「自然・城・人間をひとつに」という主題で2001年の6月1日から10日まで行われた水原華城国際演劇祭の白眉は、だんぜん日本のク・ナウカの『メディア』だった。ギリシア悲劇を日本の伝統劇の様式を活用して再構成したという点で鈴木忠志を連想させもしたが、宮城演出特有の節制した動作(身体感覚の変化までを含む)がひとことで驚くべきエナジーで押し寄せた。
『メディア』は劇中、本読みというメタ・ドラマの形式を採択した。宴会に来たかのような男性たちは、キーセンたちの酌で酒を飲みながら「メディア」を読む。その読み上げにつれて主役俳優たちは何らの台詞もなく動作で、物語の中の状況を再現する。このような設定は宮城の悲劇観をうまく反映していると言える。彼は、悲劇は基本的に世界成立の謎を詩人の直感で把握し、日常とは遠い、航空写真のように提示すると主張する。あるいは悲劇を現代の若い俳優の身体で、こんにちの観客の時間感覚に対応した速度感を失うことなく公演しようという方法が、二人一役の着眼だったという(2001水原華城国際学術シンポジウム参照)。すなわち(舞台には)『メディア』の主要人物たちが登場するが、彼らは動作のみで台詞は男性が読み上げ、その実際の実演は二人一役であるわけだ。あるいはまた悲劇と日常の隔離は俳優の肉体を抽象化させる、様式化された演技でもあらわれたと言えよう。
メディア役の女優の動作と身体反応は、じつに極度の節制と緊張を通じて驚異的に押し寄せる。基本的に能の動作を下地としながらも、男性たちの読み上げは文楽の詠唱法を連想させる。それでいて最後の場面では俳優たちが突然白い衣装に着替え、公演を現代的感覚と連結させた。舞台もまた建設中の華城行宮(ファソンヘングン)を選択し、その本体の床に仮設舞台を連結して作られたが、驚くばかりに日本の能舞台と類似していた。しかし記念碑のような造形物を舞台の片隅に立てて書架としても活用するいっぽう、舞台に冷たくも抽象的な現代感覚を加味した。
メディアは変形した着物の下に韓服を着ている。演出ノートによればギリシア人たちがメディアを野蛮な異邦人として描写したのは、地中海人とアジア人の母胎を自身から根絶させた文化コンプレックスから始まったと見る。演出は、日本もやはり類似したコンプレックスから韓国の文化的影響を拒否したと見ており、そのためにこれを是正するためにメディアに韓服を着せたとする。さいきん教科書問題で惹起された韓日関係のせいか、多く世間の関心を集めた演出ポイントであるとも言えよう。果たして演出の意図が公演で確実に伝達されたかは疑問であるが、少なくともギリシア悲劇『メディア』にあらわれる異邦の文化に対する傲慢な慢心は排除された。すなわちメディアは子供まで殺す復讐心に燃えた異邦人であるというよりは、はじめて自身のアイデンティティに目を向ける女性の姿として描写されているためだ。
ここで強く演出のフェミニズム的解析を読むことができた。男性中心社会で愛だけを信じて平凡な女として生きていたメディアは、不条理な夫の仕打ちから自身の根源と主体に目を向けることとなった。彼女が中心であることから、彼女は始終舞台の中央を占めており、ほとんど一人劇のように公演の動作と感情を主導する。したがって、最後に着物姿の女性たちまですべて白いドレスに着替えて舞台中央にメディアとともに立つとき、これらはいまや新しく世を圧倒するフェミニズム的力で近づいてくる。
初夏の涼しい風、合い間合い間に聞こえてくるホトトギスの声。木の自然の色が与える華城行宮の質感と韓国古典の建築美。ここに異国的であり古風な舞台と衣装、そして朗誦と女優の驚くばかりの節制された体と身体感覚の演技…。じつに自然と城と人間がひとつになった経験ではなかったか?