「まんいち写真の発明後に美術が変化したと認めるならば、演劇もまた映画とテレビの出現以後変化したことだろう。おそらく教育的機能といえば映画やテレビがより有利であろうし、こういうことから演劇は使い道の無い妨害物をからにして、演劇固有の効能でのみ輝くべきであり、まさにその効能をもとめねばならない」
『女中たち』の作家ジャン・ジュネの言葉だ。ところで太田省吾も同じことを言っている。「写真の発明や発展と絵画が無関係ではないように、演劇も映画によって自身が何であるのかを振り返らなければならなかった。そして映画より何倍もアプローチしやすいビデオの発展はさらに強く演劇の自意識を促している」
「演劇固有の効能」であれ「演劇の自意識」であれ、それは演劇だけの何かを言う。ジュネが望んだものは演劇の詩的効能として、すでにアルトーが主張した新しい演劇言語と変わるところは無い。説明ではなく直接観客の感覚を揺るがす言語がまさに詩的言語であり、新しい言語とするとき、大田省吾が演劇の立つ処であると言った「生の時間」、すなわち「いま、ここで」がそれに触れていることはもちろんである。
『更地』は「空の地」を意味する。結婚して二人の子供をなし、その子らを自分たちが出会った年齢以上に育てた夫婦が窓枠と流し台、壁石の痕跡のみ残した更地を訪ねてくる。彼らは過ぎ去った生をひとつひとつ記憶することで「いま、ここ」によりを戻そうとする。無意味だった生の片鱗が重要な意味を付与される瞬間だ。
まったく劇的でない些少なことが詩のように強力な意味で近づいてくる奇跡。「ドラマというものは人生で退屈な部分を削除したもの」という通念に反対し、退屈なほどにゆっくりと見せる大田省吾の劇である。これにおいて「遅さ」を強調した『水の駅』と「些少さ」を刻み込んだ『更地』が同一の脈絡であることをすぐに知ることができる。
韓日演劇人の合作で作られた今回の公演は、何よりも緻密さが良かった。日本人と韓国人が対をなした翻訳から、衣装や道具、音楽や照明などのスタッフから演技にいたるまで、長い時間をかけて縫いこんだようで、縫い目に努力と真心が縫いこまれていた。
特に節制した言語と急くことの無い動きは、この間金亜羅などが演出した何編かの詩的演劇に馴染みのように出演した南明烈(ナム・ミョンリョル)はもちろん、韓国芸術総合学校演劇院の演技教授として身体指導に強みを持つキム・スギにも、なにより自身の真骨頂を誇示できる良い機会となった。
とはいえ、穏やかで美しいが俳優たちが若すぎて惜しかったという一部の指摘はとどめておくべきだろう。いずれにせよ演劇は無いものを見せるものであり、その格差が大きいほど詩的な力も増加するものだ。すなわち観客の想像力さえあればナイフよりも木のナイフが、木のナイフよりも紙のナイフがより詩的であり、そもそも実体の無いことが最上だ。俳優と作中人物の年齢差が詩的なエネルギーに転換される境地までは至らなかったことを示唆する。
しかし今回の公演で15秒だけ待てばいくら些少なことも意味の付与が可能だという最も重要な教えを充分に、それもたいへん楽しく伝えられた。この作品によろこんで賛辞を贈るのはこのためだ。