≪Theatre Reviews
「幸福で充満した幸福な舞台」
劇団道化座『幸福』金美都(演劇評論家・ソウル産業大学教授)「韓国演劇」2000年10月号(p92)

愛の感情は緊張とおののきが伴うのに対し、幸福の感情は弛緩と平安さをもたらす。日常で感じる些少でこまごました幸せ。そんな幸福感を見せてくれる演劇。その演劇を見るあいだはとても幸せな時間となった。

文芸振興院特別招請で来韓した道化座の『幸福』は軽快な漫談劇スタイルで、公演のあいだじゅう笑いの場を作り、そのあいだあいだに涙をなん粒か混ぜておく。この作品の作家であり演出者である須永克彦は主演まで引き受け、自身の意図を遺憾なく発現する。舅と嫁の二人だけで暮らしている、けっして幸せではないような状況設定から驚くばかりの愛と感謝と幸福があふれ出る。

舅の大山桃太郎ははやくに妻と死別しており、精神的に2次大戦の後遺症を患っている。嫁のアキコ(馬場晶子:扮)は米国に長期赴任した夫と離れて暮らしている。春-夏-秋-冬-春と巡回する5個の場面構成は二人の関係が充満した愛で満たされていたが、舅の死で離別し、アキコが新しい生をはじめる展開過程と相応する。

不自然というほか無い二人の関係を幸福に維持する秘訣は明朗さと率直さである。彼らは相手に対する不満を、癇癪玉を破裂させるように話し、その瞬間に解いてしまう。愛情や感謝の表現はそれよりもより頻繁で愛嬌がある。性的な冗談までも愉快で冗談のように行き来する。ピンポンを打つようにすばやく行き来する台詞とユーモラスな動作があふれる演技は、舞台を始終健康な活気で一杯に満たす。

舅と嫁の幸せな関係を見守る近所の視線はやさしいものばかりではない。良しからぬ関係を疑心する隣近所の視線を避けるために、かれらは時にはうその喧嘩をする芝居を仕立て上げたりもする。じっさい、彼らの間には舅と嫁との関係を越える愛情の気流が流れている。舅は嫁を通じてずいぶん前に死んだ妻の姿を思い浮かべ、嫁は舅を通じて他国へいる夫に対する懐かしさをまぎらわす。重要なのは彼らが互いに感情を冗談のように明るく表現しながらも倫理的な線をこえることのない関係にうまく昇華しているという点だ。嫁が下半身の不自由な舅の用便を手伝うところの場面は、彼らの関係性の両面性をくらっとするほど美しく見せる。舅に痴呆症がおとずれ、あれほど大事にしていた嫁でさえ時に誰だかわからなくなるが、舅が嫁の腕の中で息を引き取るとき、嫁は自身を「あなたの娘、大山アキコ」と規定する。

舅が死んで後、アキコは夫と別れることにして、花で一杯の舞台を背景に旅立つ。彼女は夫に全的に頼りさえすれば幸福に暮らせるという過去の考えから抜け出たと語る。彼女にそのような独立心と自尊心を回復させたものはまさに過酷なさびしさの中でも剛直さと快活さを失わなかった舅だった。

この演劇は不幸な状況の中でも心がけによって、あるいは努力いかんによって幸福を掘り当てることができるという平凡な真理を悟らせる。台詞に依存した二人劇で、ともすれば単調になりがちな作品がところどころで演出される芝居ごっこと、豊富で多彩な行為に力を得て目と耳を少しも休ませてはくれない。二人の俳優の熟練した演技と隙の無い呼吸の一致がこの作品を絢爛とした諧謔劇に仕立て上げる。とはいえ、息つくひまも無くやり取りされる台詞を、舞台脇でほとんど同時通訳のように語る方法にはかなりの無理があった。