≪Theatre Reviews
「モノドラマの真髄」
劇団美醜(ミチュウ)『壁の中の妖精』劇評/李ミウォン(演劇評論家)「韓国演劇」2005年9月号(p54)

女優シリーズ第2弾として金星女(キム・ソンニョ)の『壁の中の妖精』(福田善之作、ペェ・サムシク翻案、ソン・ヂンチェク演出)が公演された。本公演はイデオロギーの対立によって40年間も壁の中に隠れて生きなければならなかった男とその家族の話である。スペイン内戦時代の実話を日本人作家が劇化したが、これを韓国動乱に移して脚色した。実話として信じるにはあまりにも突拍子が無いが、われわれにはどこかしら聞いたことのある話として受け取れるほどに実感がわく。しかしこの公演の成功は話の内容ではなく、時々刻々で自由自在に変わる演技者キム・ソンニョの演技力にあった。その柔軟な変化に真正なモノドラマの真髄を味わった。

物語は、土地を分けてやりユギオの時に共産党に協調したという理由で自身が命を助けてやった人々から解放後に手配された男が、妻の機知で壁の中に隠れて40年ほど暮らしたという内容だ。はじめはこみ上げる恨みを妻に浴びせもしたが、しまいには壁の中の妖精として存在し、機を織って妻の生計を助ける。作品はさまざまな問題を考えさせる。南北イデオロギーの対立、生と死、生きているということの大切さ、家族の愛、宗教の問題等々が複雑にからんでいる。特にさいごに主人公の、妻には赦しを乞うが神には赦しを乞うことはできないという断言に目頭が熱くなった。全知全能の神が存在するならば、どうしてこのようなことが起こるというのだろうか…。ところで翻案は家族と命の大切さを強調する方に向かったようだ。このことから、公演が与えることのできる社会的メッセージが軽減したことが惜しかった。したがって作品の深みが少なくなったことで単純な家族劇に近くなったことがもどかしかった。

しかしキム・ソンニョの演技力はこれらのすべてをおぎなってあまりあった。少女から夫人、娘、そして老年にいたるまで、多様な人物に自在に変化した。このような信憑性のある変化には、各人物の基本ジェスチャーを把握し実現していく努力があった。幼い子供はどれほどかわいく、処女はどれほど純真であるか。セリフもまた語調とトーンの変化で多様な人物を創出した。のみならず、彼女は幼い演技の渦中に作品のうたをこともなげに消化した。「私はこのごろ俳優キム・ソンニョを見ながら、彼女の技量が熟すという点を感じたりします」。表皮的な技術ではなく内面の肉化した気の噴出が感じられるような演技」に感嘆するという演出者の言いが決して誇張ではないと感じられた。ひとりの俳優が完熟の境地に至った演技力で、いまだ肉体の力が消尽する前に一生に1〜2回花を咲かせることができるモノドラマをいま見ているという感激が先に立った。じっさい平素から「女優キム・ソンニョは音や動き、顔付きなどすべての条件ですぐれた才を持っているし、そのようなものをまめに磨いて探し出して育てる、まめさと勤勉さを持っている」と言うク・ヒソ氏の評価に全面的に同意して来たが、こんかいのモノドラマを通じて最高の女優であることを立証したと言えよう。

衣装(チェ・ボギョン)も演技の変身に一助となった。幼い子供から花嫁のウェディングドレス、老年に至るまで、人物や性格にそぐわない部分も無く、気品ある衣装で俳優を美しく見せるのに助けとなった。たいていのモノドラマはそうだが、俳優は可能なかぎり美しく見えることを望む。このような欲望を性格との摩擦なしに実現した。のみならず、すばやい衣装の変化で多様な人物の創出に大きく寄与した。

公演が見せてくれた暖かい家族愛は、まさに人間の中心がどこにあるかを見せてくれた。そして切迫するほど小さなことに感謝して、その中で幸せを享受するこの家族から、イデオロギーを越えた修道の境地まで感じられた。壁の中の妖精として幼い娘をなぐさめる父や、引っ越すために危険を冒し変装して歩く山道で感じた夫婦愛、日の光をプレゼントするために娘が集めて来たあらゆる木の葉、結婚式場に向かっていたが置いて来たものがあると戻ってあいさつする娘など、こまごました日常でも生の喜びは可能だ。生きているということは美しくて、またどれほど大きな祝福だろうか!ここにイデオロギーの存在する余地はない。翻案は作風を家族愛を通じての生の賛歌として縮小したようだが、少なくともそのメッセージだけははっきりと伝達された。この広い世の中で数少ない家族と縁を結び、その根に繋がって暮していることが確かになって、そのこまごました中にもあまりにも大きい生命の喜びがあることを思い起させた。

実はモノドラマは誰でもできるものではない。これまでに多くの試みがあったが、その公演性において不充分であることは事実だ。たいていはモノドラマなら製作コスト面を減らすことができるという長所で、俳優の薄っぺらな瞬発力や機知に寄り掛かって手軽に制作されて来た。ところで今回のキム・ソンニョのモノドラマこそ韓国劇界のモノドラマの模範を見せた。彼女は渾身の力で絶頂期に至った自分の演技力を、気力をつくして噴出させた。そしてこのモノドラマが彼女の最初のモノドラマだったということは、モノドラマが誰でもむやみには行えない公演であることを周知させる。自分の演技力がある程度完熟の境地に至った時、演技者のすべての演技力を見せる公演だ。キム・ソンニョの熟れた演技とその安心感に感嘆し、わが劇界は実に大きな俳優を持ったことをはっきりと確認した。