肩を寄せ合ってひしめきあっていた。善戦した騎士に向かってにこやかに手を振る。どさくさにまぎれ、手を突き出して肩を叩こうとする者もある。勇敢な騎士に触れれば、その勇敢さが自分にも宿ると信じる者は少なくない。そういうご時世だ。
フィアはその観客たちに軽く体を押されながらも、目だけはルーデックに釘づけのまま、いっときも離れなかった。
試合会場からは、まださざ波のようなざわめきが消えていない。
ルーデックはフィアを一瞥したあと、黙ってそこを通り過ぎた。
「──待って!」
フィアが叫んだ。
「こんなのに負けたからって、何だっていうの? た……ただの、気晴らしみたいなものでしょう? ──ねえ、ルーデック! どうして何も言わないの!」
ルーデックの背中にフィアの声が空しく掛かった。
彼は振り返らなかった。
足早にその場から離れてしまう。
彼が行ってしまうのを、フィアは茫然と見送っていた。
ヴィクターはそこへ歩いていった。
フィアは人をかきわけて、それでもルーデックを追おうとしていた。
「ルーデック! 待ってよ、お願い!」
その腕を後ろから掴んだ。後ろから。
フィアはぎょっとして振り返った。自分の腕を掴んだ手が普通の手と違っていたからだ。
その手は武骨そうな、指の分厚い“籠手”だった。そこから目でたどれば、頭部も体も、全部を鎧で覆い尽くした騎士がぶっきらぼうに立っている。フィアは「ひっ」とばかりに竦みあがった。
「な、なんですか、あなたは!?」
怯えたようにわななく唇から飛び出したのは、もっともな疑問だった。──というよりフィアは、自分の婚約者が誰と戦っていたのか知らなかったらしい。もう少し正確に言うなれば、婚約者と、元婚約者が剣を打ち交わして戦っていたのだが。
ヴィクターは面頬を上げてみた。
しかし、可動性が悪いため、顔の下半分しか露にならない。
フィアは焦りながら、強く腕を振り、怪しい騎士の手を振り払おうと必死だった。
「離してったら! ……もうっ、なんなんですか!? 何が言いたいんですか!? ルーデックのことなら……かっ、彼は立派に戦ったわ! あなたに非難されるようなことは何もありません!」
どうやら、ルーデックへの文句を自分に言いにきたものだと思ったらしい。
先ほどまでルーデックと戦っていた騎士が乱暴に腕を掴んでいるのだから、それも仕方がないことだ。ヴィクターは諦めて、すっぽりと籠手を外した。しっかりと背中のところで固定されている冑の革紐を、今すぐ外すことはできないので。
まだ熱の残る素手の指先で、フィアの顎をぐいと掴んだ。そこへ自分の顔を寄せる。
「『何が言いたいか』だと?」
彼は苛立ち、低い声で囁きかけた。
「そう言う前に、ちょっとは自分で考えろ。『俺が何を言いたいか』」
その瞬間、フィアは地獄の魔王でも見たような表情で、「ひいっ」と顔をひきつらせた。
「なんだその顔は? 人がわざわざ異国から飛んできてやったってのに。……まあ、今まであのルーデックとかいう若造と『楽しく』やってたんだから、俺が帰ってきたのは面白くないだろうが……」
少しばかり嫌味を言ったあと、ひきつった息の音をさせているフィアの唇を親指で押さえた。
「最初の婚約から一年も経ってないのに、もう新しい男と……というのは感心せんな。いいか、改めて言ってやる。俺はおまえとしか結婚しない。いい加減に諦めろ。おまえの恋人も、試合に負けたらおまえを俺に譲ると誓ったぞ!」
「た、助けて……う……」
フィアは何かもごもごと、人の名前を口にしたようだった。
よく聞こえなかったが、さっきの若者の名前だったかもしれない。
それから、急に糸が切れたように、その場にばったりと昏倒した。
──気絶したのだ。


肩を落として去っていくルーデックを見送ったヴィクターは、柵の後ろに倒れこんだフィアの体を引っ張り上げた。よっとばかりに肩に担ぐ。
それから、自分の馬の手綱と一緒に、ルーデックが残していった葦毛の馬の手綱も取って引いた。
この馬には見覚えがある。ノイエのものだ。
後ろの広場では、もうすでに次の試合の準備が始まっている。観客はそれに目を奪われている様子だ。
そのあいだに、ヴィクターは控えの天幕に戻った。次の試合に備えてせっせと体を動かし、大胆に側転などを試みている騎士の横を通り過ぎ、とりあえず馬を誰かに預けようと周囲を見回す。
その目に、急ぎ足で向かってくるノイエの姿が映った。
──ちょうどいい。
「勝ちましたね」
ノイエは彼の前に立ち、感慨深げな顔をした。
「途中まで、あなたはもしや負ける気なのではと……。気を揉みました」
ヴィクターは無言で肩をすくめた。たしかに自分でも、そうなるかと思った瞬間もあった。
彼は肩の上のフィアを担ぎ直しつつ、ノイエに向かってはこう言うだけにとどめた。
「おまえの馬は戦利品としてせしめさせてもらった。返してほしければ、金貨二百枚用意しろ。それで手を打つ」
「………………」
少しでも国庫の金を増やそうという考えであったが、ノイエは苦りきった顔になり、黙ってしまった。


ルーデックは、どっしりと重い全身鎧を人に手伝ってもらって脱ぎ捨てると、力ない足取りで試合会場をあとにした。
夏の終わりを告げるような、涼やかな風が吹いている。蒸し暑い冑をかぶっていたから余計だ。
しかし、心の中までは爽やか、というわけにいかなかった。
(……負けちまった)
唇を噛み、ぐっと拳を握る。
どうせ負けるだろうと思っていたから、負けたことに腹は立たない。
ただ、それに心から納得しているわけでもない。
フィアを失ったこともつらいが、まるで歯が立たなかったのが、今はそれ以上につらかった。
最初は「いける」と思ったのに、最後の最後であっさり覆された。普段の鍛錬の差かもしれないし、経験の差かもしれない。何しろ向こうは遠征帰りで、戦闘の勘は鈍っていないはずだ。それに比べ、こちらは鎧の重さにさえ耐えきれなかった……。
最後は、立ち上がることさえ難しくて。
騎士というのは想像以上に過酷な職業だと、今さらのように思い知らされた。
(くそっ! 情けねえ!)
向こうの怪我でこっちが有利になると思ったが、とんだ勘違いだった……。
それでも自分が弱いのは最初から分かっていたし、負けも覚悟していたのだが。
今となっては、それより情けないことがある。
(なんで、今まで何もしてこなかったんだ。死ぬ気でやってりゃ、この勝負にも勝てたかもしれねえのに!)
はがゆさのあまり、走り出したくなるほどだ。
──騎士など、辞めてやる。
ずっとそう思ってきた。
どうしても騎士になりたかったわけではない。運よくなれる機会があったから、なっただけのことだ。
その仕事にはあまり熱が入らず、いつも不平不満ばかりこぼしていた。
嫌々だったが、続けたのは生活のためだ。
ただ、それだけだったのに。
(上等だ。こうなったら、意地でも辞めてやらねえよ!)
ルーデックはふんっとばかりに鼻息を噴いた。
このご時世に、あれだけの給金がもらえる仕事もない。もとより得意なこともなければ、やりたいことも他にないのだ。いらいらしたら剣を振り回せる自由度も、いっそ貴重なものだろう。蹴落としがいのある同僚たちもいることだ。虎視眈々と腕を磨いて、うかうかしている連中をごぼう抜きにしてやろう……。
それこそが、この屈辱に対する復讐だ。
いけすかない主君と、気を抜けばすぐに奪われるだらしない城もある。飽きることはないだろう。
試合会場からは「わあっ……」と歓声が聞こえてくる。
足を止めてしばしそれに見入る。
フィアはまだあそこにいるのだろう。
彼女との道行きは、信じられないほど苦労が多かったが、振り返ってみれば楽しいものだった。ああいう娘を好きになるのは自分で意外だったが、それでも……好きだった。
未練が残らないというのは嘘になる。だが、勝負をして負けたからには、潔く引き下がるのが男というものだ。それくらいの意地はある。
(見てろ。俺は絶対に出世する。結婚しなかったのを後悔するような男になってやるぜ!)
彼は固く拳を握り、前を向いた。
時間はかかったが、ようやく行くべき道を見つけられた。
あとは歩き続けるだけだ。一抹の寂しさは残っても、もう後ろを振り向くことはない。