聞き覚えのある題名の再公演と小劇場で命脈をつなぐ演劇界には冬ごもりが長く感じられる。実に緩慢だったシーズンの最後には、新しい気流を載せた2編の公演(『扮装室』と『ああ堤岩里』)が視線を引き付ける。これらはこの間近隣という地形的位置が政治的あるいは心情的距離を縮めるところに寄与しなかった韓日文化交流の気象変化を雄弁に語るケースだ。作家/演出家/劇団代表としてそれぞれ自国演劇界の独歩的位相を樹立した彼らの間の芸術的交通が引き立って見える公演が『扮装室』だとするならば、『ああ堤岩里よ!』は歴史的苦痛を懺悔と和解で克服しようとする両国演劇人らのキリスト教精神を担保にする。これらは翻訳劇という運命を共有しながら、互いに相反する動きでやってきたわけだ。すなわち日本人作家の作品を韓国人演出家と俳優らが韓国語で公演したものが前者であるならば、後者は韓国人作家の台本を日本人演出家と俳優らが日本語で伝達した招請公演だ。近くても遠い隣国の古びた情緒を背負ったままで舞台上の出会いと分け合いを同時に決行したこれら2つの作品が、真正な交流と理解のためのまたひとつの分水嶺を期待する気持ちでこれらを見てみよう。
カリスマに代わる模範解答『扮装室』木花レパートリーカンパニーの『扮装室(邦題は『楽屋』)』(呉泰錫演出/木村典子翻訳/アルングヂ劇場)は、日本人批評家の西堂行人の『小劇場は死滅したか』(李康列訳、現代美学社)の出版で昨年に紹介された清水邦夫についに公演で相まみえることになったケースだ。1977年に東京で初演されたこの作品は作家がそれまで投身していた「時代に対する強烈なメッセージ」を盛り込んだアンダーグラウンド志向の演劇をたたみ、新劇に軌道修正を行う転換期の産物だ。すなわち作家が単身を宣言し劇団木冬社を設立した直後で、演出作業を自身の新しい領域に拡充させようとする熱望の初期に生産した作品だ。
清水はこの作品で叙情的含意を抱いた幻想のグロテスク(grotesquerie)で進入する。演劇を生者と死者の同一な所望を「執着」という命題で話題に乗せ、過去との断絶を模索する。清水の妙案は劇作家として足を踏み入れる機会の少ない伝統的に怪談の豊かな楽屋に対する好奇心を筆頭に、その場に劇的空間を設定することであり、かつて死を超越して存在する人間の「執着」に対する意味を看破したひとりの詩人への霊感だったことを告白する。
この特別な空間で、清水は20年間所望していた配役(『かもめ』のニーナ役)を任せられて頑としてその役に執着する俳優と、永遠のプロンプターとして生を終えることしかできなかったし、いまも現在進行形で俳優であることを渇望する亡霊たちを共存させる。現実と超現実との行き来が奔放なこの演劇で出会う4人の女優(A、B、C、D)は太平洋戦争以前とその後の世代で分離され、再び現在の人物らにつながっていく。ある日病院を飛び出してきてニーナ役を返してくれと愚図っていた若いプロンプター、彼女もまた死んで楽屋の先輩亡霊らと合流し、永遠にやって来ないであろう登場のために『三人姉妹』を練習するわけだ。
作家はプーシキンとホイットマンの慣れ親しんだ詩句を招待し、チェーホフで叙情的なムードを強化する戦略をとる。あるいはまた、作家は作品の相当部分を既存戯曲の場面を挿入する劇中劇の技法に依存する。これは本質的に虚弱なアクションの骨組み肉を付け、血液を供給する機能を果たす。言語と視覚的換喩で拡大されうるひそかな端緒を投じながら、新しい創造的寄与の余白を残すことも作家の処方箋だ。時には反復で緩くなった構成を克服する装置で、演劇の演劇に対する批判的コメントを挿入する余裕も楽しみながらだ。すなわち楽屋に同居する戦前と戦後世代の亡霊たちはシェイクスピアとチェホフを演技しながら繰り広げる、旧時代の翻訳とリアリズム伝統に対する激論がまさにそれだ。これは演劇史の過ぎ去った半世紀を貫通するイシューとして、作家自身の観点を示唆する絶好の機会だ。
しばしば予測を拒否する呉泰錫の舞台は『扮装室』でも例外ではない。まず『ロミオとジュリエット』(1995)以後はひさしぶりに接した他人の台本であり、そこに完全に演出の刀だけを抜くことにしたことからが尋常ではない。このことから、本人の作家的想像力を別の作家(代表的な例としてモリエールとシェイクスピアをあげることができる)の戯曲に投入しない演出を想像できなかった呉泰錫が、清水の台本をそっくりそのまま舞台に移したという印象は格別だ。この間、生と死の境を行き来しながら存在に対する思惟を激烈な詩的言説と演劇文法で暴いてきた呉泰錫の美学的な手管が優しくなったのはどういうわけだろうか?もしや時代と文化圏の差異が大きく開いた作品とライバルとなる同一文化圏の現存作家の作品を弁別するのか、でなければ歳月の流れとともに一人の芸術家の無意識な変貌だろうか?
カリスマ性の節制を演出の基本解法として解いていった呉泰錫の『扮装室』は、いかにもへりくだって近づいてくる。彼は原作に忠実な模範答案を出しており、観客を少し古びた楽屋に案内する。アルングヂ(劇場)の高い天井を半分ほどにして、フロアからひょっこりと上げた平台を観客の前に差し出しておく。観客と演技者を同時に照らす上段の化粧台と、平台の上で押し付けたりひっぱたりしながらあたかも小道具の機能を遂行する背の低い鏡台、衣装掛けと寝具は模糊とした原作の時代的背景に具体性を添える演出の視覚的選択だ。驚くべきことはこの間に呉泰錫がずっと使用してきた主観的思惟を通じてふるいにかけてきた伝統の視聴覚的表現と、ポストモダニズムの散漫な稚気が影をひそめてしまったという事実だ。問題は天井に向かって大きく開いた空間が従来の使い道を見いだせなかったり、あるいはその他の視覚的処理が特に意味を生産できないとき、演出の密度は減少するという事実だ。あるいは空間の配置と有機的関係を結びつつ、それにどうしようもなく統制されたりもする動線と登退場などの躍動性が失われる結果を伴うことだ。
呉泰錫が自身のカラーをはっきりとさせた地点は、劇団木花の俳優たちの素質に発動をかけてついに興のわくアンサンブルを成すところだ。演出はゆったりとした台本上のアクションを補償できる代案を俳優らに求めることに策定したように鋭利に俳優たちの力量を看破しており、ダブルキャスティングであるいは役割交代で緊張の守備陣を張る。外見上はニーナに背きつつ独特な質感の演技力を発揮するファン・ヂョンミンをはじめとする劇団木花の若いアンサンブルメンバー(チョ・ミヘ、チャン・ヨンナム、イ・スミ)は、瞬発力とよどみない身動きで彼らの役割を果たす。しかし作家が第2の創造者たちにとっておいた余白を演出がすべからく劇団木花の方式で案内するとき、行間の迷路は見つからない。これはこのような台本を後押ししてくれる年輪が蓄積された俳優のプールが無い劇団木花が避け難い宿命かもしれない。独特のカラーの女優四人組で舞台を埋めながらも性(ジェンダー)を超越する人間の共通分母を語ることができたのは、台本と一致する演出の堅実な観点だ。
演劇的逸脱が惜しい『ああ堤岩里よ!』フィクションの死角地帯を闊歩した『扮装室』とは異なり、『ああ堤岩里』(李盤作/チョ・サオク訳/高堂要脚色/内田透演出)は歴史的事実を素材にする。後者はすぐさま(米人の)アペンゼラーや(カナダ人の)スコフィールドなどによって暴かれたし、さいきん出版された大韓監理教(基督教大韓監理会)宣教師ウォルコックス夫人の日記(『サミル運動、その日の記憶』であらたに想起されもした日帝の蛮行のひとつ、すなわち「堤岩里集団良民虐殺事件」を劇化したものだ。そのような蛮行に対する反省の一環として、容赦と和解を願う日本演劇人らによって推進されたものが本公演だ。サミル運動81周年を祈念してすでに昨年3月に東京の在日本韓国YMCAで初演され大きな反響を起こしたこの作品が、今年はサミル節を期にソウルを訪れたわけだ。日本の右派の歪曲した歴史教科書の検定通過で論難をかもした時期でもあり、この公演は現実のアイロニーを増幅させるイベントとしても関心を集める。
歴史への客観的思惟を前提にした作家の李盤(イ・バン)は加害者と被害者を黒白に分ける図式から出発しなかったし、特殊な情緒を誘発しようとする意志を退ける。彼はまず1919年にサミル運動を前後して華城郡一帯で起きた、一連の独立運動と関連した事件を扱うことで想像の成分を添加してドキュメンタリーのきっちりとした情緒にひと息つかせる。そうしておいてプロローグとエピローグ以外に総12場のエピソディック構成で、叙事的接近を通じて客観性の枠を整える。堤岩里事件を公演で推進しようとする俳優らが、事件の現場を踏査して劇中劇を試みることをアクションの母胎としておきながらだ。
事件当時の1919年から今日の時点にまで拡大される事件と時間は縦横無尽であり、建築的な展開を逆行する。情緒的な陥没が割り込む隙間を作らないようにする叙事的意図だ。しかしそのような意図を裏切る地点が隠れており、これもまた作家の意識的な選択であろう。劇中劇を練習していた俳優らが配役に没入するとき、情緒的び距離を維持することが難しいことを打ち明けるやいなや(演劇そのものに対するコメントを挿入した『扮装室』と類似する面を見せる技法だが計算された効果は異なる)、その代案として一人の人間の生(深い信仰にも拘わらず加害者を赦すことのできない実在人物である田同礼(チョン・ドンレ)老婆に焦点を置くことで意見を集めるわけだ。罠はまさにそこにある。自身の生を語るチョン・ドンレ老婆の独白場面は客観的観客があやうくなる、叙情と憐憫の場であることを避けることができないからだ。さいわいなことに、このことで作品全体を貫通する叙事的観点がまるごと揺れることは無いとしても。
日本のブレヒト権威者で知られた内田透(日大教授)の演出は、叙事的骨格を持った戯曲と最初から幸福な出会いをする。「感動を抱かせる演劇」よりは「歴史に対する認識と意味を探求する作品」を夢見た演出は、簡潔な視聴覚的表現を選択することでそのような心のうちを比較的一貫性を持って公演に投射する。頻繁な暗転で場面を分節しながら、速度感のある登退場とナレーション、録音、映像で感情的な関わりあいを抑制する叙事劇の基本装置を受け入れたことは教科書的だ。このような演出の基本方向は時にテンポとリズムを加速して観客を助けるが、それだけに演劇的逸脱は惜しくなる。華麗な處容舞(チョヨンム)で加害者を容赦できない主人公の立場を力説しようとするラストシーンがそのような逸脱を狙ったが、力にあまって明瞭な解釈を誘導できなかった
舞台は上段左右と中央に掛けられた幕と、多様な場所として活用される平台を基本セットにした簡単な視覚的表現だ。赤い色と青い色を基調にした幕は劇中の事件を地形的背景と被害者らの名前で想起させる、強力な認識のコードで占める。その反面、舞台中央に白い階段で飾ったピンク色の平台のカラースキームは模糊とした演劇的記号として判読できる。独立宣言書の朗読と堤岩里の現場部分で簡単な映像を活用すること以外にはこれといった技巧を省略しつつ、舞台メカニズムは錘を俳優に移動させる。日本人らが解釈した韓国の時代衣装と小道具はわれわれが西欧の翻訳劇を演るときにありふれて犯す愚を再現するが、純粋な情熱と意図を読み取ることに無理はない。
所属を異にする中堅演技者らが意気投合したこの公演で光を放つ部分は演技だ。あべゆりこ(チョン・ドンレ)、よだえいすけ(ペク氏と指導者)、いまむらあきら(祖父)などが布陣されたこの公演は、巧みに調律された節制で作品に格調を加える。しかし経験とキャリアを異にする総11名の演技がすべて同じような演技を見せたのではない。一部の若い俳優たちから発見される、外皮にとどまる演技はアンサンブルに利とならない点だ。多くの地名と人名を韓国語で伝達しなければならない負担にも拘わらず、容赦と和解を前提にした真率な姿勢で公演に臨むとき、観客は彼らの方式で解いてみた歴史の輪を傾聴しないわけにはいかない。よしんば韓国語で書かれた作品を日本語で聞きながら舞台左側前面に高く掲げられた字幕を息つくひまもなく付いて行かなければならない苦痛はアイロニーであり、卓越した舞台芸術のひとつの例として生まれ変わるにはつまづきとなる素材と意図の側面を見過ごすことはできないとしてもだ。