劇場の中に観客が入ると舞台の上、照明によってさらに白く蒼白に光る悪性になった白いかもめがまず眼に入る。それと同時に舞台反対側から客席に向かって、やや暗い照明の中から肖像画の人物のようにほとんど動かないひとびと…は誰だろうかという好奇心を刺激する。じっと観察してみると、それは舞台の上に鏡の中に映った観察者である観客自身の姿だった。この鏡は舞台装置以上のものとして、観察者に特別な意味付与の衝動を感じさせる。幽霊が登場するということを知っているからか、観客たちはこの鏡に映った自身の姿から幽霊を連想するほかないわけだ。そんな意図があるの無いのか判らないが、この演劇は観客を舞台の中に引き込んで、剥製になった希望(かもめ)、剥製になった俳優たち(幽霊)とともに一貫した形態で剥製にする特殊な効果を持っている。
劇中、チェーホフの作品は清水邦夫の『扮装室(楽屋)』に出てくるセリフの一部として実際には演劇の底辺に全般的にしかれている劇の重要な軸である。作家はチェーホフの『かもめ』のニーナという人物の演劇に対する執着とニーナ役の女優の演技に対する執着を並べて見せながら、役割の妙な重畳性をうまく生かしている。ニーナの最後のセリフを幽霊プロンプターと生きているプロンプターによってもう一度繰り返されながら、女優であるニーナという役割とその役割を遂行する俳優の役割、その役割をていねいにこなそうとしたがけっきょくその役割の手助けだけで死んだプロンプターの役割、そして死んだ後もその役割を遂行する幽霊の役割などが重なって重畳的な点がこの作品の卓越した部分だ。
プロンプターという役割選定は特異な劇的効果を作り出している。現世では自身の存在を隠さなくてはならないプロンプターは、死後に楽屋の幽霊となってみずからキャスティングする、はるかに自由な立場となる。しかし作品の内容と構造設定において俳優とプロンプターは運命的に決まっている関係だ。これは彼・彼女らの意思と無関係の、意思じたいがまったく通用しない社会の姿を描いたと見ることができる。この深奥な生の悲劇性を伝える方法として、死ぬ前にプロンプターだった幽霊らが集まる場(楽屋)を設定した点はあまりにも適切な戯曲的・演劇的選択だろう。現実の世界と幽霊プロンプターの世界は決して疎通しない世界であることを特異な方式で見せたのは、さながらギリシア時代の「運命的悲劇」を再現する演劇のひとつの方法であると言えよう。この方法は主に神を登場させたギリシア時代の悲劇より、また悪賢い人間を登場させたシェークスピアの悲劇よりさらに悲劇的だ。なぜならば人間を意のままに左右する神も登場せず邪悪な人間も登場しない平凡な状況で、プロンプターは生きては永遠にプロンプターであり続けるほか無く、死んでこそ解放されるということはより悲劇的に感じられるからだ。この演劇に登場する成功した女優の生もまた死んだプロンプターほどに悲惨なものとして描くので、人間の生とはどんな形態であっても悲惨であるという結論を自然に突出させる。
最後に、欲を言えば『扮装室』という演劇の中に、ひとつの役割に対するいくつかのバージョンが共存(たとえばニーナ役割に3人のバージョン)する特異さがあるが、これをより次元を高く構成していれば良かったのではないか。つまりいくつかのバージョン間の関係、あるいはまたいくつかのバージョンと借用されているいくつかの作品が、演劇全体の流れと関連して互いの違いが引き出され、その構造の中で有機的に関係を結んでいたならばさらにおもしろい作品となったのではないだろうか。