≪Theatre Reviews
「百日紅のある舞台/松葉杖のオイディプス王」
劇団ク・ナウカ『オイディプス』居昌国際演劇祭/イ・ヂフン(劇団TNT代表、チャンウォン大学教授)「韓国演劇」2000年10月号

名勝ススンデ渓谷の観水楼と書かれた古い楼閣に入ると、庭の奥深くに瓦屋根の家が一軒建っている。庭の右側には大きな青桐がそびえ、舞台はこの家屋の前に風雅に設置されていた。赤い花が盛りの百日紅はその枝を舞台の上にさし伸ばし、自然に舞台の一部となっていた。水と花と朝鮮家屋。そして夜空の星が調和をなす最高の舞台だった。

居昌国際演劇祭のこの日の夜のレパートリーは、日本のクナウカ『オイディプス王』(宮城聡演出)。朝鮮中葉の韓式家屋である観水楼を背景に、日本の劇団が見せたギリシア悲劇はそれぞれ異なる三つの要素が演劇という衣装をどのようにまとって現れるのか気になった。

『オイディプス』というのは「腫れた足」あるいは「突き通された足」という意味を持っている。彼の出生の秘密をとどめた名前だ。座っているオイディプス。彼は松葉杖によりかかって立ち上がり、とても不安定な歩き方をする。足には厚い足袋を履いて足を隠している。彼の足に焦点を合わせて解いていく独特の公演だ。オイディプスはいつも堂々と立っている姿であり、自身の苦痛を抱き込んで耐える偉大な姿だ。ところがクナウカのオイディプスは、足を引きずり不自然に体をゆらしながらよろめく。彼の不安定な歩みと身動きは、彼の身分が変化していくことを視覚的に見せるものでもある。自分が誰なのかが明らかになるとき、彼は地にうつぶせになり、転がりながら足をふり上げる。足から足袋が脱げるやいなや、足には突き通された傷跡があらわになる。きわめて異なる姿のオイディプスだ。最後の場面。両眼から血を流しながら現れた彼はクリオンの前で倒れてひざをつき、衣服のすそをつかんで哀願する。みすぼらしくて悲惨だ。演出家は骨折って英雄の姿を除いてゆく。彼のオイディプスは失敗した人間であり、その人間的な痛みと悲惨さが刻み込まれる。

この最後の場面のオイディプスには雨にうたれて身悶えする老いたリアの姿が重なる。我執と驕慢の結果として苦痛を味わう人間の惰弱な姿を演出家はともに描き出す。ところでこの最後の部分はシェイクスピアであまりにも色濃く誇張される。オイディプスがよろめきながら退場するやいなや、あいた彼の玉座はクレオンが占める。クレオンの衣装はすぐさま現代の衣装 - 軍服に代わる。『アンティゴネ』の独裁者クレオンの姿だ。軍部クーデターで王となったクレオンの姿を暗示して、劇は終わる。シェイクスピア劇のエンディングを連想させるこの終結は討論の余地を残す。

台詞を語る俳優と動作のみを行う俳優に別れたこの作品は、まるで日本の伝統人形劇である文楽を連想させる。伝統の衣装や髪型、装身具や小道具、音楽もまた日本的なものをぷんぷんと匂わせる。

オイディプスとイオカスタの情事場面は耽美的であり、また舞台の活用に秀でたものだ。劇的展開にも無理が無かった。オイディプスは前舞台から観水楼母屋の板の間にあがる。正面から見るとさながらシェイクスピアのinnner stageのように見えるが、その板の間にイオカスタは正面に立って彼を迎える。イオカスタは服を脱ぐ。胸が現れる。二人は立った姿勢のままで愛を交わす。朝鮮家屋の広い板の間で、着物姿の半裸の二人が抱擁する場面は美学的絵画だったし、そのまま演劇的だった。日本の伝統劇様式で消化されたギリシア悲劇は劇場と良くあって、異彩を放った舞台だった。