幼い頃に眺めた世界はほんとうに明るく澄みわたっていた。良いことといけないこと、善良なことと悪いこと、しなければならないこととやってはいけないこと…。しかし善良であることのみが能ではないこと、一生懸命努力はしたが必ずしも得られないということ、愛は決して美しいばかりではないということを知ったとき、世間は突然混沌として歩み寄る。
北村想原作の『鯨のすむ漁港』(原題『ねじと振り子』)は一種の成長戯曲だと言える。少年クレオはまいにち街路灯に灯をともし、そこにぶら下がっている時計のぜんまいを巻く仕事をしながら大きな使命感と自負心を感じている。ある日、見慣れないカンタレンタンが持ってきたオルゴールを動かすためにぜんまいを巻いたが、そのまま街全体が暗黒の中に閉じ込められてしまった。街路灯はこなごなになり、カンタレンタンは殺され、都市は混乱の迷宮となってしまう。クレオはそのすべての出来事が自分のせいだと考え、ひどく悩む。しかし賢者のように現れた乞食が、まちがった世界はだれか一人の責任ではなく、責任というのは精巧な歯車のように連結しているという新しい認識を投げかける。カンタレンタンの依頼を受けた修理工が到着し、オルゴールからぜんまいをはずし、街路灯に新しい電球をつけたとき、世界は嘘のようにまた平和と安全を取り戻す。
クレオのもっとも大きな錯覚は自身を世界の中心にあると考えることだ。自身が世界のぜんまいを巻くと世界が動くと考えるのだが、時計が止まっても時間は依然として流れ、世界は行こうとしていた道を進む。クレオがぜんまいを巻いて振り子を動かすが、世界が彼にそんな仕事を与えたという事実、すなわち世界が彼を動かしているという事実をいまだ悟れなかっただけだ。公演中に壁面に投射される無限の銀河系と恒星のイメージは、この巨大な宇宙の中で人間がどれほど微々たる存在であるのかを象徴する。
キム・ドンヒョンの演出はこの作品によく合って端雅で叙情的だ。童話的な作品をとてもきれいな真昼の夢のように包む。丸い形態の舞台と時計、時計の針と恒星の動き。自転車の車輪、歯車などはこの作品を円形と回転のイメージで満たす。とまることなく回る世界の中で、大きく小さい混乱が起こってはおさまり、人間は小さな砂粒のような存在として生きていくのみだ。童話的な雰囲気を意識したせいか、度過ぎて子供のような演技スタイルに退行した点が、美しい夢を見ることを妨げる面がなくも無い。俳優たちは各人物のイメージにあわせてキャスティングされたが、役割に充分融合できず、全体的なアンサンブルもまだ充分に熟れていなかった。
世界を眺める作家や演出家の視線は究極的に暖かい。不良少女として烙印を押されたが、クレオの信頼に勇気を得る馬チルダ。いつも職を失うが希望を失わないマンディ姉妹。食べ物を求める代わりに完全な精神的自由を謳歌する乞食。すこし遅れたが、自身の責任を果たそうとやって来た修理工などが、しかしこの世界を生きる価値あるものと感じさせる存在だ。キム・ドンヒョンは彼らにはつらつとした生命力を与え、作品全体を明るく明瞭にしていく。
昨年の『寿歌』に続いて『鯨のすむ漁港』を通じ、この間韓国に紹介された鈴木忠やつかこうへい、新宿梁山泊や大田省吾などとはまた異なる、北村想だけの独特の演劇美学を充分に感じられた。叙情的で幻想的な雰囲気の中に繊細なイメージを縫い取っていく彼のスタイルはとても文学的でありつつも演劇的だ。