≪Theatre Reviews
「アマチュアの情熱を留めたフリンジのプロ演劇」
ホ・スンヂャ(演劇評論家、青雲大学教授)「韓国演劇」2006年1月号

I

2005年韓国演劇に「日本演劇はあった」。本当に多かった。そして韓流に代わり「日流」が逆攻勢になったのは、韓国演劇の中では珍しい風景だった。これはこの間に日本演劇を韓国に紹介する専門家とチャンネルが多様になったことを示唆するものであり、また瀕死の状態にあった我が国の創作劇の隙間を日本作品が補った格好になった。多少、歯がゆい現実の反映でもあった。一方、その裏面には「光復60周年記念」に加えて「韓・日国交正常化40周年記念」、そして「韓・日友情の年」という外部要因が重なって、演劇交流を促進させた(主に日本政府側による)。民間次元では容易ではない国家公認の文化商品である歌舞伎、宝塚の韓国上陸という外交的ジェスチャーも一役買った。このように韓国演劇という公演芸術の'ブルーオーシャン'地帯を掘り下げながら上昇曲線に乗った日本演劇を思い起こすためには、敢えて遠くさかのぼる必要もないはずだ。まさに何週か前に韓日演劇交流会が朗読公演と戯曲集出版(「現代日本戯曲集2、演劇と人間」)、シンポジウムなどで優秀な現代日本演劇を集中して紹介した例だけでも、その趨勢はおよそ見当がつくというものだ。

まさに日本演劇の豊饒を成した一年、以前からこの分野の開拓者的な役割を自任してきた公演文化産業研究所(理事長:金義卿)は「日本の現代演劇連続公演」(12月2日〜18日、文化日報ホール)という歳暮の包みを解いた。それは20世紀の日本現代演劇を集約して、同時代の日本人の生と文化をそれぞれ独特の観点とスタイルで伝える3つの招請公演だった。より具体的には言えば、その中にはいわゆる「アングラ」として膾炙される日本前衛演劇の第一世代作家である別役実の初期作『赤い鳥のいる風景』(木山事務所)がある。戦後の不安な時代を生きて行く疏外された者たちの、恐ろしくも不安定な生に対する●余韻で連続公演の●を現わそうというのだった。続いては省察的認識論に根拠した客観的歴史意識で、自国文化に刃を突きつける作家兼演出家である平石耕一の敍事劇『尹奉吉、消えない火花』 邦題は『熱(ほとぼ)り』 (平石耕一事務所)は、依然として晴らすことのできない両国の倫理的宿題を思い起すところに力を注ぐ。存在の不安と過去の不幸が現実を危うくする日本演劇のリレー公演の最後は、観客を自然と合一させる、童心のファンタジー世界への招待だ。すなわちわれわれにも親しいアニメーション『銀河鉄道999』を共同の記憶の場とする公演である。かつて20世紀初に大人のための東洋的思惟の哲学的童話、その典範となった天才詩人であり同時に童話作家である宮沢賢治原作、広渡常敏脚色・演出の『銀河鉄道の夜』(東京演劇アンサンブル)がそれだ。

これらは日本の現代演劇ないし文学の広い懐に抱かれたレパートリーである。しかしそれぞれ生みだされた時期や形式とスタイルはもちろん、生を照明するスペクトラムが異なっている作品である。のみならず、演出と制作団体がそれぞれ異なっており、次のような面に作品の意義を求めることのできる公演の集結である。まず3作品ともに主流からはずれて純粋芸術を指向する「周辺」演劇人たちの作業精神の所産という点である。言い換えれば、彼らはアマチュアの情熱とプロ根性を結合して、長いあいだアンサンブルを成して来た団体の作品である。したがって、物理的に素朴であろうとも演劇に対する意識が透徹して、行為に対する所信が明らかな結果物として推定できる。そういう点で日本演劇の流行性気流や行事性の公演が続出する状況で、慎重を期したこの企画は一応注目するに値する。

一方、「韓日友情の年」の終電に乗って一群となって駆けて来た人々に、韓国の観客と出会うせっかくの機会には憂慮も伴う。第一に、新派劇の魂を埋めた東洋劇場の歴史的な場を占めたが、舞台の幅と奥行き、ポケットや舞台袖の制限など、舞台美学的弱点がカバーされない多目的空間の提供だ。言うなれば、劇場貸与がこれほど難しい時期に3週のあいだその場所を独り占めする幸運、その裏面には文化日報ホールは多様なスタイルの公演をいっぺんに収容するには多少無理があるという事実だ。第二に、日本語で伝達されるセリフ中心の公演という障害を乗り越えなければならない点である。いつものように公演文化研究所はなじみの声優たちの生中継を聞くことができるように配慮するとか字幕処理で緊急処方を準備したはずでも障害は相変らず残るからだ。

II

別役実はことしの韓国演劇で最上の人気(?)を享受した作家だ。彼が『世上を遍歴する二騎士の話』 原題は『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』 、『木に花咲く』に続いて三番めの作品でわれわれ韓国の観客と遭遇するからである。2003年、大学路で最初に紹介された『マッチ売りの少女』以後、今年に入って特に彼の作品が続いたのである。良く知られているように、まさに彼は独特の視覚と筆遣いを持った、既に90年代後半に100編を超える作品生産ですごいほどの創造的エナジーを誇示して来た作家である。その反面で、彼の戯曲の持つ価値や生産力に比べて、自国内の大衆的認知度及び影響力という側面で、彼は決して記録的ではない。ところが、彼が韓国でこのように「浮かぶ」理由はいったいなぜだろう?評論家みなもとごろうは彼を「特に日本的であるために、日本の限界を越えた視線を持った劇作家、あるいは特に日本的ではないから日本的なことを把握することができた劇作家」と評価する。そのキーはおそらくこの逆説の中に隠れているようだ。

作家が恩師の絵の題目から持ってきたところこうなったと聞かされた『赤い鳥のいる風景』という作品名は、その内容と直接の関連はない。そのイメージは自分が見た戦後日本人の生に潜在した、漠然とした「危機感」の暗示というものだ。作品は借金を残したまま心中した両親の負債を返すことを一生の課題として弟と自身に強要する目の不自由な少女の盲目的な主張を淡淡と、またきわめて遠まわしに聞かせてくれる(台詞:「借金と言うのは必ずしもすべて返すのが大事ではなくて、ずっと返し続けるというのが大事なの」) 。作品前半で彼女の状況を取り巻く親戚や隣人、旅人など、ちょっと無責任で優柔不断な周辺の人々との関係の全貌が現われる。そして舞台の外での事件が推理劇的手がかりを時々提供するだけである。

現在と過去を縦横に、暗示的雰囲気で構築される劇はおおむね曖昧なままに進行される。機能的人物の提示とエピソディックな構成で表現主義様式を具現しながらである。その反面、内面的には西欧不条理劇の影響を否定しにくい。それはすなわち青年作家の目に映った戦後の不安な時代の中、日本人の意識世界にいたる彼なりの方式で現われる。しかし『赤い鳥のいる風景』は遺憾ながらも、疏外された者たちの現実を危うくする心細い心理を遠距離から眺めるテキストは、期待したところの洗練美あふれる不条理劇から的が外れる。そういう結果は簡潔なセットの中立的な空間として設定された舞台で、テキストの道迷ったのだろうか?それとも異国の俳優たちがやりとりする他者の感性と語彙に敏感ではなかったせいだろうか?曖昧なせりふや誇張された日本的情緒に対する人見知りからだろうか?期待した象徴の深みを悟ることは難しい公演で見つけたのは、むしろ今日「静かな演劇」として挙論される日常劇の前哨だった。それはすなわち評論家千田是也が言った「新劇を越して」存在すると知られた、かつて未来の演劇を暗示した別役の魅力であった。

『尹奉吉、消えない火花』の平石耕一は、危険を冒してユダヤ人の脱出を助けたリトアニア外交官を素材にした彼の代表作『センポ・スギハアラ』で2003年に韓国の観客に接したことがある。イデオロギーを超越したヒューマニティを絶対価値に刻み込んできた彼は、いま歴史的被害者の傷を素材にした作品を持って再び韓国を訪問したのである。作家はここで単純に加害者と被害者に両極化された過去叱責型の告発的記録劇を意図しない。尹奉吉義士の上海爆弾投擲事件よりは、その事件以後の処刑と密葬過程を通じて現われた日本の非人道的行為、そして在日韓国人らの苦痛に注目する。したがって、作品は依然として癒されることができない少数者に対する差別と苦痛という今日の問題を語ろうとして、歴史に根源を求めたのである。

ブレヒトの敍事劇に特別な愛情を持ってきた平石は、このような問題提議の基本戦略を敍事劇に求める。そしてプロローグを含んだ総26個の場面で構成された作品には、それに匹敵する数の多国籍人物たちが登場する。上海と日本という地理的移動とともに、そういう設定は形式的に緩い弱点を持つ。これを乗り越える一つ方式として、作家は劇の3分の2ぐらいのところで事件中心の内容を家族共同体の中の個人的苦痛に移動させながら、これら二つを連結させるのだ。それにもかかわらず二度の休憩を含めた二時間半を超える公演で、演出はまた作家としてのヤヌス的衝動を抑制することができない。シナリオの誠実な遂行に固執したのだ。その間、イヤホンが伝える限りない言葉と類似した場面の連続は、観客に批判的姿勢を鼓舞させずにはおかない。プロセニアム両側に対称でならんだた竹の柱に土色の布を垂らした、やはり中立的な背景は舞台美術の貢献を最小化した公演だった。舞台右袖で各種の楽器で演奏と音響效果を提供した楽士の出現以外には敍事劇の演出技法を特別に強調しない舞台だったし、それは結局木山事務所の場合のように、公演の重さを俳優に置いたものだった。劇中人物の年配にあわせた年配に合わせた生を、彼らの出現自体で生かした俳優たちが多いことも、前の公演と共通分母だった。個人的情熱で探求したアイディア中心の公演をおもしろくしてくれた活力素は、遂にそこに求めなくてはならなかったのだ。

文化日報ホールの狭い「箱」舞台を飛び出して、四次元の幻想を客席まで押し出した『銀河鉄道の夜』は視覚的に果敢な公演だった。それはさびしい少年ジョバンニの夢の銀河鉄道旅行に観客を同席させようとする演出の率直さだった。本舞台で傾斜型の回転舞台を回転させる一方、客席中間に構築した四角い舞台は空間全体に環境演劇の概念を伝染させる構想だった。銀河系の超現実を照らし出す青い照明、そのあい間あい間にいたずらっぽく割りこむ映像と小道具は、前の二つの作品で惜しかった舞台美術を補ってくれるものだった。澄んだ魂の詩的感性がかもし出す、そして作家自ら「心象スケッチ」と呼んだ名作童話の舞台化のために、演出は語りを立たせて話を解いて行く。劇の補助的進行装置としてのケンタウルス祭りの夜、ジョバンニの銀河系旅行を刺激した影たちをコロスとして呼び入れて見どころを作る装置を演出は忘れない。

ライブのピアノ演奏による音楽と歌・踊りを挿入して、ミュージカルジャンルへの上昇を狙いながら、『銀河鉄道の夜』は壮年の韓国観客らを純粋な時代に招待する情感のフィナーレであった。利己的だった過去を後悔しながら自分の身を燃やす「バルドラのさそりの話」を燃える赤い魂のソロダンスで解く時、まさにミュージカルとして輝く瞬間だった。「正しく強く暮すということ、それは自分の中に銀河系を意識して、それよって進むこと」と一時確信した宮沢賢治、しかし彼は遂に南十字星に触れたジョバンニの口を通じて「しかし、真正なしあわせって何だろう?」を問う。

III

豊穣な中に貧困の入り混じった2005年の韓国演劇の中に、日本演劇の風景は多彩だった。振り返ってみて明らかなことは、日本演劇の突然の韓半島上陸が劇界の内的な要求によるものである時、それは発展的だったし甲裴があった。反対にそれがただ演劇の外的な衝動に根拠したものであった時、この地の日本演劇は心配の種であり空虚だった。しかしこの二つが結合して肯定的な化学作用を起こした時はまた嬉しかったし、それなりに収獲もあった。一年の終わりに寄り集まった三つの「現代日本演劇連続公演」は、このうちの最後にあたる場合であった。それは計画して意図したところの最善の美学的成就を成した作品ではなかったかも知れない。しかし彼らは長年の歳月、プロの世界でアマチュアの情熱を忘れない愚直な鼓手たちの「周辺」演劇だった。洗練よりは素朴な情緒を美徳にする彼ら公演の一等功は断然老練な俳優たちが得る。いや、もしかしたらそれは羨ましさだった。

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