KNIGHT AND SISTER2《騎士と乙女2》

第十五章 鳥かごの鳥 2

──王都。

聖ドロテア女子修道院の修道女だったカタリナ=ゴドセヴィーナ伯爵令嬢は、長く監禁状態にある。
彼女は、実兄フランツによって修道院から強制的に連れ出されていた。フィアがあの修道院からいなくなった、ほんの数日後のことだ。
フランツ=ゴドセヴィーナの邸は、王都の、目だたない一角にある。
彼は父の領地である北部のセルゲンから出て来ては、この王都の邸に逗留し、王都で慈善活動をしたり、社交界に顔を出したりして地味に名前を売っているのだ。
あまり目立ちたがらないが、篤志家の良い青年。
それがフランツに与えられた、この王都での評価だ。
実際彼は、極力目立ちすぎないようにと気をつけて生活している。慈善をするときも、あまり大げさに名前を出したりしない。そのため、教会関係者には評判がいい。だがそれは、仮の姿にすぎない。
カタリナにはそのことがよく分かっていた。


『──わたしをどうする気?』
噛みつくように言いはしたが、内心ではカタリナは怯えていた。
『いったい何を考えているの? 兄さん?』
『きみをどうしようが、ぼくの自由だろう』
兄は悠然とそう言うだけだ。
妹を、自分の所有物だと思っているからそんなことを言う。カタリナは唇を噛んで黙り込む。反論したくても、それは事実でもある。──兄の所有物。自らが望んだわけではない。最初はそれは凌辱だった。けれどいつしか、何とも思わなくなってしまった。
神に許されないとも、嫌だとも思わなくなった。
堕落したのだ、この身は。
聖書にもそう書いてある。女は欲望の前に、たやすく堕落すると……。その通りになったのだ。
不義の子供を身ごもったときにカタリナが考えたのは、この子を産むだけ産んだら修道院に駆け込もうということだった。そのときまだ十代で、先のことなど何も考えられなかった。とにかく、この悪魔のような兄から離れてしまわなければ、破滅してしまうということだけが頭にあった。
出産してまもなく、カタリナは手近なものだけを荷物にして伯爵家を出た。
唯一信頼していた家人に手綱を握らせ、馬車で父の領地を飛び出す。
途中でその家人と別れたあとは、ひとりで点々と馬車を乗り継いだ。
そうして、ようやくたどり着いたのがこの王都だ。数万の人口を抱えるこの大きな都なら、自分の存在を隠してくれるだろう。そう感じて、ここで人生を再出発させると決意した。
何日か迷ったあと、カタリナは聖ドロテア女子修道院の高い門の前に立った。貴族階級の娘が多いとの噂を聞き、ここなら受け入れてもらえるのではないかと希望を持っていた。
紹介状も何もなかったが、思いつめた顔で『実は伯爵令嬢だ』と打ち明ければ、自身も貴族出身である院長は一も二もなく受け入れてくれた。わけありの貴族令嬢が急に駆け込んでくるのはよくあることだから、身の上話をする前から、『いろいろとつらいことがあったのでしょうね』と涙ぐんでくれたものだ。
ようやく念願の修道女になれた。
もう、伯爵家のことは思い出さなかった。
過去は一切合財捨てたのだ。
カタリナはせいせいして、以後は修道女生活を満喫した。
そうして、何が悪いのだ? 自分はまだ若い。子供なんか欲しくなかったし、育てられもしない。孤児院にでもやればいいのだ。
兄のことも、その間に生まれた不義の子のことも、もう思いだしたくない。
(わたしは知らない……)
聖ドロテア女子修道院は、カタリナにとっては楽園だった。
院長は親切だが気が弱く、何をしても怒らない。たまに怒っても、反論すればすぐに言いくるめられた。
他の修道女たちも皆おとなしかった。内心では眉をひそめていたにしても、誰も何も言ってこなかった。
カタリナは、ここに来て本当に自由になれた気がした。何かと自分を拘束しようとした兄がいないだけで、なんていい気分なのだろう!
毎日、取り巻きのエミリアやジュリアたちとふざけたことばかりやった。
馬鹿騒ぎをし、憂さを晴らし、嫌なことを忘れた。
新入りが来ればいじめ、気に入らない者がいれば徒党を組んで仲間外れにする。反抗的な者にはわざと嫌な仕事を押しつけ、黙らせた。そのうちに修道院は、本当に自分の城のようになってきた。『シスター・カタリナが影の修道院長だ』と、悔しまぎれに噂する者がいるほどに。
けれど、その楽園生活も終わってしまった。
兄に、その場所を突き止められたのだ。
──伯爵家を出てから、二年が過ぎていた。
兄はユリアナという名の、幼い女の子を連れてやってきた。
父が最近迎えた後妻の子。つまり異母妹。面会の名目上はそうなっていたが、真実は違う。カタリナは、初めてまともに娘と対面することになった。
青ざめ、気分が悪くなった。
忘れたはずの過去に復讐されているような気さえして。
娘は兄の後ろに隠れていた。カタリナはほとんど娘の顔を見ることなく身をひるがえした。
兄に人質を取られたようになり、カタリナはまたかごの鳥に戻った。
相変わらず修道院にいるが、そこで何があったか、何をしているのか、逐一兄に報告することを義務づけられた。『週に一度の手紙を欠かしたなら、どうなるか分かっているだろうね』。兄はもはや、脅迫することを隠そうともしない。
カタリナはせっせと手紙を書いた。書き続けた。
それを見て、エミリアもジュリアも、『仲が宜しいのねえ……』と感心した。
このころ、王都の教会や修道院に多額の寄付をし続ける“篤志家の伯爵子息”は、教会関係者のあいだではよく知られた人物になっていた。教会帰りの修道女が『シスター・カタリナ、あのフランツ=ゴドセヴィーナ伯爵子息は、あなたのお兄さまなのですってね! 素晴らしい方を身内に持たれて羨ましいわ』などと言ってきたことさえあった。
(──素晴らしい方? どこがなの?)
カタリナは内心でそう嘲笑った。皆、節穴の目しか持っていない。
しかし、本当のことは打ち明けなかった。
自分はかごの鳥だ。
本当のことを言えば、兄の評判が落ちると同時に、自分の評判だって落ちる。築き上げた自分の地位──女王のようなそれ──を失いたくはなかった。たとえ、聖ドロテア女子修道院という、ほんの小さな世界の中でしか通用しない地位だとしても。
臆病といえば、臆病なのだろう。何かにしがみつかなければ、自分は生きていけない……。
兄とは完全には縁を切れない。ユリアナがいるかぎり。好きでなくとも、嫌われるわけにはいかないのだ。だから欠かさず手紙を書き送った。返事はめったに返ってこなかったが、やめることはできなかった。
その代わりのように、聖ドロテアには兄からの寄付の品が続々と届くようになった。
高価な絵や美しい壺、新鮮で高級な食料品、貴重な写本類。ときにはベッドや絨毯が届いたことさえある。それによってカタリナも、修道院の中で盤石の地位を保てるようになった。人はきらきらした贈り物の前にはたやすく籠絡されてしまうらしい。何か届くたびに、聖誕祭が来たかのようにはしゃぐエミリアやジュリアたちを見て、カタリナは(自分が思ったのとは違うけれど、こういうふうにしか修道院生活を続けていけないなら、これでいいのかもしれない)と思うようになった。なかば、諦めまじりに。
──けれど、その生活も、そう長くは続かなかった。
公爵令嬢クリステラに毒を盛ったと疑いをかけられて以来、カタリナは不機嫌な顔で毎日を過ごすことが多くなった。
それを報告したのを最後に、兄への手紙も途切れてしまった。
逆に、兄からは、以前より頻繁に手紙が来るようになった。
その内容は『その修道院から出ろ』の一点張りだ。ほとんど脅迫じみていたが、カタリナはそれに従う気がなかった。ここを出て、他にどこへ行けというのだ? たしかに、修道院なら他にいくらでもあるけれど……。どこでもいいわけではない。
けれど、聖ドロテアの中で、何かがどんどんおかしくなっていった。
急に出入りするようになった憲兵。地下の遺跡を調査するために派遣されたと言いながら、なぜか帯剣していた怪しげな男たち。クリステラの還俗、他の大勢の修道女たちの還俗。院長は心労で倒れていなくなり、聖務日課もまともにこなせなくなってきた。聖ドロテアの中はまるで無法地帯のようだった。
カタリナには、何が起こっているのか分からなかった。
頭痛がひどくなり、部屋にこもりがちになった。
──兄からはもう手紙は来なかった。代わりにやって来たのは、兄の使用人たちだ。彼らはカタリナを、修道院から強引に連れ出してしまった。両腕を引きずられて門を出ていくのはさすがに恥ずかしかったから、その手を振り払って自分で歩きはしたけれど、ほとんど拉致されたようなものだ。


聖ドロテアを出て行って連れて行かれたのは、王都にある兄の邸だ。
兄のフランツと同じ屋根の下で暮らすのは、何年ぶりだったろうか。
あの頃のように何も知らない娘ではないのに、相も変わらず悪夢は繰り返された。兄はもはや、精神を病んでいるのだ。拒絶することに疲れ果てたカタリナは、絶望的にそう思った。まともに見えるのに、まともではない。誰からも“立派な青年だ”と称賛される人の正体は、おぞましい背徳者のままだった。


『“国王と結婚”?』
カタリナは愕然として訊きかえした──『いったい何を言ってるの? フランツ?』
『言ったとおりだよ。きみは国王と結婚する』
さも、それが普通だというように兄は言った。そしてカタリナの髪を撫でた。
『なんのために、そんなことを』
『むろん、ゴドセヴィーナ伯爵家のためだよ。決まっている』
『お父さまがなんと仰るかしら? そんなことを勝手に決めて!』
『父上はもはや老いられた。伯爵家は実質、ぼくが仕切っているようなものだよ』
『だからって、あなたはまだ伯爵じゃないわ。決定権をお持ちなのはお父さまよ』
『口うるさい人だ……』
兄はうんざりしたようなため息をついた。
『父上だって、自分の娘が王妃になるのを悪く思うはずがないだろうに』
揶揄するような言い方に、カタリナはカッとなった。身を跳ね起こし、射るような目で兄を睨み下ろす。
『あなたは頭がおかしくなったんだわ! 国王陛下はもうじき公爵令嬢と結婚すると、みんな噂しているでしょう! それを知らないの!?』
『きみのところの修道院にいたシスターと?』
『だ……誰のことを言ってるの?』
『フィアという名の修道女だよ。国王はずいぶん、彼女と懇意だったとか……』
意外な名を兄の口から聞き、カタリナは一瞬ひるんだ。
──フィア? なぜ、その名を兄が知っているのだ?
たしかに彼女には、国王と結婚するという噂があった。他の修道女たちがそんなことを言って騒いでいたのも知っている。だがカタリナはほとんど信じていなかった。国王が本気でフィアと結婚しようとしているなんて、とうてい信じられないことだ。
『そんなの……物珍しさで遊ばれて、捨てられたに決まってるわ。彼女は貴族ではなかったもの。だから結局、国王陛下もクリステラをお選びになったんでしょうよ』
カタリナは怪しむような顔で兄を見ながら、そう言った。
兄はおざなりに頷いた。
『……まあ、それはいい。国王は公爵令嬢と結婚する。たしかにそうだ。だが、彼にとっては不本意な結婚に違いないよ。でもね、周囲に押しつけられた公爵令嬢など、すぐに飽きるさ。そのとききみは、第二王妃として王家に入るんだ、カタリナ』
『ふざけるのもいい加減にしてくださらない?』
『ふざけてなどいない。……安心していい。きみはまだ若いし、じゅうぶんに綺麗だ』
『こんな状況で……いったい何を言っているのよ! まわりを見てごらんなさいよ!』
カタリナはカッとなって兄の頬をひっぱたいた。
長い金髪が乱れて、肩から落ちた。裸の胸へと。
『ご覧のとおりわたしは傷ものよ。あなたがそうしたんでしょう!』
兄は目を細めてカタリナを見つめた。彼はベッドに横たわったまま、身を起こそうともしない。
『こんな体で、どうやって王妃になるというの。二度とそんな馬鹿なことは口にしないで!』
『きみは王妃になる』
兄はカタリナの頬に手を差し伸べ、微笑んで言った。反論など、何も聞こえなかったというように。
『そして、国王ではなく、ぼくの子供を産むんだ』
カタリナは目を見開いた。
『何、を……』
『ぼくたちの子供が王位を継ぐんだよ。素晴らしい考えだと思わないか? それでシヴェリウス王家は完全に断絶し、新たにゴドセヴィーナ王朝が始まる……』
何かに魅入られたような顔で、兄は穏やかに笑っている。
──悪魔だ。カタリナは後ずさった。
『あなたは魔物だわ。フランツ。……人間じゃない。そんな恐ろしいことを考えるなんて……』
『ぼくのどこが魔物なんだ? 教会にはたくさん寄付をしてるし、孤児院には食べ物を届けさせてる。みんなぼくのことを慈善家だって言うのに』
兄は笑いながら手を広げて見せる。
自分が憎まれているのを知っている顔だった。そして、それをなんとも思っていないのだ。
『きみだけがぼくを毛嫌いする。同じ血を引いているはずなのに……ぼくを嫌う』
兄がカタリナの髪を掴んで、不思議そうに問いかける。
『なぜなんだ? カタリナ。ぼくの何が気に入らない?』。
カタリナには答えることができなかった。
散らばっていた衣服をかき集め、その部屋を飛び出した。
そして自分の部屋にこもった。
ありったけのものを集めて扉を塞ぎ、ベッドにうずくまり、耳をふさいだ。
聖ドロテアに戻りたいと痛切に思った。けれど、どうしてそれが出来るだろう?
自分だけが堕ちてしまったのだ。他の修道女たちは、あんなに無邪気に、清らかに笑っていたのに──。