日本の木山事務所が制作した『はだしのゲン 』(原案:中沢啓治、脚色・演出:木島恭)の来韓公演は記録しておくべきだろう。韓国語ですでに10巻として翻訳・出版された漫画を基礎にしたこの公演の素材は1945年8月6日、午前8時15分に広島の中心地600メートル上空で炸裂した原爆によって破壊されたある少年の家族史だ。原作者自身の経験を描いたものであるために、きわめて感動的だ。しかしこの公演を感動的だという背景にはこの事件を見る観点が従前の日本、特に日本政府とそれに同調する人々の立場とかなり違うということが作用する。
筆者が広島をはじめて訪問したときは一年後にこの地でアジアゲームが開催されることになっており、その準備で気ぜわしい1993年だった。原爆が投下された現場と、その場所に建てられた平和祈願施設を見て回った心情は、ひとことで「あいた口がふさがらない」だった。特に博物館に展示された写真とその説明は、日本はまったくの被害者であると強調する内容でいっぱいだった。このような気持ちは、平和公園の外に建てられた韓国人原爆犠牲者慰霊塔を見ながらしだいに憤怒に変わって行った。このような処置が在日韓国人・朝鮮人間の意見不一致からだという説明が耳に入らなかったのはあまりにも当然だった。
2002年その場で開催された韓日経済人会議に「韓流?」韓国大衆文化と東アジア3国関係に関する講演を引き受け、再び訪問したときにはその慰霊塔が園内に移されており、小渕首相が予定されていた日程を変更して献花したという話を聞くことができた。それほどまでに韓・日関係が改善されたと見なければならないのだろうが、展示内容はそのままだった。あまつさえ日本の農・漁民の朝鮮移住だとか「進出」という表現もそのまま残っていた。
このような状況で上演された『はだしのゲン』であったために、筆者自身招待状をもらっても気軽に応じる気にはなれなかった。そうこうするうちに、日本大学主催の西洋文化がアジアに与えた影響を主題にしたシンポジウムに招請され、パンソリが唱劇に変容される過程を紹介した文化分科の発表を終えたあと、とある芝居を見に行った席で日本の良識ある演劇評論家大笹氏に会い、彼が『はだしのゲン』公演のために韓国へ来るという話を聞いて、彼を信じていっしょに観劇することにした。はたしてこの公演では日本を被害者として強調する脚色よりも、むしろ戦争を引き起こした日本帝国主義に対する批判意識が人間に対する愛情とともに息づいていた。当時、強制徴用と徴兵で連れて行かれた朝鮮人たちと関連した部分もさほど無理なく挿入された。
12名の演技者たちが映写幕と可変の舞台装置とともに活力のある舞台を作り上げた。少年役を担った田中実幸と解説者役の前田昌明、そして母親役の田中雅子等を除外しては大多数が新人のように見えたが、そのような演技方式が醸し出す新鮮さは控えめな音楽とあいまってむしろすがすがしく思えた。舞踊の場面がときとして生硬な感じを与えるが、内容自体がなまなましい現実を扱っていることから来る不調和ではないだろうか?しかし妹役の西村舞が最後の場面で見せた韓国舞踊は、10年ほど習ったという腕前が遺憾なく発揮され、彼女の芸名である「舞」をいっそう引き立てた。
同時通訳をつうじて劇の内容がうまく伝わったことも、観客の反応を呼び起こすところに一助となった。とはいえ、韓国とは異なる日本の文物を理解させるには多少翻訳上の問題があるように思えた。たとえば少年が父親を画家であると言うが、彼は実状は●●に模様を描く職人だった。彼の作業場面が充分に見せられなかったし、父が権威主義的にのみ見えたせいもあったが、すんなりは理解に達しない。しかし、チャン・ユヂンやキム・ヂョンソンという韓国の一流声優たちの声による演技が劇の進行に大きく助けとなった。文化日報ホールよりは、たとえば文芸劇場のようなところで公演したなら良かったという思いが起こるほど意味ある公演であり、単純な劇評とは異なる文体でその意義を記してみた。