「──執務補佐官。陛下宛に、フィルデール卿から手紙が来ていました」
若い秘書のジョシュアが、蝋で封を施された手紙を手に、執務室に入ってきた。
執務補佐官レヴィンは、ちらりと顔を上げて頷き、近づくのを許した。
国王が寝込んで以来、執務はほとんど彼一人で肩代わりしている状態だ。
“秘書”は何人もいるが、彼らは、内政を左右するような重大な決断には関われない。そのような権限は“執務補佐官”たるレヴィンにしか与えられていない。言ってみれば、国王の秘書がレヴィンただ一人で、レヴィンの下に大勢の秘書がいるようなものである。
その国王──主君の不在も、もうだいぶ長くなっている。
最初のうちは(風邪か、遠征疲れだろう)と思い、主君が執務室に来ないのを大目に見ていたレヴィンだった。しかし、三日経っても、五日経っても主君は来ない。さすがに訝しく思って侍医を呼べば、妙に青ざめた顔で『大変な状況でございます。それしか申し上げられません』と繰り返すばかりだ。
こうなったら自分の目で確かめるしかないとばかりに、主君の寝室へ向かった。
しかし、衛兵に阻まれて、どうしても中に入ることができない。
以前なら城の衛兵に顔がきいたのだが、今は新入りが多く、顔も名前も分からない。レヴィンは『わたしは陛下の執務補佐官だぞ。通せ!』と言ってごねたが、最後には槍を突きつけて『お帰り下さい』と威嚇される始末で、どうにもならなかった。
こんなことは初めてだった。
──おかしい、何かが起こっている。
疑問に思いながらも、どうすることもできない。
そのうちに一週間が過ぎてしまった。
レヴィンは一人、執務室でいらいらと仕事を続けていたが、主君がいないので仕事は山積みになっている。いくらやっても片付かない。
主君はああ見えて仕事が早いのだ。それに何より、重要な問題に決断を下す裁量権を有している。国王という地位があるからこそ、それは認められるものだ。レヴィンは内政には精通しているし、決裁権も多少はあるが、全部ではない。どうすればいいかは分かっていても、自分では、逆立ちしても終わらせられない仕事ばかりが残ってゆく……。
(どういうことだ? いったい?)
その頃には、王都に不穏な噂が流れ始めていた。『国王は重篤な病である』というものだ。
出所の分からないその噂は、あっというまに広まった。
城の中では『陛下のお姿が見えない』と、侍女から厩番にいたるまで、ありとあらゆる人々が不安げに話し合った。浮足立ったのが騎士たちで、寝室まで押しかけた者も一人や二人ではなかったらしい。しかし皆、侍医と衛兵に追い返されてしまった。
国王の世話係として、再びスティーナ=クラウザールが城に呼ばれた。彼女は国王の従妹である。
そのことで、レヴィンは多少疑問は持った。
──スティーナ嬢が? 陛下は彼女が苦手なはずなのに。
しかし、起き上がることもできない状況では、やはり身内のほうが呼びやすいのかもしれない。
それほど悪いのかと、さすがのレヴィンも執務に身が入らなくなった。
もともとハイネベルク公国の外交官だったのを、外交の仕事でこの国に来たとき、今の主君が気に入って国を鞍替えしたのだ。ハイネベルクの大公も、あのとき病床にあった。後を継ぐはずの息子は、とんでもないボンクラ公子……。将来に見切りをつけて国を捨てた。そのことを後悔したことは一度もない。
それが、何かに呪われたように、この国でも主君の病気に行きあってしまったらしい……。
城の中には沈痛な空気が流れだした。
騎士たちも、いつもより口数が減り、物思いにふける者が多くなった。
『陛下が亡くなられたら、俺たちはどうすればいいんだ?』。誰もが暗い顔でそう言い合った。
レヴィンも同じ気持ちだった。
だからといって、この主君を捨てて他の誰かに鞍替えする気は、もうレヴィンにはなかった。
骨を埋めるのはここだと、とうに決めている。
見舞いをしようと、幾度も寝室へ足を運んだ。
しかし、中に入れるのは侍医と侍女のスティーナだけだと言われ、毎回追い返された。ならばと、スティーナを捕まえて事情を問い詰めたこともあるが、彼女は『どうにもなりませんわ……』と悲しげな顔で首を振るだけだった。そして、涙を隠すようにダッと走り去ってしまったのだ。
『………』
レヴィンは青ざめた。
このあいだまで北国のワシュトリア帝国にいた主君は、風邪もひかず元気だったと聞く。王都に戻ってきたときも、なんの異変もなかった。少し疲れたような顔はしていたが、祝宴には途中まで出たし、そのとき飲み食いも普通にしていたという。
急変したのはそのあとだ。
以来、一度も人前に姿を見せていない。
そうはいっても、執務は誰かが片づけなければならない。国中から毎日山のように陳情や報告が上がってくるのだ。放置していたら、それがやがて火種となり、いずれ反乱や内乱を引き起こすことにもなりかねない。
レヴィンは執務室にこもった。朝から晩までこもった。
そして十日が過ぎたときだった。
レヴィンは主君の寝室に呼ばれた。しかも真夜中に。
呼びに来たのは衛兵だ。レヴィンはそのとき自室にさがって寝ていたが、飛び起き、上着を羽織るのももどかしく寝室に駆けつけた。ついに悪い知らせが来たのではないかと、顔面は蒼白だった。
衛兵の手によってようやく扉が開かれる。
心配のあまり息も絶え絶えになっていたレヴィンは、寝室に足を踏み入れるやいなや、ぎょっとした──
なんということだ!
そこにいるのは国王の母方の従兄、近衛騎士団ではあまりうだつの上がらない中間管理職のような地位にいる──イグナーツ=クラウザールではないか!
レヴィンは怒りのあまり、口を開けば炎でも出てくるのではないかと思ったほどだ。
落ち着くのにだいぶ時間がかかったが、なんとか事情を聞き出す。
すると、イグナーツもあっさり騙されてここへ呼び寄せられ、無理やり身代わりにさせられたという。それが祝宴の日だというから、もう十日も前から城にいなかったことになる。道理で、見舞いすら許されないはずだ!
レヴィンは、握った拳をぶるぶると震わせた。
その目的は、聞かなくても分かる。
あの娘を探しに行ったに違いない。自分がわざわざ王都から遠ざけておいた、あの娘を!
案の定、イグナーツに書き残された手紙を見れば、半年は遊ぶ気満々だと見て取れた。
(半年だと? そのまま新婚旅行に出て、世界八カ国でも見てくるつもりなのか? ──ふざけたことを!)
あの娘は本当に疫病神だと、レヴィンは怒り心頭、苦々しいのを通り越し、トカゲの尻尾でも噛みちぎるような顔になった。
そんなだから──
秘書のジョシュアが持ってきた“国王宛の手紙”を、レヴィンは迷うことなく千切って開けてやったのだ。
「あっ……」
ジョシュアがちょっと唖然としたような、それはやばいのでは、というような顔をする。
それをちらりと見て、レヴィンは「ふんッ!」と鼻息を吹いた。仮病を使って城を抜け出しているような国王に見せる手紙などないのだ。自分が見てやる。
「あのう、それは……陛下宛の……?」
ジョシュアが、おずおずと言いながらレヴィンの顔色をうかがう。
「陛下は今、とても手紙を読める状態ではあられない。だからわたしが代わりに読むのだ、分かったか」
レヴィンは素っ気なく言い放った。
ジョシュアは「そんなにお悪いのですか! ベッドで手紙すら読めないほど!?」と、ショックを受けたように叫んだ。
秘書である彼は執務室への出入りが多い。もちろん、国王危篤のことも知っている。
王都にはさまざまな噂が飛び交っており、この城の中にいてすら、状況はまったく分からない。衛兵たちの口に緘口令が敷かれているため、何も情報が入ってこない。
国王はこの執務室にも全く顔を見せないから、かなり悪いのだろうとジョシュアは案じていた。しかし、『風邪もひかない頑健な人だから、いずれ快癒するにちがいない』と信じていたし、そう祈っていたところだった。
「そ、そんな……」
ジョシュアはこの世の終わりのような顔になった。
そんなことは知ったことではないレヴィンは、そのときもう手紙に目を通していた。
読み終わると、彼は珍しく「……ふむ。これは面白いな」と感嘆の呟きを漏らした。
「フィルデールはいいものを寄越してくれた」
青ざめていたジョシュアも、さすがにそれは気になったらしい。
「な、何が書いてあるんです……?」
「読みたいか?」
「い、いえ……。別に」
「素直に言えば読ませてやらんこともない」
「僕はそんな……人の手紙を盗み見たりはしませんよ!」
ジョシュアは持ち前の正義感を発揮して叫んだ。しかし、それはまたも失言だった。執務室への登場回数は少ないのに、失言回数が多いのがこの若者の特徴であった。
レヴィンに冷たい目で見られた彼は、すごすごと肩を落として退出していった。主君の病のこともあり、余計に気が重いというような背中である。
──フィルデールの手紙の内容とは、こういうものだった。
『親愛なる陛下
ワシュトリアは、八月のなかばに入ってもう寒くなってきました。
夜なんか、上掛けがないととても眠れませんよ。
まあ、わたしには美女の上掛けがあるからいいんですがね。
あなたなんか、あんな広いベッドに独りで寝てるんだから、さぞかしお寒いことでしょうね。
じゃ、さっそく本題です。
先日、こちらで面白いものを見つけました。わたしがですよ!
最初はただの書付かと思ったんですが、念のためにとラースロー卿に見せたら、
『これはどうもおかしいものだ。ウルリク卿に報告してみよう』と仰るので、
団長……あ、まだこの言い方が抜けなくて困ってます……のところに持っていったら、
『仔細は王都で確かめてもらえばよい。すぐ陛下にご報告せよ』とのことで、
こうしてご報告を差し上げた次第ですよ。
問題の書付は、写しを同封しておきます。
執務補佐官あたりに見せれば、いろいろ判明するでしょう。
あの人、性格は歪んでますが、仕事だけは出来ますからね。
んー……、あと何書こうかな。
あ、わたしの弟子のべリスとサムエルは元気でやってますか?
あいつらに恋愛の極意を伝授中だったんですが、途中になっちまって。
まあ、わたしもワシュトリアに来て分かったことがありますよ。
自分の顔がウケる国に行け。そういうことです。
ウルヴァキアでは、わたしはあなたほどモテなかったんですがねぇ。
不思議ですねえ。やっぱり血筋の違いでしょうか。
わたしの祖母はワシュトリアの姫君だったらしいですから。
ま、早いとこあなたも身を固めて、子供を山ほど作ってくださいよ。
こっちではエミーリヤ妃の息子さんが、初めての言葉を発したとかで、
まあ、めでたいと思って見に行ったんですが、ただの呻き声でしたね。ははは。
皇帝陛下は自分の名前を呼ばれたと言い張っておられました。困ったじじいです。
それじゃ、書くところもなくなってきたのでこのへんで。
……あ、結婚式の前には連絡くださいよ! 絶対帰国しますから!
なんか欲しい土産があったら返信ください。
こっちは女に関しちゃ天国みたいな国なんですが、
やっぱりあなたがいないのはつまらないですね。
みんなそう言ってますよ。
寒い国にいる ワイデ侯爵家の四男坊より』
同封されていた書付の写しを、レヴィンは椅子に座ってじっと眺めていた。
それから彼はおもむろに立ち上がり、執務室の壁一面を占める本棚から分厚い紙束をごっそり取り出した。
それを自分の机に積み上げ、かたっぱしからめくりはじめた。途中で何度も席を立ち、また別の紙束を持ってくるので、またたくまに彼の机は書類の山に埋もれて見えなくなった。
途中、先ほど退出したジョシュアを、衛兵に命じて呼びに行かせたりもする。彼は帰り支度をしていたが、慌てて戻ってきた。
他の秘書は呼ばなかった。もっと年上で有能な者が大勢いるが、あえて、若くて新入りのジョシュアにしか手伝わせなかった。それほどに深刻な内容なのである。その点ジョシュアなら、自分が何をしているのか分からないだろう。
ジョシュアは言われるままに紙束を出したり片づけたり、よく分からない数字をそろばんで計算したり、せっせとレヴィンの肩揉みをしたりした。自分から積極的にお茶くみもやったが、『まずい』と言われて三度も淹れなおした。そしてもう二度と自分から『お茶を淹れましょうか?』などと言うまいと心に決めた。
レヴィンは深夜まで作業に没頭した。
そして、ついにこの書付の意味を解読しおえた。
それは驚くべきものだった。
「なるほど、そういうことか……」
彼は自分の仕事に久しぶりに満足し、薄く笑んだ。
どうやらこれで、この国の問題が一つ片付きそうだ。