二泊三日でソウルへ行ってきました。前回のソウル行きから一年半ぶりの旅行です。前回と同じく韓国演劇学会が年に2回開催する学術大会への参加を理由にしてはいますが、じっさいには単なる観光旅行です。今回は「physical and digital detox」をうたい文句にしましたが、二泊三日ではその効果はさほど期待できないでしょう。写真は早朝のソウルを散策したときのものです。梨花洞の城郭から東大門方向を撮影しました。
この8月から論文作成を再開しました。この間に論文を土台にして本を作るなど、何かリサイクルできないかと考えてきましたが…まずは論文を完成させて、「私家版」を指導教授や友達にプレゼントしなければならないと思ったわけです。ところがこのためなのか、ここ三日ほど続けて奇妙な夢をみます…。
3日前に「2回目の論文審査」を受ける夢を見ました。最初の審査に不合格だったので。主審となった教授が審査をしようとする側で、指導教授が面倒くさいという表情で「いつまで論文作業をするのか」と言います。そこで「これで終わりにします」と答えました。
今日は卒業のための「資格試験」を受けている夢を見ました。広い講義室で多くの学生と一緒に2回目の試験を受けていますが、そこへしばらく前に提出した「最初の資格試験」の答案紙が採点を終えて反却されました。それを見ると点数は「1点」です。今回の試験で満点をとっても資格試験に合格できません。だから「もうやめた」と言って、解答用紙を破って部屋を出ました。
なんとも奇妙な夢が続きます。これは「これまでの方法で作業を続けると論文は完成しない」という天の声ではないでしょうか?ひと息いれて、論文全体を見直すことにします。
西日除けに栽培しているゴーヤの実にアシナガバチが吸い付いています。アシナガバチはゴーヤが好きなんでしょうか?
先月、母が玄関から門まで手摺りが欲しいと言い出したので、この間手摺り工事に没頭しておりました。これまで家の中ではいくつも手摺りを取り付けましたが、屋外の手摺りは段違いに難しい…。ああだこうだと試行錯誤して、先日ようやく完成しました。ただし素人工事なのでタモの集成材を手摺りに使うなど、あちこちで「掟破り」をやってます。じつは介護保険のリニューアル支援を使い切ったので、業者に頼むと「通常価格」になりますから自分でやるしかない…。というわけでしたが、仕上がりはそこそこだと自負しております。さて、執筆作業に戻りましょう。
note用の作業に追われて当ウェブサイトの更新が途絶え気味ですが、少しずつコンテンツを追加しております。まだまだ終わりは見えず…先の長い作業になりますねえ。
noteで「日本人劇作家の執筆した、朝鮮人・韓国人の登場する戦後演劇作品」の紹介を始めました。「日・韓現代演劇交流」に関してはこのサイトで展開していきます。やることが増えて忙しくなりましたが、楽しみです。
サイト全体を新しいデザインで置き換えることにしました。このサイトはタグの使い方や構造化にかなり問題があることが「最近になって」わかりました ^^;… そこで使い勝手や見やすさを考慮したデザインに置き換えようと、あらたにHTMLを勉強しているところです。新装開店までにはもう少し時間がかかりそうです。
いま「演劇交流年譜」の全面的な見直しを行っています。これまではたんに交流実践を羅列するだけでしたが、このような交流を行うに至った背景や評価などの説明を加筆しています。つまり「日韓現代演劇交流史」の下準備というわけです。内容の編集とあわせてHTMLにも手入れているので、ときどきリンクが切れていたりヘンなつながり方をするかもしれません。しばらくご辛抱ください。
このサイトの運営を始めたのは世紀末だったので、あちこちガタが来ています。そこでサイトの全体的な構成を見直すことにしました。作業のためにリンク切れなどが発生するかもしれません。どうぞご理解ください。
昨日、ふとんの中で思いついたこと。母を看取ったらまた韓国の大学院博士課程に留学しようかと。じつは博士学位にまだ未練がありまして… ^^;。とは言っても、この次はおそらく70歳を超えての留学になると思うので、講義についていくので精いっぱいのはず。そこで母の介助をしながら、いまのうちに論文を仕上げておくわけです。すでに半分ほど書き終わっているので、おそらく2年もあれば論文として仕上げることができるのではないかと考えております。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
「公演とレビュー」(2001年4・5月号)に掲載された『楽屋』と『ああ堤岩里』ソウル公演に関する劇評「俳優に重きを置いた韓日交流の2つの公演」(許順子)を翻訳し公開しました。
『釈迦内柩唄』ソウル公演に関する朝鮮日報1989年12月20日付記事「しっかりした構成、言語障壁をこえて熱い人間愛の交感」(ユン・ホンミ記者)の翻訳を見直しました。
劇団昴のソウル公演に関する東亜日報の1979年10月31日付記事「日、昴劇団公演の反応と展望」をTheatre Reviewsに翻訳・公開しました。昴のソウル公演に関する韓国側の多様な反応を知ることができます。
今日はかなり冷えるので、能登の地震被災者のようすが心配。母の郷里は能登半島の付け根に当たる石川県羽咋郡。地震の起きた当日、郷里の幼友達に電話を入れたらしい。母の話では友人の住む屋敷はなにごとも無かったが、分家では屋根瓦がぜんぶ落ちたらしい。雪国なので屋根瓦は屋根につなぎ留めるのが習わしだが、分家はそれをやっていなかったらしい。母はいま住んでいる奈良には原発がないので安心だと言うが、たしか近隣の木津あたりに小型の実験炉があったはず。尤も、原発が近くにあろうと遠くにあろうと、いったん事故が起きればその影響を受けずにはすまされないのだが…。
ウクライナで原発事故が起きた時はちょうど仕事で米国メンフィスに滞在していた。現地の米国人たちがソ連で核爆発が起きたと話していたのをまったく他人事のように聞いていた。6月のあたまに日本に戻ったら、チェルノヴィリがけっこうな騒ぎになっていて驚いた。しかし日本では電気の需要がどうのこうので、その後も原発は増え続けた。電力不足が理由で原発が必要だというなら電気を使わないように心がけようと思い、その年の夏から本格的に電気使用量の節約をはじめた。「冷房は人類の敵」というツイッターの看板文句はこの時に考えたものだ。電気の使用量を抑えようという意味と、冷房は体に良くないという意味を重ねたもの。もともと冷房は嫌いだったので、いまでも室温35度までは冷房なし&扇風機のみで過ごせる。とは言うものの、若い頃は「暑い=暑い」だったが最近は「暑い=だるい」に変わった。いつまで冷房なしで夏をすごせるか…。^^;
韓国演劇と出会ったのは1986年の夏、韓国語を学ぶために3か月の日程でソウルに滞在したときのことだ。当時は韓国語学習を始めたばかりでまともに聞くことも話すこともできなかったけれど、それでも「話のタネ」にと思って『危機の女』(ボーボワール作/林英雄演出)や劇団76(チリュク)の『観客冒涜(本邦では『観客罵倒』)』(ハントケ作/奇國敍演出)など、いくつかの作品を観た。
サヌリム小劇場で観た『危機の女』はうす暗い舞台にテーブルと椅子、一人の女性がため息をついたりコーヒーカップをさわったり…という記憶しかないのだが、演出は林英雄(イム・ヨンウン)氏で主役は朴正子(パク・チョンヂャ)氏という、韓国演劇界を代表する演出家と女優による豪華な組み合わせだった(ことを後で知った)。けれど中身はまったく判らなかった。いっぽう、劇団76が空間舎廊(コンガンサラン)で上演した『観客罵倒』は話の中身はやはり判らないままに、しかし舞台と客とのかけあいが面白くて何度か観に行った。
ところで、私の通った延世大学校韓国語學堂は3か月のコースが終了するたびに、最上級の6級生の卒業を祝ってちょっとした「学芸会」を催す。学芸会では5級以下の下級生が歌を歌ったりして6級生を送り出すわけだ。1986年夏の「学芸会」で私のクラス(一番下の1級)は『ヘンな食堂』という芝居を、クラス全員の参加で上演した。「焼き肉(プルコギ)」ではなく「プルコッキリ(焼き象)」というメニューのあるヘンな食堂を舞台にした寸劇で、この作品で生まれて初めて演出というものを経験した。戯曲はクラスメートの書いたものを私が勝手に改作したのだが、原作者がおもしろいと喜んでくれたので上演の運びになった。小道具や衣装などをみんなで手分けして作り、通しの練習は一度だけだった。しかし舞台は予想以上にスムーズに進行し、上級生たちからに大いに受けて「大賞」を受賞した。いい思い出になりました。
奈良盆地は讃岐平野と並んで雨の少ないところですが、そのためにあちこちに灌漑用のため池があります。それらのため池は冬になると水を抜いて、堤の点検や補修を行うらしいです。写真はかつて「あやめ池遊園地」の中にあった「あやめ池」です。
私は2000年2月末に日本を離れて韓国に移住しましたが、じつは日本を離れようと決めたきっかけは1995年1月17日の神戸地震の際に起きた事件でした。その事件とは、スイスから飛んできた救助犬チームを「動物検疫」を理由に足止めしたことです(詳しくは日本救助犬協会をご覧ください)。内閣府の記録「阪神・淡路大震災教訓情報資料集【04】諸外国からの救援」には、「当時の日本は救助犬の認知度が低く、日本側の受け入れ体制が整わなかった」とあります。しかし私は「この国は人の命よりもシステムを維持することが重要」だと考えていると判断しました。そこで荷物をまとめて日本を離れ、世紀末の韓国へ旅立ったわけです(この「亡命生活」は父母からの帰国要請で2019年10月で終わりました)。今回の能登半島の地震に対する政府の対応を見ていますと、ますますこの「人命軽視システム優先」傾向が強まっていることがわかります。なぜこの国は人の命を大切にしないのでしょうね…。
戦後日本演劇のなかから朝鮮人・韓国人の登場する作品を紹介するページを計画中です。これまで日本映画に描かれた朝鮮人・韓国人に対しては多くの方が論評や分析を行ってきました。しかし演劇作品はまだ手つかずの状態だと思います。いずれ本などの形になると嬉しいのですが。
今年は年明けからとんでもないことが続いております。石川県の被災者に対する救援が遅滞なく行われることを願っております。
昨年、演劇雑誌『演劇会議』に「日・韓現代演劇交流抄」を3回連載したところ、思いのほか好評を得ました。これに気をよくして、もういちど日・韓演劇交流に関する情報を古巣のここFreeWEBで公開することにしました。管理人さま、またお世話になります。
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