≪Theatre Reviews
「此岸と彼岸の境界、循環する因縁の鎖」
劇団ローヤルシアター『月は美しくもあれ』/シン・アヨン(演劇評論家)「韓国演劇」2000年1月号

日本文化が押し寄せている。漫画と映画、そして歌謡など。われわれの社会のすべての分野で日本文化の影響がしだいに解放され拡散していく趨勢にあるならば、演劇もまたこのような影響から自由ではいられない。そのような兆候をわれわれは日本演劇の翻訳公演である『月は美しくもあれ』(井上ひさし原作・キム・スニョン翻訳)を通じて診断してみることになった。

この作品は19世紀末、日本の貧しい樋口老婆(チャン・ヨンイク)の家を背景にしている。二人の娘とともに暮らしている樋口老婆の家に、まいとしお盆の時にこう(イ・チェヨン)とやえ(カン・ヂウン)が訪問することで作品の劇的展開が起きる。十余年にわたる彼女たちの訪問を通じて、彼女たちの生と変化が現れれることになる。このような単純な構成を複雑にするのは、この家を訪問する者が生きている者だけではないという点だ。恨みを残して死んだほたる(ソン・ヒヂョン)もまた彼女を訪問し、なつこ(ソ・ミヨン)と言葉を交わす。この家の相続戸主であるなつこは、生きていても死んでいるのと変わらないと考えることで、やはり生と死の境界線にあり、これによりほたるを見ることができるわけだ。

このように多様な生を生きていく女たちが見せる生は、さながら一つの長いストーリーのように絡んでいる因縁の鎖だ。かつて金持ちの娘であったこうは夫が事業に失敗し、同時に寡婦となる。やえは実の兄を死に追いやる判事の妻となる。そしてある瞬間に売笑婦に転落する。こうの新しい夫がやえに誘惑されるや否や、たがいに恩讐のあいだとなり、ともに死に至る。自身の怨恨をはらすことができずにさまようほたるもまた恩讐をさがして、彼女の長い怨恨の因縁のなかになつこもまた除外され得ないことを知る。けっきょくしっかりと繋がっている因縁の糸の中で、自身の怨恨をはらすためには世の中すべてを恩讐の相手としなければならない状況に逢着する。

このような因縁の強い呪縛の中でこの作品が言おうとすることは、なつこの生を通じて現れるようだ。自身の内的要求と長女としての責任感のあいだで葛藤しながら、けっきょく自身の生を犠牲にしてきたわけだ。しかしそのような体面と常識を守って暮らすことが、はたしてわれわれの生にどのような意味を持つのだろうか。

なつこに伝統的な女性としての生を強要してきた母もまた、死の後にはひとり残った末娘に向かって、世間の耳目に拘泥するなという言葉を投げかける。けっきょく生とは人の耳目を意識しながら暮らすには、あまりにも刹那的で瞬間的であると考え始めたのだろうか。

このようなことから、この作品のメッセージはわれわれの情緒と近くて似ている。此岸と彼岸は別々に存在するものではなく、互いに繋がっており、むしろからまった糸のようにひとつの輪としてつながっている。生者たちの話で始まり、けっきょく死者のみが残ることになる作品の構成もまた、時間の流れとそれを通じた、ある循環する輪をあぶりだすものだと言える。このような思惟の方式のみではなく、この作品の劇的効果のために借用された遊びと唄なども、すでにわれわれには見慣れないものとは言えない情緒と形式で訴えてくる。日本的な衣装と扮装、行動様式は観客に異国情緒まで呼び起こし、興味をさらに倍化させている。翻訳劇の形式でありながら西洋演劇とは異なり、日本演劇に対してより関心を持たせる点もまた、まさにこのためだろう。