≪Theatre Reviews
「不条理劇的日本演劇の妙味」
劇団カルティズン『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』金文煥(ソウル大教授・演劇評論家)「韓国演劇」2005年5月号(p58)

「独島問題」によってついに大統領まで「根を抜く」と極端な表現を国民に豪語するはずみで時局はさらにめまぐるしい中に、演劇界はむしろ日本との交流であわただしい。在日韓国人の指紋押捺拒否による永住権剥奪問題を扱った『選択』が上演され、著名な演劇評論家大笹吉雄の演劇評論選集の出版記念会が開かれるかと言えば、新国立劇場の招待で客員演出を引き受けたソン・ヂンチェクが今回は韓国人俳優たちとともに『The other side』を公演している。そんな中に『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』が公演なった。

この作品は日本劇作家協会の会長でもあった別役実が1987年に書いたもので、初演当時85歳と79歳の二人の老俳優の25年ぶりの出会いのために書かれたとされ、話題にもなったものだ。個人的にも『マッチ売りの少女』という初期の作品の韓国公演(佐藤信演出)を見逃しひどく惜しがっていたところへこの作品に出会いとてもうれしく思っている。作家に対する期待ほどに、公演に対する期待も劣らないものだった。まずはイ・ホヂェと全茂松(チョン・ムソン)というまず見られない好敵手の対決に、『サマギィ』で好演を見せたオ・ギルヂュ、そして誠実な演技で定評のあるチョン・ドンファンと丁奎秀(チョン・ギュウス)らが出演するということ自体とってもそうなのだが、ここへ『海と日傘』で特に日本作品の翻訳と演出で「ブランド認定」されたソン・ソノが翻訳・演出で出張ったからには期待しないわけには行かない。

果たして公演成果は本当にすばらしかった。日本の初演は見れなかったから判らないが、いまや還暦を超えた二人の騎士の演技は「組ま」れたか「組ま」れていないかの境界を自由に行き来しながらそれはそれは一挙手一投足で観客を思いのままに翻弄するかと思えば、二人の侍従をはじめとする助演陣も争うように与えられた役の限界を可能な限り広げようと全身で持ちこたえていたためだ。特にやはり還暦近くにあるオ・ギルヂュの金属質の声は、朽ち果てていく騎士らと対照されつつ芝居にまた別の活力を与えている。衣装をはじめ小道具と扮装も公演成功に大きな位置を占めている。

副題が「ドン・キホーテから」となっているように、この作品はドン・キホーテとサンチョをそれぞれ二人の人物に分化させ、現代の中に引き込むという奇抜な着想で世相を風刺している。しかし「諸国を遍歴して冒険を楽しみながら世の悪行と向き合って戦い、すべての試練を立派に克服した名声を末永く残すことと同時に名誉を得んとする」(ソン・ソノ)原作とこの作品の騎士たちには距離がある。彼らは単に死なずにすますために先に殺しながら生きてきただけである。この点で西洋式騎士というよりは日本式サムライ、いやむしろ忍者を連想させる。決闘は言葉でのみ行い、実像は暗殺の名手たちだからだ。日本を初めて訪れたときに訪問した伊賀上野という小さな村は、まさに日本のキム・サッカと言える詩聖芭蕉の故郷であり忍者を訓練する拠点でもあったが、彼らは天井に張り付き進入するなど巧妙な技術で相手を暗殺する作戦に投入される。感嘆するばかりだがその一方で鳥肌の立つ思いをした記憶が、この公演を見ながら甦った。評論家の大笹はこの作品に対し「ベケットの戯曲が無国籍的なように、別役の戯曲も無国籍を感じさせる」としたが、個人的にはひどく日本的という感じを拭えない。もちろん彼らの周辺人物は、たとえば食っていくための客が現れるはずの場所に、まるで蜘蛛のように移動式簡易宿泊所をしつらえる主人や、こんなところに現れる客と言えばたいがい病者という臭いを嗅いで(病気持ちでなければ病気にししてでも)利益を得ようと客より先に現れるハイエナのような医者や、祈祷しても死ななければ金をお返ししますという成功報酬制を自慢するカラスのような牧師など、すべて利潤追求的な存在であることに間違いない。であれば騎士たちが彼らを次々と巧妙に殺害したり自ら命を絶つようにさせる姿を正当化するならば、これはとても無理押しを感じさせる。ところで彼らのように自身の行為を無常とみなし、誰かが現れて自身を殺してくれることを待つ諦念は、まさに刀とともに禅を尊んだ日本の伝統ある武者を連想させるにはもってこいだ。任申倭乱を起こした豊臣秀吉が茶道にも一家言あったというように。

別役が風刺したかったことはまさにバブル経済に浮かれた中に光り輝く弱肉強食の論理だったのだろうか。このように風刺をベケット流に、その中でも『ゴドー…』流に描き出しているが、騎士と侍従たちはさながらポッツォとラッキーを、二人の騎士はエストラゴンとウラジミールを連想するにお誂え向きだ。林英雄(イム・ヨンウン)の『ゴドーを待ちながら』が戯曲性を加味して独創的な演出能力を見せていることと比肩できるが、別役はそれを創作劇として消化しているという点に日本演劇の底力を体に感じられる。浅利慶太などのいわゆるアンダーグランド世代に属する人々のみならず、日本の現代演劇を動かしている人々がベケットから多くの影響を受けたことに評論家扇田昭彦は『ゴドー…』の役割とそのイメージの変容を通じて日本現代演劇の変化をたどることも可能だと書いたことがあるほどだ。そんな中にこのような作品が生まれたわけだ。わが国の場合にも實驗劇場がイオネスコの『椅子』を創団公演としたという点である程度共通点が見えるが、李康白(イ・ガンベク)の初期作品以外には不条理劇的作品がすっと思い浮かばないことと対照を成す。別役が鈴木忠と決別したことは言語と劇作の役割に対する理解の違いにあるという演劇史的記述が何の意味なのかを理解したことだけでも今回の観劇は得るところが大きい。