≪Theatre Reviews
ユニット地点(青年団)『三人姉妹』「彼らは動けない」
キム・ミョンファ(演劇評論家)「韓国演劇」2003年10月号(p70)

ネラティブの粗悪さに失笑しても、空を駆け回り指先一本で天地が振動する安物のアクション映画は、ついついわれわれを魅惑する。重力によって一歩ずつ歩く必要も無く、出・退勤の地下鉄にはめ込まれるような人生を押しつけられる負担は「チャンプン!」ひとつで掃き捨てることができ、彼らはほんとうに気楽だ。

空を駆け回る能力が無ければ、自意識を放棄し与えられた生を愛すればいいのだろうが、遺憾にもわれわれは欲望と自意識の主人公、現代人だ。こんな現代人のうっとうしさを捕捉した最初の作家はチェホフだ。逸脱の世界を憧憬しながら、実際はカタツムリのように殻の中で身じろぎもできないわれわれの小心さと不条理をチェホフは正確に感知しており、そういう点で一世紀が過ぎても依然として現代的な作家であると言える。

こんかい来韓公演を持った日本の劇団「地点」 [訳者注:正確には「地点」は劇団青年団内のユニット] の『三人姉妹』もまた原作のディテールをすべて取り去った実験的な作品だが、作品の主題は一貫して固守している点でチェホフ的だ。特に舞台表現で見せるミニマルな様式性は、実験演劇がはでなスペクタクルとエネルギーの表出という過剰傾向から、本質のみ残した節制と単純の耽美性に移動中だということを予告しもする。このような演劇形式は、能から由来する日本の伝統演劇と一定部分関連するものと言えようか。

公演からまず注目されるのは空間の単純さと不動性だ。シーツが空中に掛けられているだけの何もない空間に、化粧台のような三つのテーブルと浴槽のみが設置されており、寝巻きを着たプロゾロフ家の人々がそれら装置の中に閉じ込められている。教授の夢を放棄して体のみ肥大していくアンドレイの空間は浴槽の中であり、三人の姉妹は公演のあいだじゅう化粧台の上に座って「いま、ここを」離れることのできない人物たちの状況を不便な姿勢と不動性で表現している。反面、動きまわる人々は買い物用トレーラーを押して歩くナターシャと軍人たちで、シーツの後ろから突然現れては消えていく。彼らは走って座って這い回り、舞台に生気を与え、時にアンドレイを浴槽にぶつけて不動の状況にヒステリーをおこしもする。実現しない欲望はけっきょく根を失った夢にすぎない。演出を担った三浦モトイはシーツを境界に二つの世界を分けて将軍家の姉妹弟に寝巻きを着せ、舞台を夢の文法で支配している。逸脱と倦怠の対比と言うチェホフ的主題はすべて蓋然性と具体性の剥奪で、隠喩と●●に支配される夢の世界として圧縮されたわけだ。

したがって、舞台の上には意味を喪失した言葉が音楽のように漂い、欲望と現実の拮抗のように言葉と行動は不条理に行き違い、前後の脈絡と関係ない歌と一度も使用されることのない帽子と履物が、座礁した離脱の夢を象徴するようにさびしく舞台を飛び回る。よしんば日本語を聞き取れない韓国人観客には多少たいくつな公演だったが、原作を解体しながら作品の本質を結晶化した演出の正確なコンセプトと、叙情的でありながら節制力のある舞台言語が印象的な作品だった。

この作品は夏の間、弘益大学の前で騒ぎ立てる若い芸術家たちの祝祭、フリンジフェスティバルの一環として招請された作品だ。生きてみれば生のいたるところが、そして演劇のいたるところが●●●●の場だ。その中心の制度とは関係なくひとつの民間祝祭が設けられて少しずつ根を下ろし、国外の若い芸術家たちと自己流の交流を始めている。われわれすべてがもう少し大事に見守るべきことだ。

SeoulNote