≪Theatre Reviews
「日本に韓国演劇の水準を深く刻印」
劇団サヌリム『ゴドーを待ちながら』劇評/キム・ミョンファン(朝鮮日報文化部次長)「韓国演劇」2000年1月号

1999年はどの年よりも韓国演劇と日本演劇が玄界灘を忙しく行き来した年だった。日本演劇の韓国国内公演も何回かあったし、われわれの演劇も日本の招請を受けて日本公演を行った。その中でも去る11月21日から23日まで、東京の杉並区セッション杉並ホールで3回にわたって行われた劇団サヌリムの『ゴドーを待ちながら』の日本初演は、韓日両国文化公演交流史に記録されるべき意味ある事件だった。

公演団ともに日本に渡り取材してきた筆者は、今回の訪日公演がこの間しばしば行われていた韓国演劇の日本公演とは区別される、格別な意味を持つと感じた。従前のように韓国伝統公演様式の色彩を打ち出して、日本人たちに「たいへん異色的」という感じを抱かせる側ではなかったためである。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』は1953年にパリのバビロン劇場で初演して以来、今まで全世界で上演を継続している不条理劇の古典であり、日本でも多くの劇団が公演してなじんだレパートリーであった。にもかかわらず、劇団サヌリムの『ゴドーを待ちながら』日本公演は、日本の演劇関係者たちに、日本演劇と韓国演劇を赤裸々に比較してみる貴重な機会と深い印象を残すことで、日本文化界に韓国演劇芸術の水準を深く刻印させる重要な公演となった。

30年間公演されできた『ゴドーを待ちながら』は劇団サヌリムと林英雄には記念碑的な作品である。ベケットの出生地ダブリンを始め、アビニョンやパリなどでも公演されたサヌリムの作品が、この間日本では一回も公演されなかったという事実を筆者はいぶかしく思う。それほどまでに文化的に「近くても遠い国」だったわけだ。日本訪問公演はそのような距離を狭めるところに相当部分寄与した。

今回の公演は韓国で『ゴドーを待ちながら』を見て深い印象受けた、石澤秀二杉並区文化振興協会理事が積極招請して催された。よしんば東京のひとつの区に属する団体が主催したものではあるが、日本の区というのはわれわれの市に劣らず独立的活動を活発に行う行政単位である。そういうわけで『ゴドーを待ちながら』が日本に上陸する前から、日本言論界と文化界は関心を見せていた。

日本の権威紙である朝日新聞は11月13日付『ゴドーを待ちながら』の日本公演プレビュー記事を、文化面のトップとして、われわれを早くからうきうきとさせた。「奇妙で美しく現代人の本質描く」という題目の朝日新聞記事は、創団30年を迎えたサヌリムはこの間11回にわたってこの作品をソウルで公演してきており、アジア最高のゴドーと評価されている」という賛辞を贈った。

この新聞もまた94年に韓国で同公演を観覧した演出家石澤秀二が「笑いで満たされていながらも透明な美しさがある。このように面白くて内容が忠実な『ゴドーを待ちながら』が他にあるだろうかと驚いた。世界でも最高水準であるだろう」と語ったとする言及まで紹介し、大きな期待を見せた。日本演出家協会も公演直前である11月5日から7日まで両国シアターカイで「韓国演劇に関する特別セミナー」を開き、『ゴドーを待ちながら』の演出者林英雄と若い演出家゙廣華を招待するなど、韓国演劇に対する関心を表明した。

『ゴドーを待ちながら』東京公演は、このように高潮した雰囲気の中で幕が上がった。最初の日本公演という意味が抱かせる緊張感も相当なものだろうが、5名の俳優たちはこの30年間公演を経験して、研ぎ澄まされた作品の完熟美をよく見せた。演出を任された林英雄が「ゴドー30年公演の間の出演者中、最も良いアンサンブルを自慢する俳優たち」と言わしめる俳優たちは、その磨いてきた技量を見せつけた。そこに卓越した照明テクニックなど、日本の舞台メカニズム特有の洗練美まで加勢することで、杉並ホールで上演された『ゴドーを待ちながら』は、数多いサヌリムのゴドーのある頂点に上ったという感じまでいだかせた。

とある田舎町、痩せさらばえた枯れた木が1本かろうじて立っている舞臺。いくら待っても来ないゴドーを、また待っている風来坊たちの、実のない言葉と身ぶりという、待つことの苦痛を逆説的に表す身じろぎのようなものである。なかなか笑うことのない日本の観客たちが、何度か笑いを爆発させた。来ることのないゴドーを待つ二人の男を、幽かな月の光が照らしながら幕が降りるやいなや客席の拍手は熱かった。3日間の公演中、560席の客席が毎回80%ほど埋まったので、日本側関係者たちは「日本でも演劇公演場の客席を60%以上埋めることは容易ではない」と言い、大変な反応だとした。

初日の初回公演から『ゴドーを待ちながら』を見るため押し寄せた日本の権威ある評論家や演出家たちは賛辞を送った。それも儀礼的な挨拶ではなく、どの点を高く評価したのかという具体性を帯びた評価だった。著名な演劇評論家である朝日新聞の扇田昭彦編集委員は、記者の質問を受けてこのように答えた。

ロンドンでも見たし、日本のものも見たが最高だ。日本のゴドーはたいがい原作を変形して行うが、サヌリムのゴドーは原作に忠実だ。それでいながら、日本版ゴドーよりもこの作品は内にある笑いの情緒をよりよく生かしている。

彼らはうまく生かしていると賞賛した「この作品の笑いの情緒」とは「涙が流れる笑い」である。筆者は扇田氏の話を聞きながら、ふとベケットが描き出した風来坊たちの情緒が、韓国人の恨(ハン)あるいは伝統的な情緒と似ているのではないかという思いをそっと浮かべた。

一般観客たちの反応もよかった。観覧が終わった後に得たアンケートの一部を日本側がサヌリム劇団に公開したが、演劇が良かったかという問いに、50人中43名が「良かった」、6名が「普通だ」、1名が「良くなかった」と答えたという。

ゴドーの公演は、韓・日演劇人たちの交流の広場でもあった。初日の21日夕方、杉並区のマツヤで開かれたレセプションには日本劇団協議会会長、瓜生正美前日本劇団協議会会長、ふじたあさや副会長、演出家佐藤誠、劇作家太田省吾など、日本演劇界の主要人士たちが多数参席して、両国劇団の相互訪問公演などの共有方案を活発に論議した。レセプションで両国演劇人たちは、二国の演劇交流がもう少し拡大成さなければならないということを最も大きい話題とした。「われわれの国立劇団が日本の演劇「友人たち」を公演したが、次は日本の新国立劇場が韓国演劇を公演して回答する番ではないか」というわれわれの話に多くの日本演劇人がうなずいた。

公演の成果は演劇界にのみ与えたのではなかった。日本の毎日新聞が異例的に23日付1面コラム「余禄」で『ゴドー』に対する所感は、『ゴドー』が韓国文化に対する日本人たちの閉じ込められた認識を、多少ではあるが動かすある衝撃を与えたのではないかと感じさせた。主要な部分を引用すればこうである。

サミュエル・ベケットのこの演劇は東京でも外国でも何度か見たが、このように面白くて見たことはない。…どこにも風の吹き込む余地のない。俳優たちは韓国語ではセリフをしゃべったが、韓国語の響きがこのようにを優しく美しく美しいとは知らなかった。ゴドーは神(GOD)という解析もあるが確実ではない。もう『ゴドー』を繰り返し上演する韓国の人々にゴドーとは何だろうか。南北の平和統一であるかもしれないし、精神的なものであるのかも知れない。韓国の人々が何かを希求していることだけはよく判る。ところで日本に果たしてゴドーは何であろうか。ゴドーを待つ人が今いるのだろうか。

この新聞の名コラムである「余録」には、日本の演劇の話はほとんど出てこないのに、韓国から渡ってきた『ゴドーを待ちながら』の話が言及されたことに対して、林英雄代表まで驚いたという。12月7日には朝日新聞がまたわれわれを驚かせた。この新聞が日本演劇評論家5名に依頼して選定した「今年最高の公演」特集に、サヌリム『ゴドーを待ちながら』が含まれていたためである。5名の評論家が「今年最高の公演1ベスト5」を選んだこのリストで、『ゴドー』は大笹吉雄ら2名の評論家が重複して選定する栄光を得た。この最高演劇の中で重複して選定された場合は『ゴドーを待ちながら』と同じく2名の評論家が選んだ日本の演劇『●●●の女』だけであった。

『ゴドーを待ちながら』の日本公演は、韓・日両国が相手の公演文化の水準を確認して歩み寄る重要な契機となった。日本の大衆文化が2次にわたって解放されながら醸成された「開かれた雰囲気」の中に、両国文科人(特に日本の文化人)たちが、この間持っていた相手の文化に対する漠然とした偏見からともに抜け出し、相手国の文化の基盤をより深く知ろうとする文化的渇きが大きくなっているのではないかという思いを『ゴドー』公演で感じた。