≪Theatre Reviews
「所記のない能記の遊戯」
ストアハウス・カンパニー『Remains』居昌国際演劇祭/沈ヂェミン(演劇評論家) 「韓国演劇」2004年9月号

天恵の自然条件をそなえた居昌国際演劇祭が8月に入っていっそう熱気を加えている。公式招請された海外の公演作品は特に脱言語劇を合言葉にする。このような無言劇は肉体を中心にすえる。こんな文脈から筆者は居昌演劇祭のあいだ、2回公演された日本のストアハウス・カンパニーの『Remains』という無言劇を目を凝らしてみることになった。そして、はたしてだれでもたやすく理解背吉肉体の言語が可能なのかという点に注目した。彼らの「肉体言語」は多意性を持っている。近くは人間の社会的関係から個人がこうむる疎外と苦悩の問題を考えさせ、遠くはポストモダニズム哲学の確信問題まで一緒になっている

野外劇場の前面には低い石壁が取り囲んでいる。舞台は素のままで、舞台前面中央には古木がひと株オブジェの役割を果たしている。そして木のまわりにはたいへんな量の服が山と積まれている。男女それぞれ3人ずつで成り立つ6人の俳優たちは、舞台の上で言葉なく歩き始める。彼らは舞台の上でたがいに列を成して、しだいに歩みを速めていく。この中に老人がひとりまじっている。彼はこの隊列にうまく加わることができない。もちろん彼もときにはあぶなげに隊列に合流し、いっしょにあちこち舞台の上を列を成して歩く。速度は少しずつ速くなり、歩く方向はさらに予測不可能になる。歩みが早くなるにつれ、単調なピアノの音も高くなる。とつぜんその中の2人が歩みを遅くして隊列から離脱する。そのうちの一人は老人だ。しかし、もう一人はまた隊列に合流する。いまや老人だけが残り、ひとり別の道を歩み始める。ピアノの音はさらに大きく。そうするうちに、老人が隊列に割り込む。しかし老人の後ろの者たちはとつぜん立ち止まり、老人は自分の前の女の後を付き従っていく。しかしその女までも立ち止まるにいたって、老人もそっと立ち止まる。しばらくの後、集団が再び列を成してせわしく歩き始めると、こんどは別の男の後をついてまわる。とはいえ、老人はじっさい誰の後をついてまわるのかさだかではなく、けっきょくだれかとぶつかってたちどまってしまう。しかしほかの者たちも歩くことと立ち止まること繰り返して、終局では全員が立ち止まる。ピアノは強い調子で続く。ここで観客の想像力は個人と社会のあいだに起こり得るさまざまな関係性を思い浮かべる。しかし彼らの関係は決して成功的ではない。おびただしい関係の強要から自我さがしに失敗し、社会的関係の急流に翻弄されながら個人の生はあがくのみである。このような個人はよしんばただ老人ひとりに極限されたものではない。他の者もまた潜在的にあるいは露骨に老人と同一の状況に処していることをこの公演は見せつける。

そしてこのような個人が処した状況は引き続き変形しながらより強烈に舞台上で形象化される。彼らはいまや舞台の前、木の上に積まれた服の山に倒れこむ。そして衣類をにぎり締めて舞台の上で倒れたり立ち上がったりを繰り返す。いっぽう、老人は緑色の布をずるずると引きずりながら野外舞台の外、右側にある木の上にぶらさがり、一人でだれにもわからない叫びをあげる。ここで無音になる。しかし他の者たちは依然として衣類を体に巻いて、倒れたり起き上がったりを繰り返している。老人はまた舞台に戻って、彼もまた他の者たちとともに衣類を振り回す。[...] けっきょく自我さがしに失敗し、社会の中に個人の実在は不在のまま、いたずらに個人のイメージだけがたちすくんでいる。約1時間の公演でかなり単調であるが、多意性を持った肉体の動きを通じて肉体演劇はそれぞれの明確なアイデンティティを確保する。演出家は自身の演劇が「風景」を追及しようとしたと言いながら、日本で風景という概念はすでにそれ自体多意性を帯びているという点を明らかにする。これはロラン・バルトの「記号の遊戯」を思い起こさせる。記号の開放性に寄りかかってシニフィアンの多様な変形という遊びがこの演劇の舞台上でも形象化されると考えられる。舞台からみえてくる俳優たちの肉体の多様な変形は、けっきょく実在という自我追求の失敗に帰着する。まさにこのことから俳優たちの動作はシニフィエとなりえず、とめどなく「横滑りしながら」シニフィアンの遊戯のみを再生産する。いや、むしろシニフィアン自体の遊戯に没頭しようとすることが演出家の本来の意図だ。まさに単にシニフィアンのみが存在するポストモダンの流れに同参する肉体演劇の誕生だ。

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