演劇を出会いの芸術だと言う。ソウルと東京と北京が、それぞれ一編の演劇をもってソウルへ集まった。名付けてベセト演劇フェスティバル。同じ時期、インドネシアではアジア・太平洋経済協力体で国家のトップらが会合して同じ服を着て会議を行うように、演劇と演劇人らの出会いに対して疑問を投げかけてみる。
一方では演劇人らが出合い、別の一方では呉泰錫(オ・テソク、1940〜2022)の『白馬江、月の夜に』と孫ヂンチェクの『呉将軍の足の爪』と何冀平(Jiping He、1951〜)の『天下第一樓』と鈴木忠志の『リア王』が互いに出会う。目的は互いに競いあうのではなく相互交流だ。
この演劇祭に対しては各国演劇人らの目的は同一だろうが、姿勢はあまりにも異なる。韓国は3国のあいだにあって過去の加虐と傷を語りながら、これを検証してこそ理解と和解の未来を拓くことができるという。これを演劇が担わなければならないと語った。
中国は最初から、3国がたがいに隣接国家として芸術は血縁関係を帯びており、中国の劇芸術が数百年間アジア演劇に影響を与えてきたと言う。この力で世界演劇にも影響を与えるだろうと主張する。
日本は世界的に共通する環境を成立させるところに動物性のエネルギーを鍛錬し、人間の美しさを確認していくことが国家と民族を超えて演劇と演劇人の共通の事業だと語る。このように、韓国は過去の痛みを、中国は自分自身の現在を、日本は世界性の経験を未来時制で表現する。これは3国の差異であり、演劇の反復だ。ベセトはこの反復を照明する場だ。
これを証明するものが作品だ。『白馬江…』と『呉将軍…』は市民統治と戦争の痛みと過去の歴史を忘れずにいることを語り、『●』はオリグイ屋の『』を掲げて中国の繁栄と未来が停まらずに続くことを雄弁し、『リア王』は遠くにあるシェイクスピアを日本人の体の中に引き込んで体験する。
そしてこのような過程を拒否することなく洗練されて行い楽しむ。
おまえと私を区分することなく結論的に痛みを語ることから重くなり、自分自身を語ることから堂々とし、境界の無いことを語ることから簡単で軽くなることを何ゆえに演劇のせいだと言うのだろうか。