[未完成ブラック]


1.


 足を止めて息を整えた。私の横を沢山の人が足早に通り過ぎていく。ときには肩をぶつけていく人もいる。わざわざ助言なんてしないけれど、ここは急いでもあんまり変わらないよ、と思う。目の前の歩行者用の青信号は点滅中で、たとえ走ったとしても、大通りを渡りきる前に信号は赤に変わる。そう、待ちスペースの作られた大通りのちょうど真ん中で。それならまだ日陰のあるこちら側で信号を待った方がいい。だって暑いもの。
 私は鞄からハンカチを出し、額を拭った。十七時五分。空はまだ明るいのに、遠くで打ち上げ花火の音がする。練習かな。今日の人の多さは花火大会のせいだろうか。
 信号が赤から青に変わった。
 私は足を前に出し、そして宙で止めた。
 信号はたった今、赤から青に変わった。なのに、おかしい。青信号はもう点滅している。
 信号機の故障?
 そう思ったのと同時に、視界が塞がれた。目の前、それもぶつかりそうなほど至近距離に女の黒い頭がある。女は横断歩道を走って渡ろうとした。私は咄嗟に遠ざかって行こうとするその腕を掴んだ。何故そうしたのか。そうするしかなかった、としか言いようがない。だって私はついさっきまで、横断歩道の一番前にいた。横から誰かが割り込んできた気配は微塵もなく、感じたとするなら、それはまるで彼女が私をすり抜けて現れたかのような違和感。
 女は振り向いた。目が合うと、黒い眼が零れ落ちそうなほど見開かれた。
 私を通り抜けたかのよう、それは正解だったのかもしれない。
 長い黒髪、紫色に縁取られた眼鏡、東洋人らしい低い鼻に不健康そうな生白い肌、肌と同化した色気のない唇。服は安物のベージュ色のTシャツと黒パンツ、唯一のお洒落はオリーヴグリーンの綿ストール。
「「……私?」」
 女が言った。私が言った。
 姿形、目の高さも服もまるで同じ、鏡を前にしているんじゃないかと思った。
 けれど、この人は鏡の中の存在じゃない。
 この人は、現実にここにいる。私が、ここに二人いる。
 歩行者用信号は赤になり、車が走り出した。


「なるほどねえ、ダイナシちゃんがふたりかあ。面白い能力を持っていたんだね、知らなかったよ」
「「私だって知らなかったわよ」」
 ハモったのと同時に、私たちは口を押さえた。
「面白いなあ。こんな面白いものを見せてもらえたんだから、今日はラムミルクティをサービスしよう」
 顎鬚を擦り、にやにや笑いながら、喫茶店のマスターはカウンターに入って行った。鈴木悠大。この人は私のことを「ダイナシちゃん」と呼ぶ。理由は、私の名前が鈴木由宇だから。「スズキ ユウダイ」と「スズキ ユウ」、初対面で「鈴木なんてよくある名字だけれど、名前もダイがあるかないかだね。よし。君はダイがないからダイナシちゃんと呼んであげよう」と言われた。そんな縁起の悪い名前は冗談ではないと抗議したが、聞き入れてもらえなかった。こんな失礼で軽々しいマスターの店なんて二度と通うものかと初めは思いもしたけれど、この喫茶店は居心地が良い。夜はジャズバー、昼間は喫茶店、夜はそこそこ人が入るというが、私は客の少ない喫茶の常連客だ。防音加工が施された静けさと少しだけ高い天井に見下ろされた空間が作りだす時間の流れは、私にほどよく合った。そのため、屈辱と反抗心と蔑みを持って、私は、今年三十路を迎える五つ年上のマスターを「大くん」と呼んでいる。
 木目調の丸テーブルの上には、単行本、皺のついた大学ノート、花柄の財布、ハンカチとティッシュが並べられた。どれも二つ。私たちが持っていた鞄の中身だ。
「同じね、どれもこれも」
 最後に出てきた飴玉のゴミ袋まで、同じ方向、同じ長さで破られている。
「どうせなら財布の中に、お札があれば良かったね」
 私はため息まじりに呟いた。体が二つになるという珍妙な現象の利益が数百円を倍にした額だとは。クレジットカードが二枚になったところで金は増えない。体が増えれば、それだけ生活費はかかるのに。
「馬鹿ね、お札があったところで倍にはならないわ」
 私と何もかも同じ容姿をした目の前の私が単行本を叩いて言う。
「お札には製造番号があるの。小銭はともかく、同じ製造番号のお札が存在したとすれば、世間に出回すべきじゃないでしょう。いちいち私が私に説明しても仕方ないだろうけれど、仮にもミステリー作家ならもっと考えて発言なさい」
 単行本には、鈴木由宇という私たちの名前が印刷されている。皺のついた大学ノートには小説の構想が汚い字でびっしり綴られている。私は推理小説家だ。三年前、窓川出版の新人賞をもらってデビューした。この客の来ない喫茶店を仕事場にしてからは半年が経つ。
 私は髪を耳にかけた。目の前の私はずり下がった紫色の眼鏡を指で上げた。鏡に映る自分なら同じ動きをする。でも目の前の自分は、自分と異なる動きをする。慣れないものがそこに存在するのは、居心地が悪い。いや、そもそもこんな馬鹿げた現象があっていいはずがない。
「じゃあミステリー作家のプライドをかけて、早くこの謎を解いて一人に戻ろう。あのとき、点滅信号の下で私たちは二人になった、これは事実、前提としていいよね?」
 目の前の私が頷いた。
「体が二つになるなんて、現実にあるまじきことだけれど。でも、こうして二つになってしまったのは、あのときだと思う。それは間違いない」
「じゃあ、なんで赤信号のあと、青の点滅信号だったんだと思う?」
「え?」
「だから、最初の点滅信号を進まなかったのは、夏の日差しを避けるためだったでしょう。で、赤信号の途中、そう、花火の音がして、それからようやく青になったと思ったら、すぐ青信号は点滅し始めたの。見たでしょう?」
「貴方……」
 消え入りそうなか細い声だった。
「花火って、貴方、あの後のことを経験していないの?」
 理解ができなかった。そんな私を何もかも知りつくしたように彼女は繰り返した。今度は大声で。
「貴方は、経験していない私・・・・・・・・なのね! あはは、いいなあ、羨ましい!」
 爪先から脊髄に冷たいものが走った。違うのだ。私と彼女は同じなんかじゃない。彼女は私の知らない何かを知っている。
 カチャンとカップと皿が擦れる音がした。古い床がギシッと小さく鳴く。
「ダイナシちゃんたち、紅茶が入ったよ」
「ああ……、ありがとう、大く」
 私の言葉をさえぎるように、もう一人の私は椅子を引いて立ち上がった。机の上のものを掻き込んで鞄に戻していく。
「マスター、その呼び方は止めてください。二度と呼ばないでって言ったでしょう」
「じゃあ由宇ちゃん・・・・・。一口でいいからさ、折角入れた紅茶、飲んで行ってよ」
「今日は同じ顔が二つあるこの状況で、とにかく一番近くて客の少ない店に入りたかったからここに来たの。お茶を飲むためじゃないから失礼するわ」
 大くんを一瞥したあと、彼女は私を見た。
「お願いがあるの。私は今、一文字も小説が書けないでいる。けれど貴方なら書けるはず。私の代わりに書いて」
「どういう意味? 小説なら、仕上げたばかりで」
 昨日、仕上げた。この席で。だから私は……、だから、だから?
 頭が真っ白になる。空白は痺れのように、痛みを伴ってじんわりと私に迫ってくる。
「締め切りは一ヶ月後。百枚の短編でいいのよ。編集の坂田さんが取りに来るわ」
 彼女はそう言い、眼鏡を上げてから喫茶店を出て行った。扉が揺れて、カラン、という音が安っぽく響いた。まるで私の記憶の欠落を表したかのように。
「ダイナシちゃん、紅茶、飲んでごらん。落ち着くから」
「あ、うん」
 大くんが机に並べてくれたカップに、私は手を伸ばした。カチャカチャと手の震えがカップに振動する。
 あのとき、なんで私は点滅信号の下にいたんだろう……。どこかに向かおうとして……。
 手からすっと重さが消えた。大くんが私の手からカップを取り上げたのだ。
 少し垂れ目の、意地悪そうな目とぶつかる。大くんの手に握られたカップが私の口元に近づけられる。甘い香りがふわっと鼻を抜けた。ラム酒入りのミルクティ。
「一人で飲めないっていうなら、飲ませてあげようか?」
「え?」
「まずダイナシちゃんが天井を向いて、口を大きく開けてくれたら」
「……開けません」
「ほらほら、こっちこっち」
 猫でも呼ぶように、大くんは私の頭上で指を二、三回鳴らした。こういう子供っぽさが、私を苛々させると気付かないのだろうか。私が無反応を決めていると、大くんは諦めてカップを机に戻した。
「ゆっくりしていってよ。まだミルクティが台無しちゃんになるまで猶予はあるからね。それにしても」
 大くんはぼそりと続けた。
「こっちのダイナシちゃんは、由宇ちゃんみたいなこと、言わないんだな」
 私は大くんを見上げた。もう一人の私の態度。元々、大くんに対して礼儀を尽くしていなかったけれど、さっきのもう一人の私の態度は、酷くなかっただろうか。
「ねえ、大くん。今日は八月二日だよね?」
 大くんは口笛を鳴らした。
「ダイナシちゃん、今日は九月三日だよ。九月になってもまだ暑いからアイスが食べたいねえ」
 喫茶店の扉が開いて、お客が入ってきた。カラン、と音を響かせて。


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