『うそつき女、英子』(ふじたあさや作・演出、ウネンナム小劇場、1995年11月17日〜12月17日)はわれわれの伝統演戯であるパンソリとクッ(祭祀)の形式を借りて、われわれの歴史に現れた一人の女性の受難を見せている。
植民地時代の貧しさのために日本に売られていかねばならなかった女性、そして国が滅びたことから日本軍の慰安婦役割をしなければならなかった女性。ヨンヂャという自分の名前を忘れ去り、カネコエイコという名前で生きなければならなかった女性。しかしヨンヂャは解放されても、自身の恥辱にまみれた過去の生を補償されなかった。
貞操を失ったヨンヂャはむしろ女性としての人間的権利を喪失し、自身の過去を隠して長いあいだ二重三重の苦痛を耐えなければならなかったのだ。
さいきん挺身隊問題が再び表面に浮上している。しかし今回はヨンヂャの過去の行為の痕跡が、自身ではなく他人によって拒否されている。自身の恥部をあらわにしたくない加害者の日本がヨンヂャを嘘つきに追いやって、ヨンヂャと挺身隊はもちろん、自身の過誤と過ぎた歴史じたいを否定しているわけだ。そしてまさにこの地点で、ある日本人の目に映った自己反省の所産として、この作品が持つ意味が新しく提起された。まさにわれわれの過去の生と苦痛が日本人の視角で、われわれの伝統的演戯形式を借りてはたしてどのように表現され得るのかという点だった。
なにもない舞台に天井から、数多くの女性たちの苦痛を象徴でもするかのように、へその緒のような血の染みついた縄がずらりとぶら下がっている。そして舞台前面の壁一面を挺身隊問題を扱った新聞が覆っている。そしてモノトーンの単純な境界で区分される舞台空間のなかに、劇中の空間と演技者の歩調を合わせてくれる鼓手の空間が分けられている。
劇は年老いたヨンヂャ(キム・ウニョン役)が自身の過去を否認しつつ始まる。以後、公演はさながらパンソリの一人劇のように、ヨンヂャが鼓手のチャンダン(訳注:リズム)に合わせて自身の過ぎ去った生を演技したり、あるいは直接説明する方式で進行する。
この作品は表面的にはわが国の伝統的演戯であるパンソリの叙事的構造とよく似ている。しかし根本的には差異点を持つ他ない。それはこの作品がパンソリとは異なり、終始一貫して高潮した感情と情緒を維持しているためだ。
もちろんパンソリにも高潮した情緒を見出すことはできる。われわれの伝統演戯におけるそのような情緒の高潮は、すぐさま喜劇的弛緩によって緊張が解消される。しかしこの作品にはこのような緊張の弛緩と解消は見出すことができない。ヨンヂャは終始一貫、長く引きずる長吟と高潮した抑揚と語調で、自身のハン(恨)と憤怒の感情を直接観客に伝達する。
この作品が観客に深い情緒的衝撃とそれによってある告発を意図しているという点に、このような原因を見出すことができるが、それにも拘わらずこの作品からあらわになるこのような高潮した感情と情緒は多分に日本的だ。歌舞伎から伝わってきた日本特有の誇張された感情と、高い声と抑揚で観客に挺身隊の問題を感情的に受け止めることを強要しているのだ。
しかし現在のわれわれに必要なことはこのような高潮した感情ではなく、むしろ冷徹な理性と判断力ではないだろうか。結局この作品は冗長で散漫な内容を、単調な構成と演技を通じた高潮した感情で伝達しようとする。しかしわれわれがこの作品に究極的に期待するものは、挺身隊とそのことによる一人の女性の苦痛にあふれた生に対する真摯な省察だ。しかしこのような女性のハンは、唐突に一場のクッ(祭祀)で解消されてしまう。けっきょく省察は観客の役割として残されるわけだ。