メリー・ホールに勤務するパク・チョンヨン女史の推薦作品を見物。さいきんはパク女史と芝居を見に行く機会が多くて楽しいです。さて、この作品は「家族みんなで楽しめる無言劇」ということでしたが、なるほど今日は土曜日とあって客席の大半はお子様でした。幼稚園か小学校(韓国では初等学校)の低学年とおぼしきお子様たちでしたが、この年頃から芝居見物とは羨ましいかぎりです。奈良の田舎育ちである私が芝居を見たのは高校生になってから。文化会館かどこかへ生徒一同出かけていって芝居見物をしたのが最初。とっても面白くって、いまだにところどころ覚えてますなあ…。今日の作品はちょっと難しかったけど、お子様たちはところどころ覚えていることでしょう。
平田オリザの作品を韓国の劇団青羽(チョンウ)が上演。さいきん日本作品の上演の多いことには驚かされます。今回の作品はちょっと難しかったらしく、また日曜のマチネとあって客足はいま一つでしたが。
とうとう食べました、補身湯(ポシンタン)。思ったほど脂っこくなく、さっぱりと仕上がっておりました。ただ、このお肉は生前の姿を身近に見る機会が多いので、いま食べている部分はどこの部位かなあとか考えてしまいがち…。「こりゃあうめぇ」というわけにはいきませんでしたな。故郷の父母に電話で「犬食った」と報告しましたら、石川出身の母は幼い頃には牛や豚のかわりによく食したそうな。犬売りが村を回っていたという話で、あるときは庭先に迷い込んだ野犬を、隣のあんちゃんといっしょにさばいて食べたこともあるそうです。
韓国を代表する作家であり、西江大の名誉教授だった故李根三の作品を上演。一回忌の追悼公演でした。演出は西江大新聞放送学科の金龍壽教授で、公演の主体は西江大学言論大学院生と学部学生です。雑多な演技陣による公演でしたが、なかなか無難にまとまってました。
昨日、はじめてカン・サネ(本名カン・ヨンゴルで芸名は「江山ヘ」の意味でんねん)のコンサートを拝見。日本のロックギタリストでサネとのコラボレーションの長い春日博文も出演。なかなか盛り上がりました。サネと出会った頃は彼よりも僕のほうがギターがうまかったんですが、さすがに20年近く歌手をやっているとうまくなりますな。
カン・サネは「韓国アンダーグラウンドの先頭(先導?)走者」とか言われてますが、思いのほか本格的なステージングでした。このあたり、日本のアンダーグラウンドとは意味合いが違うみたいですな。あ、正確には私が記憶している70年代アンダーグランドの概念とは違うという意味です。ライブもたまには良いもんですな。 (@^^@)
中堅女性作家の作品を劇団サヌリム代表林英雄(イム・ヨンウン)演出で上演。舞台は大学路(テハンノ)にあるあまり流行らないカフェで、ここに出入りする演劇関係者の悲喜こもごもの話です。おそらくシンパとは「新派劇」の新派で、物語がお涙頂戴式の新派調であるところから名づけられたのでしょう。ただしこの話の時代背景は現代で、むかしの新派劇の焼き直しではありませんぞ。現代を生きる俳優たちの夢と現実を描いた舞台であります。純韓国製書き下ろし作品として貴重。
16回目の「日韓ダンスフェス」です。ややこしいことに「第3回ダンスコンタクト」という名称も併記されております。これは以前からの「日韓or韓日ダンスフェスティバル」を継承したいし、あらたに関係を結んだ青山劇場との交流もだいじにしたいという韓国側の意思の現れでしょう。今回は数年前に完成した麻浦文化センター大劇場での開催でした。会場の知名度が今ひとつなので客足はまあまあでしたが、出し物はたいへんおもしろかった。こんかい日本からの参加者は康本雅子・高野美和子・JOU・サイトウエイジ・森下チキチキ真樹バンバンの5人。来年は2月に青山円形で予定されているとのことです。
演劇集団反(パン)による鐘下辰男の作品を拝見。今日が楽日とあって演技陣にリキが入ったのか、全体にオーバーアクションでしたな(@^^@)。客入りも上々で、日本の作品が定着しつつあるのを見るとうれしいですな。それにしても、どうやって軽自動車を狭い階段しかない地下の舞台に運び込んだのか…。分解するしかないよな〜。 ー_ー;
これは異色…。ハムレットをイスラム原理主義者と見立てての芝居です。役者はクェートとシリアとイラクとイギリスの混成で、台詞は…ありゃぁ何語だあ〜? ー_ー;
本番中、字幕を投影しているコンピュータが途中何度かハングアップして字幕が中断したし、ホリゾントへ映像を投影するプロジェクタも調子が悪くて映像が出なかったシーンがある…。こういうつまらないミスで舞台鑑賞をさまたげられると嫌ですな。字幕はべつに無くてもいいし…。
劇団パークによる再演。今回は日本から原作者の平田オリザと青年団が駆けつけて、日韓合同演出&出演となりました。青年団の芝居をじっくりと見たのはこれで2回めですが、いずれも韓国の劇団による上演で、青年団そのものの舞台はまだ見たことが無い…。ところで、日本語と韓国語のまじった芝居もなかなか良いもんですな。今夏の黒テントもうまく日韓語をまぜて上演しておりましたが、今回の劇団パークの方が一枚上手でした。
ドイツのカンパニーによる舞踊劇?で、演出はYoshi Oidaという日本人らしいです。ウェブで検索するといっぱい出てきますけど、正体不明の方ですな。
ソウル公演芸術際
松田正隆の戯曲『海と日傘』が韓国人演出家と演技陣によって上演されました。上演期間の後半、アルングヂ劇場は満員御礼状態だったと言います。「韓国演劇」10月号に掲載された劇評は私の最も信頼する演劇評論家のひとりである金美都(キム・ミド)の手によるものです。
車凡錫(チャ・ボンソク)先生が雑誌「韓国演劇」2000年1月号から4月号に連載した『解放空間の韓国演劇』の終章を追加して、同時に翻訳を全体的に見直しました。
大阪に本拠を置く劇団態変のソウル初公演。この劇団は身体障害者による肉体表現を舞台の基盤として、活動歴は20年を超えます。この劇団の舞台を始めて見たのは1984年だから20年ぶりですな。こんかいの『帰郷』はなかなか美しい舞台ではありましたが、20年前に東京で見たときのあの衝撃は感じられませんでした。84年に見た舞台に比べるとずいぶん「見やすく」なりましたが、そのぶんインパクトは希薄になっているわけです。もし芸術的表現をめざすのであれば、障害のあるなしにかかわらず、「表現者」として同等の苦労と工夫が必要でしょう。障害者としての主張に重点を置くならば、われわれ健常者がふだん意識し得ないが潜在的に保持している、ある種の差別意識をもっと正面から突くような舞台を考えていかなければならないかと思いました。障害者や健常者を含んで、既存の社会的枠組みに問題ありとする主張はよく判りますが、それを舞台でどう見せるかというところでもうひとひねり欲しい…。^^;
長かった秋夕(チュソク)連休も今日で終わり。この間、少し人の出がさびしかった大学路も平常の姿に戻りました。私もこの一週間は自分が学生であることを忘れるくらいよく遊びました。明日からまたガッコです。
劇団木花が東崇アートセンター大ホールで旧作のリバイバル公演を行いました。美術も照明もきっちりした良い舞台なんですが、話の展開にめりはりがちょっと欠けるような…。このところ木花は旧作品のリバイバル上演が続いているので役者連中が飽きてきたのかなあ。(^^)
Theatre Reviewは日本の劇団の韓国公演に関する記事・劇評などを翻訳して掲載するコーナーです。この夏の居昌国際演劇祭に参加したストアハウス・カンパニーの作品『Remains』に関する劇評をこのコーナーに追加しました。ただし舞台描写が延々と続くので、少し省略してあります。
ウェブサイトの更新がおろそかになっておりますが、日々の暮らしに追われているわけでも異国の生活に疲れたわけでもありませんぞ。ちょっとおベンキョーが忙しくて、演劇関係の資料に目を通す暇が無いだけです。そのうちまとめて更新いたしますぞ。
劇団ノートルの作品ですが、もとねたはブレヒトの「ある兵士の帰郷」です。この作品は前に文化日報ホールで拝見しましたが、今回のポスト劇場のほうができが良かったですな。客入りも良かったし。劇団ノートルは今回のベセト演劇祭に参加し、鳥取で舞台を行うそうな。だれか資料ください。
黒テントの作品をソウルで拝見。黒テントは大昔、たしか79年頃に武蔵野美大かどこかの学祭で金芝河の作品をモチーフにした出し物を拝見して以来だと思う。あのときはなぁんにも無いすっぴんの舞台でしたが、役者の台詞のやりとりが絶妙でたいへんおもしろかった。いまだに覚えておりますからのう…。ああいう芝居はもはや流行らないのかしらん。今回の舞台もきちんとまとまっていておもしろかったけれど、むかしの雰囲気はすっかりなくなって、これが黒テントだと言われなければ「日本の某劇団」で納得してしまいそう…。
ごぞんじチェーホフの作品ですが、劇団ジンジャントロプスの演出はトレープレフの自殺場面からフラッシュバックで過去へさかのぼるという趣向でした。ポスト劇場の舞台を地のままで使い、飾り物も照明を仕込んだテーブルのほかには何一つ無い簡素な舞台でした。
暑い日々が続いております。さすがに50歳が間近になりますと若いときのようにはまいりませんな、暑さにも弱くなるようです。じゃあ冷房への耐性が向上すればよろしかろうに、冷房にもますます弱くなったようです。このまえ梨花女子大の学生を誘って喫茶店でおしゃべりしたのはよろしいんですが、2時間ほどたった頃にはもう寒くて寒くて…。相手の女の子に顔色が悪いから店を出ようと言われてしまいました。その翌日はガッコで外部の先生を招いての講義があって出席したんですが、冷房の中で3時間座っていたものだから冷え切ったのでしょうか、部屋に戻ってから熱を出してしまった。それでも開け放したドアの脇に椅子を持っていって、多少は冷房に対処したんですけどね。Tシャツのままで講義を受けたんぢゃないかって?いえいえ、とんでもない。夏の外出はTシャツの替えと上着は必需品です。映画を見るとか芝居を見る場合は厚手の上着とひざ掛け持参ですからな。夏の暑いのはなんとか我慢しますけど、冷房はがまんできませ〜ん。はやく冬にならないかなあ。
今日の地下鉄2号線はすくなからずヘンでしたな…。永登浦区庁駅で5号線から2号線に乗り換えるとき、めずらしく10分ほど到着を待ちました。こんなに列車間隔が開くことは最近経験していない。少々ダイヤが乱れているのかと思いましたが、この電車が合井駅で停車した際に、電車に乗ろうとする客がまだホームに残っているにもかかわらずドアを閉めたのには驚きました。ドアの向こうには憮然とした表情の客がいっぱい。なかにはドアを叩いて抗議する人もいました。いったい何が起こったのだろう、何をそんなに急いでいるのだろうといぶかしく思いました。
夕方。ガッコでの用事を済ませて部屋に戻ろうと新村駅で電車を待っていたところ、到着した電車がなんとオーバーラン。先頭車両のひとつめのドアがホームから半分はみ出してしまい、ホームの端にある手すりがちょうどドアのまんなかあたりに来てしまいました。これはてっきり後退するだろうと思いきや、なんと車掌はそのままドアを開けました。運転士も運転席から立って窓から首を出し、驚いた表情でホームの方を見ています。半分ホームからはみ出したドアから出てきた乗客はもっと驚いたでしょう。しかし、さすがコリアンピープル。こんなのは何事でも無いと言わんばかりに、手すりをかわして電車から降りてきます。しかし危ないなあ…。
さて、この威勢のいい電車に乗って永登浦区庁駅へ到着したとき、もっと驚くべきことが起こりました。なんと私が電車から降りるやいなやドアが閉まったのです。もちろんホームにはこれから電車に乗ろうとする人が並んで待っています。足を止めてホームのようすをうかがうと、すぐわきで、電車に乗ろうとしていたご婦人の服か持ち物かが閉じたドアに挟まったらしく、しきりにはずそうとしています。しかしいっこうにドアは開く気配が無い。ご婦人の後ろに居た男性客が運転士の方に向かって「挟まった」と大声を上げます。一瞬ドアが開いてご婦人は挟まったものをはずしたものの、電車は誰一人乗せることなくそのまま発車してしまい、ホームにはかなりの人が取り残されました。
一度ならずあまりのでき事に車掌の顔を見てやれと思い、ホームに立って走り去る電車を見守っておりますと、最後尾の運転室、ちょこんと座ってこちらを見ている車掌の姿が見えました。遠目ではっきりしなかったのですが、自分の行為を反省してホームの客に気を使っているようすはありません。その確信犯的な姿を見て、今日二度にわたって目撃した「乗客積み残し」事件は単なるミスではなく、乗客の乗り降りをせかすためにしくんだ「閉め出し劇」ではないかと思いました。つまりさっさと乗り降りさせるための「教育的」処置ではないかと。先の「大邱地下鉄火災事故」のときも運転士の無責任な行動に驚かされましたが、もしかすると乗客無視の効率優先運営はあちこちの地下鉄公社全体の体質なのかもしれません。となると事故は無くならないし、事故で死んだ人もうかばれないなあ…。礼儀に篤く人との関係を大切にする韓国社会でこのような行為を目にすると、「社会を築く方程式」に何か重大な欠陥があるとしか思えません。ひとごとではありませんが…。
一ヶ月ぶりの日誌になりました。この間、修士論文の準備で忙しくすごしておりましたが、韓国はいつのまにか梅雨に入っていました。昨日、日本から遊びに来た友人とともにソウル歴史名所めぐりを楽しみました。まずは仁寺洞の街並みを散策し、そして雲覬宮(ウニョングン)へ。地下鉄3号線安國駅近くにある雲覬宮は興宣大院君(1820〜1989)の居城として訪れる人々に開放されています。斗山大百科によると大院君(テウォングン)というのは「王位を継承する嫡子や兄弟が無く、親戚のなかから王位を継いだ場合に新王の父を大院君と呼ぶ」とあります。ここ雲覬宮のあるじであった興宣(フンソン)大院君は王妃であった閔中殿(明成皇后)との対立関係につけこんだ宮内府顧問官岡本柳之介に説得され、日本公使三浦梧郎が画策したとされる1895年の「乙未事変」(皇后暗殺)に際して沈黙したと言われています。この静謐な雲覬宮の一隅で岡本顧問官と大院君の話し合いが行われたのでしょうか。その事件から110年たったいま、耳をすませてみても聞こえてくるのは近くの栗谷路を行き来する車の音だけでした。
韓国の一部食品業者が餃子製造に「捨てるはずの生ごみ」を使用したという話ですが、餃子に使える大根「部品」といえば葉っぱぐらいしかないのでは?と思うのですが…いかがでしょう。厚生保険省のウェブサイト「不衛生な原材料を使用した…」にはそれら韓国の業者名が掲示されておりますが、ここでいまいちど日本語の読み方を紹介して、このサイトにおける韓国語の日本語表記を説明いたします。
厚生省のウェブサイトから
1番はそれそのまま、故郷(コヒャン)食品ですね。2番は「ビジョンフード」となっていますが、韓国語の発音を正確にトレースすると「ピヂョンプードゥ」です。韓国語では語頭に来る音は濁音化しないという約束がありますから。それとハングルには「し」に濁点のついた「じ」は存在しないので、「ち」に濁点を付けた「ぢ」が正しい(と岡本は信じております)。このvisionfoodはいまウェブサイトが行方不明になってます。開かない…。^^;
そうそう、韓国語には「ー」てぇのが無くて、上の「ピヂョンプードゥ」も実際には「ピヂョンプドゥ」と聞こえます。むかし何かの看板でこの長音記号「ー」を使ったものを見たことがありましたが、ハングルの間に「ー」があると少し違和感を感じますね。最近はまったく見ないです。「バー」は「バ」だし、「パーマ」は「パマ」ですもん。
3番は「ジンヨン」ですが、最初のチンのニウンパッチムと次のヨンの母音のあいだで連音が起こって「チニョン」となります(語頭は濁音化しないから「チ」ね)。4番は「サムニプ食品」で、5番は連音のお約束で「チョニル食品」。さて、6番が難しい…。正確には「ウリマッ食品」なんですが「ッ」で終わるなんてなんだか反則っぽいので私は「ウリマ食品」としております。じつは4番の「サムニプ」も「サムニッ」に近くて、これら「ニッ」とか「マッ」は次に位置する語の初音とからみあって音に変化が現れます。7番はOKで、8番は「シナン食品」ですが、これは漢字だと「新韓」かも。9番はそのまま。10番の「チャムヂョウン食品」ですが、廃棄材料を使って製品を作る会社が「チャム(本当に)チョウン(良い)食品」とはなかなか皮肉が利いていて笑えますね。11番の「キリン」は日本で言う「麒麟」ですな。最後は「ウォニル食品」で、漢字だと「元一食品」かな?
でも、じつは韓国語の発音を日本語式に表記するには限界があって、ここにあげた例も厳密に言うと原音と合致しません。なるべく原音に近づけて、雰囲気を伝えようとしてはいるのですが…。
今回で16回目の春川マイム祝祭。春川人形劇場で小島屋万助劇場の『ノンストップメン』を観劇。「無言劇」と「マイム」を区別するのは何だろう…などと難しいことは考えず、楽しく拝見いたしました。もちろん「おもしろけりゃなんだっていいぢゃん」と言うわけではありませんが、おもしろいということは大切ですなあ。昨年のマイム祝祭ではオランダ産の逸品を拝見してヨーロッパ流のマイムに期待するところがあり、今回はフランス製の舞台を見るつもりだったのが昨夜ソウルを出遅れて見ることができなかった。話によると噂にたがわずおもしろかったらしく、小屋は満席になったとか。すこしくくやしひ。今年もマイム会場には旧知の友人が多く来ていて、彼・彼女らと旧交を温めて楽しくすごした。
「湖畔の都市」春川(チュンチョン)へマイム祝祭を見に行きました。春川といえば最近は「冬の戀歌(邦題:冬のソナタ)」で有名ですが、週末ともなれば春川へ下る人々で列車・バスともかなり混むようです。土曜日の午後3時。春川方面へ向かうバスのターミナルである東ソウルバスターミナルへ行ったところ、春川行きは4時半の便まで席がないと言われてその日は春川行きを断念、日曜の午前8時のバスに乗りました。今回知ったのですが、春川行きのノンストップバスというのは広々とした座席が2列・1列の配列になった、かなり豪華なバスなんですね!ゆったりとくつろぎながらバス旅行を楽しんで、春川の市外バスターミナルへは1時間半後の9時半に到着しました。
さて春川へ着きましたが…市外バスターミナルからマイム会場へのシャトルバスはまだ運行していない。少し到着が早すぎたんですが、これは困った。昨年はバスターミナルから祝祭会場までタクシーで行き、ソウル⇔春川のバス料金の倍以上の金額を支払った記憶があります。私費留学生は無駄な出費はとことん節約しなくてはなりません。(^^)そこで国鉄南春川駅まで歩いて、そこから市内循環のバスに乗ることにしました。たしか南春川駅はそれほど離れていなかったはず。バスターミナルから出て北の方を見ると、大通りの向こうに踏切が見えるので、踏み切りをわたって線路伝いに東へ行けば南春川駅に行き当たるでしょう。
線路沿いの人通りのない道を15分ほど歩いて南春川駅に着きましたが、やはり駅周辺のどこにもマイム祝祭を目当てにした観光客らしいのは目につきません。祝祭で盛り上がっている雰囲気ではないですなあ…。もっとも今日は祝祭の最終日で、昨日の夜、つまり土曜日の深夜12時から早朝4時にかけておこなわれる『トッケビ・ナンヂャン』が祭りの最高潮なのです。この出し物が終わると客は三々五々会場を離れはじめ、したがって日曜日ともなれば祝祭目当ての観光客が見当たらないのは当然ですけど、ちょっと気落ちしたりして…。さて、ここから適当に市内バスを乗り継いで会場へ向かえば良いわけですが、それにしても今日はあまりにも爽やかです。会場までの地図は頭の中に仕込んであるので方向は見当がつく。そこで、むかし4キロ離れた小学校に通った健脚?にモノを言わせて、マイム祝祭の会場であるコスムドチ島まで歩くことにしました。
勇躍南春川駅を後にして一路、街の北にある第2ソヤン橋へ向かいます。車の多い通りを避けてわざと裏通りを歩き、春川の静かな(ちょっと寂れた?)たたずまいを楽しむことにします。友人に誘われて初めて春川を訪れたのは1989年の夏でしたが、湖水と街をとりかこむ山の風景などからこの街を好きになりました。初めて春川へ来たときはまだ第2ソヤン橋は無く、橋の西側のたもとに船着き場がありました。湖水に浮かぶいくつかの島へはそこから船で渡るのですが、友人といっしょにチュンド(中島)へわたって村を散策した楽しい思い出があります。その後いくつか橋が架かって便利が良くなり、かつての生活の足だった船は、いまは観光用に様変わりしているようです。春川国際マイム祝祭のメイン会場であるコスムドチ島は島全体が観光用施設で、キャンプ場や遊戯施設・便宜施設を備えています。ほかの島には近代的な宿泊施設を備えているところもあり、ソウルから2時間という地の利を得て観光業でうるおっているのでしょうか。ただ、タッカルビやマッククスなど春川の名物料理の味がしだいにソウルからの観光客に合わせたものになりつつあるという地元出身者の嘆きも聞かれますが。
街の北を流れるソヤン川にからる第2ソヤン橋は、川向こうと市街地との人の移動を盛んにしました。川の北側にも高層アパートが立ち並んで、いまや春川のベッドタウンという感じです。昔は一歩街を出るとまったくの田舎でしたが…。ところで、私は「冬のソナタ」というヨンソク(連続)テレビドラマを一度も見たことが無いのですが、ここ春川が物語の舞台になっているのでしょうか。第2ソヤン橋には「冬のソナタ橋」という日本語の看板が掛かっていました。しかしこの「冬のソナタ橋」を渡ってから会場までの道のりの長いこと…。これは予想外でした。むしろ駅から市街を抜けて橋まで歩いたよりも、橋から会場までの方が遠いようです。もはや風景を楽しむ余裕も無く、ひたすら歩いて歩いて…ようやく祝祭会場のひとつ、春川人形劇場に着いたときはほっとしました。時刻は市外バスターミナルに着いた時から2時間半経った12時でした。さあて、まずは劇場のはす向かいにある「平壌冷麺」のムルレンミョンで腹ごしらえを済ませてから、じっくりとマイムを見物しましょうぞ。
うちの大学にはいくつか演劇クラブがありますが、新聞放送学科演劇班は新聞放送学科で学ぶ学生を中心にしたクラブです。今回は改築なった「メリーホール再開館」記念公演としてブレヒトの作品を上演。3時間になんなんとする舞台を拝見しました。韓国ではブレヒト作品はいっときタブーだった時代があったと聞いておりますが、わが西江大学が最初にそのタブーを破ってブレヒト作品を上演したと聞いております。おそらく今回のメリーホール改築記念公演の作品選定は、こういういきさつからブレヒトになったのではないかと思ってます。客席もステージもすっかり模様替えしたホールで観劇しましたが、昨日徹夜したものだから後半はもう客席でぐっすり…。^^;
昨日ガッコの前で拾ったタクシーの、運転技師の名前が「イン・チダル」氏だった。これは珍しい!助手席側グラブボックスに貼ってある名札の「イン」というハングルを見て、思わずどんな漢字なのかを尋ねたらトヂャン(印鑑)の「印」だと教えられ、そもそも印という姓があることすら知らなかったから、いたく感動しましたぞ。名刺でももらってくるんだった。以前、友人に紹介してもらった人物に「卜」さんと言うのがいるんですが、この姓も文献の中でしか見たことがなかったのでサラインヌン(生きている)卜氏に会ってびっくりした。日帝時代の韓国に「卜惠淑(ポク・ヘスク)」という女優がいたんですよ。
さいきんは漢字を使わずに、ハングルだけの名前をつけることも一般化したのかな?このまえ「ハン・ナラ(韓ナラ)」という名前の女学生に会いました。ハンナラは「ひとつの国」を意味し、韓国にはハンナラ党という政党もあります。音はなかなか可愛いのですが南北分断状況の韓国においては、時と場合によっては不便を感じるかもしれませんなあ。また、チョン・オンヌリという女学生もいます。オンヌリは「セサン(世上≒世間)」を意味することばで日常会話では頻繁に使われますが、名前にこの言葉を持っている人物は初めてでしたな。
ところでこちらの女性の名前を漢字で表記すると、なかなか勇壮なものになるのが多いですぞ。たとえばクァク・キョンユン嬢は「郭景允」、プ・ビン嬢は「夫斌」、「李智誠」嬢はイ・ヂソン等々…。名前の読みじたいは女性向きのやわらかいものなんですが、漢字はごらんのようにいかついものが多いです。これはそもそも漢字を使用するに際して男性・女性に区別の無いことによるのか、あるいはやはり男の子にはいかつい漢字を使用するが、丈夫に育つようにとかいう願いをこめて女の子にもわざとこうした漢字をあてているのでしょうか。
MSメッセンジャーちゅうのがおますやろ。ほとんど使うことは無いのに勝手に立ち上がってうっとおしいので、自動起動せんように設定しておりました。ところがいくつか追加の機能を必要としたのでアップデートしたら、またWindowsを起動するたびにメッセンジャーが立ち上がる。「おかしいなあ、前に自動起動せえへんように設定したのに…」と思って確認すると、なんと!パッチを当てたら自動起動に関するチェック項目が消えとるやないか。あのなあ、使うか使わんかはユーザが決めるんやろがあ。というわけで追加の機能をアンインストールして、またもとどおり自動起動しないようにしました。MS様、あなたさまは余計なお世話が多すぎます。
お気づきになりました?トップページにはもはや「マッキントッシュ」も「写真」もございません。これからは演劇、それも「韓国演劇」専門コーナーとしてこのサイトを運営します。
マックは日本を離れる際に最後のマッキントッシュ「青丹G3」を手放してからは、なんだか遠い存在になってしまったし、舞台写真はここ数年まったく撮影しておりません。こんな状況なので「マックでハングる」も「おかやんの写真講座」も、サイトを更新することもままなりません。そこでいっそ閉めてしまい、いまいちばん関心を持っている演劇に専念しようというわけです。今年は日韓間の演劇交流は少し低調のようですが、しかしこの暇な時期に中途でとまっているいくつかのコンテンツを充実させるには良い機会でせう。「演劇のソガン」と言われる我が西江(ソガン)大学で、韓国屈指の劇作家李根三先生に(1科目だけ)学んだ学徒として、昨年の冬に亡くなった恩師にこのささやかなサイトを捧げることとします。
うちの大学は建物内部すべて禁煙区域になっております。ところが、さいきんわれわれ新聞放送学科大学院研究室のあるガブリエル館の3階トイレと4階への踊り場が喫煙所になっていて、うちの院生や学部生、それにゲームアカデミー受講生による喫煙軍団の憩いの場と成り果てておりました。構内での喫煙に関しては、以前から喫煙者を見かけるたびごとに禁煙であることを注意してきたのですが、喫煙者の数は増えるばかり。3階トイレの斜め向かいにある映像資料室で勤務しておりますと、トイレからの消し忘れタバコの煙で頭が痛いし喉がかれる…。思い余って「ハッキョへ パランダ」掲示板へ掲載することにしたのです。
「ハッキョ」は「学校」で「パランダ」は「望む」。つまり「ハッキョへ パランダ」は学校に対するさまざまな建議事項を掲載する電子掲示板です。また、掲示板へ掲載しにくい建議内容は直接これこれのメールアドレスに送ってくれともあります。この掲示板は外部から誰でも見ることができるので、なにもうちわの恥をさらさなくても…と思い、掲示板の担当者とおぼしきくだんのメールアドレスに直接メールを送りました。んで、その翌日の夕方。そろそろ勤務を終える時間なので部屋を閉めようかというときに、学部の後輩が何枚かの紙とテープを手にして部屋へ入って来て、「岡本氏、喫煙の件を建議したんですって?」と言います。へ?なんで知ってるのと思いましたが、彼はいま便所と踊り場に張り紙を張り終えたからと言って、さっさと部屋を出て行きました。おお、さすがにやることが早いなあと関心しつつメールをチェックしますと、掲示板の担当者から返事が届いておりました。読んでびっくり、その返信メールには「喫煙の件であんたが総長に送ったメールを見た。現場に行って実際に喫煙しているところを確かめた。したがって禁煙を徹底すべく関係部署に連絡し、トイレと踊り場には張り紙を貼った」とありました。どうやら私は本学の総長にメールを送ったらしいです。
さすが韓国と言うべきか、いきなり総長にメールが届くんですね。プレジデントというメールアドレスを見て総長かもしれないと考えなかった私がおまぬけなのかもしれませんが…。文章を丁寧に書いておいてよかったあ。後から知ったのですが、別の掲示板で喫煙問題に関する活発な意見交換をおこなっていました。ある喫煙者は非喫煙者にいちおう気を使っているからそんなに邪険に言わないでくれと書いておりましたが、喫煙者は非喫煙者の苦しみはぜったい判らないだろうと思いますぞ。高校時代に校内での喫煙が見つかり謹慎処分になった身ではありますが、29歳の冬にひいた風邪が原因できれいさっぱりタバコと縁が切れ、いまはこうしてゴーマンに禁煙を推進しております。喫煙者にとってははた迷惑ですな。きっと。
久しぶりに美醜の舞台を拝見。出し物はブレヒトの「パン屋」で、舞台下手にバンドを配置して楽劇仕立て。ソウル演劇祭公式参加作品。しかし芝居でヘッドセットを使うのは違和感が強くてやだなあ。俳優が下手で演技しているのに声は上手のスピーカから聞こえるんだもん…。
国立劇場にハヌル劇場という野外劇場が作られ、いまこのハヌル劇場を中心にして、シェイクスピア劇をいくつかの劇団が競演する形式の「シェイクスピア・ナンヂャン(乱場?)」を開催中。今日は劇団ノートルの『東方のハムレット』を拝見。ハムレットそのままではなく、かなり「意訳」しての上演だった。それにしても、ここ二三日のソウルは日が暮れるとかなり冷え込んで、今日も客席で寒さにふるえていた。ひざ掛けを用意したんですけどね、芝居見物どころではなかったですよ…。気候がもっと暖かかったら舞台も違った印象になったでしょうな。
「弱り目に祟り目」と言っては酷かなと思うけど…、竜川の爆発事故は経済状態の逼迫した北にとって大きな打撃となりそうです。被害者の救済はスムースに行われているのでしょうか。それにしても、この事故の話を聞いてすぐに全羅南道裡里(現・u山市)でおきた爆発事故を思い出しました。「裡里の街が無くなった」とまで形容される70年代の大事件ですが、ニュース等で聞く竜川の被害状況は、かつての裡里とあまり変わらないような気がします。ところで、韓国の新聞が竜川の報道でやはり裡里の爆発事故に触れて、廃墟のようになった裡里の街では道路を整備・拡張し「模範アパート」を建て、都市発展を10年早めたから「災い転じて福」となったと書いてました。死傷者1400人を出した爆発事故を、アパートを作って道路を整備したから「災い転じて福」と言えるのかなあ…。
この頃はマッキントッシュでの韓国語使用に関する問い合わせもほとんど来なくなったので、そろそろ『マックでハングル』を閉めることにしました。これからは韓国演劇を専門に紹介するサイトとしてデザインを変更します。
今年になって最初の観劇。それも一日に劇団木花の『自転車』と劇団76の『観客冒涜』の二つを見るという暴挙?『自転車』は呉泰錫の80年代の代表作で、ユギオにまつわる話。今回は慶尚道方言を使用しての公演のため、韓国人観客でも「半数近くは理解できなかった」とかいうアンケート結果なんですと。原作を読んだとき、もう少しおどろどろしい世界を期待しておりましたところ、今回の舞台はけっこうあっさりと描いていたような気がする。現代の観客に合わせてかなり演出を変えたと言う話だったので、なれば昔のバージョンも見てみたいところですな。
『観客冒涜』(邦題は『観客罵倒』)は劇団76が1978年に初演した76の「当たり作」で、今回は7回目の再演。これも再演のたびに舞台は変化しているみたいでんな。僕が最初に見たのは86年の空間舎廊での上演だったけど、あの時はまだ韓国語を習いたててで、芝居はほとんどわからなかった。しかし舞台も客席も一種の緊張感みたいなのがあって、その雰囲気を楽しめた。その後、90年代初期にやはり空間で再演したけれど、あの時の舞台はつんまらなかったなあ。今回はせりふを追いながら筋を全部理解できたから良かった。舞台のできはう〜ん、まあまあ…かな。(@^^@)
けれど時代の移り変わりとともに、観客が一番大きく変化したようで、いまや舞台も客席も昔のような緊張感はないし、今回はまるで視聴者参加型のバラエティショーを見るみたいだった。演出は俳優たちに「もっと過激に客を挑発しろ」と言っているらしいが、演技者は「へんなのが舞台に上がってきて暴れでもしたら困る」と言って拒否しているらしい。確かに、調子に乗った客の過度なおふざけは見苦しいし、この作品はそんな簡単に客と「交渉」するような方法論では成り立たないと思う。
舞台のあとで演出・演技者と観客との対話の時間があったのだけど、その時にある演技者が「普通の芝居と違って気を抜くとせりふを忘れる」と言っていたのが印象に残っている。なかなか演技者にとって難しい部類の芝居らしい。また、初演のころの古い話が続いたなかで、79年の朴大統領被殺事件の時、演劇の上演などがいっせいに禁止された話なども興味深かった。すると、まさにあの時世宗文化会館で公演していた劇団昴も当然禁止されたはずなのだが、この件に関しては関係者の話に少し食い違いがあるようだ。また暇なときに確認してみませう。
今年に入ってからというもの、日韓間の演劇交流はさっぱりなりをひそめている。当月末に国際交流基金の光化門日本文化センターが『土佐源氏』上演を予定しているが、これが最初の演劇交流かもしれない。聞くところによると来年は1965年の日韓条約締結から40周年にあたり、ワールドカップのあった2002年のように「日韓国民交流年」らしきものを企画しているらしいとのこと。こういうことから日韓交流に関するイベントは来年に持ち越しになっているのだろう。来年はさまざまな形で日韓交流が行われるのだろうか。
大駱駝鑑の舞台を見に、東京へ行った。この『海印の馬』は1980年に京都で初演したものだが、そのときに舞台づくりで参加した。秋から冬へ移る京都のはずれで、寒さに震えながら作った舞台は忘れられない。つまり懐かしくて見に行ったわけだが、初演とは大幅に異なる作品になっているとも聞いていたので、どんなふうに変わったのかも知りたかった。なるほど、オリジナルと同じシーンがあればその後の作品から取り入れたシーンもあったが、全体としてはなかなか良かったと思う。欲を言えば、いくつか省いても問題ない部分(あるいは省いたほうが良い部分)もあるけどさ…。なにしろ当時のメンバーは誰も居ないのだから、変わって当たりまえ。よくここまで作ったと言う気がする。麿さんと駱駝は当時の仲間でいまだに駱駝にかかわっているK子やO塚やN原に任せて、僕はソウルで自分の作品作りに励もう。
ずいぶん暖かくなったがまだまだ昼夜の気温差が大きくて、そのせいか風邪を引いている人が多い。昼間はほんとうに暖かくて、うっかり着込むと汗ばむほど。しかし日暮れとともに急激に気温が下がり、油断するとぶるぶるっとふるえることになる。かばんにはモットリ(襟巻き)を忍ばせております。
風邪と言えば「鳥インフルエンザ」のせいで隆盛を誇っていた「カナーン」というオリ(アヒル)料理の店が打撃をこうむったと言う話です。ここ何年かじわじわと訪れる人が減って、全体的にさえない一山(イルサン)の「エニコル」飲食店街。しかしエニコルの一角にあるこの「カナーン」だけは不況知らずで、店は開店以来増築に増築を重ね肥大化してきました。アヒルの焼き肉は健康に良いとか言われたせいもあったのか、いっときはこの店に出入りする車のせいで渋滞がおきたりもしました。洞内(トンネ=町内)の飲食店経営者たちは、他の店の客足に影響を及ぼすから交通整理をきちんとしろとか、妬み半分に嫌味を言ったりしたようです。ところが例の鳥インフルエンザ騒ぎでぐっと客足が減ってしまったとか。ちと気の毒な話ですが、近隣の経営者たちは多少溜飲を下げたかな。
昨日の夕方、はでに雷が鳴って雨が降った。こういうのを春雷というのだろうか。気温が下がって肌寒かったが、今日もぐっと冷え込んだ。明日も冷えるという話なんだが、たしか奈良では三月に入ってから一度雪が降り、それを過ぎてようよう春になった記憶がある。ま、季節もの・縁起物ということで、昨日の雷は春雷ということに。
研究室へ行く途中、昨日夕食を食べた中華屋へ寄ってみる。案の定、携帯はこの店に置き忘れていた。忘れ物の携帯がもうひとつあったが、やはり携帯の置き忘れは頻繁にあるみたいね。これでひと安心。昨日のコンサートも良かったし、今日はなにか良いことがあるような予感。
夕方、鍾路のドトールで日本から来た友人とコーヒーを飲んでいる間に、鍾路は弾劾反対のためのデモ行進の舞台となっていたようだ。7時過ぎに店を出て鍾路の方を見やると、大通りは人で埋め尽くされている。大通りまで出てみるとここ鍾路1街から光化門まで手に手にろうそくをもって通りに座り込んでいる。反対側、鍾閣の方ではチャンゴとクェンガリで盛り上がっている一団もいる。まだまだこっちの人々は元気。私たちも彼らに見習って、もっと政治にわれらの「主張」を反映させませうぞ。
国会で大統領の弾劾が決まったとかで、うちの学生たちが浮き足立っている。汝矣島のコンサートをいっしょに見に行く約束をした社会学部院生のチヒョン嬢も、そわそわと落ち着かない。コンサート会場へ行く前に国会議事堂を見に行こうと言い出した。バスに乗って汝矣島の国会議事堂前に着くと、これでもかというくらいに警察の「移動交番」バスが駐車している。バスの中から路肩にずらりとならんだ警察の車両を見ながら、客の中の誰かが「大韓民国の警察が全部来ている」とつぶやいた。たしかに、こんなに数がそろっているのは初めて見るような気がする。
バスを降りてチヒョンとおそるおそる議事堂の前まで行くと、若い警察官からやんわりと通行止めになっていると告げられる。昔と違って警察官もずいぶん物言いがやさしくなったもんだ。昔というのは延世大学校の語学堂に通った86年と87年のことだが、あの頃の戦闘警察は軍隊だか警察なんだか判らない衣装で、やたら凄みを利かせていたような覚えがある。その1987年の6月のことだが、延世大学の学生がデモ中に催涙弾が頭に当たって死んだ。それで延世大学校で集会(葬儀だったか?)を行い、集まった市民が市庁まで行進したことがある。当時、延世大学校のすぐそばの滄川洞に暮らしていた。事件のあったあの日、車の警笛があまりにもやかましかったので不審に思って部屋を出てみると、国鉄新村駅前から新村市場へ下る道が乗り合いバスとタクシーで埋まっていた。あの通りはバスの走る道ではないので妙に思って国鉄新村駅のほうへ歩いていくと、セブランス病院へ抜ける道の上、クルタリ(高架になっている線路)を老婆が歩いているのが見えた。一人また一人と東へ、国鉄新村駅のほうへ歩いていく。なぜ人が線路を歩いているのか、いったい何がおこったのか判らなかったが、その光景がやたら怖くて線路のある方に近寄れなかった記憶がある。おそらく市民の群れのかもし出す雰囲気が野次馬を寄せ付けなかったのだろうが、この17年のあいだに市民も警察も、野次馬をやんわりとやりすごすうまさを身につけたようだ。
人ごみの中で大学の教授とばったり会う。教授は朝から現場へ来ていたらしいが、疲れと寒さからか、顔色が良くなかった。教授と立ち話をしているところへ、チヒョンがどこからか示威運動用のろうそくをもらってきたのでひとつ受け取って灯をともす。「国民の選んだ大統領を弾劾したくされ国会」とか「ごみ国会」とかいうアジテーションや歌を二人でしばらく聞いていたが、そろそろこの場所を離れたくなった。チヒョンは不安そうな、どうかすると泣きそうな顔をしている。韓国人にとっては深刻な事態なんだろう。いかに彼らの主張するところを理解できても、外国人なのでどうしても実感がわかない。場違いという気がして、チヒョンにろうそくをわたして一人でその場を離れる。昔と違って催涙弾も石もとびかうことのない示威運動だったが、力でやりとりをするよりはやっぱりこの方が良いと思う。携帯をどこかへ落としたのが、個人的にはいちばん気になるなあ。だれかが拾ってくれればいいのだが。
今日は総合試験の最終日なのに寝過ごしてしまった。あわてて試験場へ駆けつけたものの、体の調子が悪くて暑くもないのに汗ばかりが出る。いくら考えても答えを出せそうにないので棄権を申し出て退室。前回の試験で不合格になった調査方法論はこんかいは棄権か。この秋の試験に持ち越しだす。なんだか冴えないなあ〜。
昨日の夕方から突然、ソウルは雪に見舞われた。ここしばらくちょっと冷え込んではいたものの、まさか雪になるとは思わなかった。夜になっても降りやまず、朝になってみると路上駐車の車の屋根には15センチくらい積もっていた。
今日は総合試験の一日め。総合試験は修士論文とともに院での学究生活を締めくくる試験で、これに通らないと論文を受け付けてくれないし、もちろん卒業させてくれない。試験科目は必修3科目と選択を1科目のつごう4科目で、これらを二日に分けて、一日2科目を午前と午後で実施する(英語の試験もあるのだが、TOEICの点数をもって試験に変えることができる)。通常、試験に臨む学生たちは直前に教授を夕食に誘い出し、親睦を深めると同時に試験問題にさぐりを入れることになっている。この事前食事会は生徒の払いで、試験後には先生のおごりで事後食事会をおこなうのが慣例。そして試験に臨む学生には後輩から差し入れ(だいたい甘い菓子が多い)があり、また試験当日は新入生から食事の差し入れ等の接待を受けることになっている。ま、一種の「イニシエーション」だよね。
今日は初日で、午前10時からコミュニケーション理論を、そして一時間の昼食をはさんで午後2時からマスコミュニケーション理論の試験。うちの院では日曜をはさんで金曜日と月曜日に試験を行うのを伝統としており、したがって来週の月曜日にマスコミュニケーション調査方法論と選択科目の試験を行う。コミュニケーション理論はなんとか及第にまで持ち込めると思うが、マスコミュニケーション理論が合格するかどうか少しく怪しい。マスコミ理論の設問はおおかた見当がついていただけに悔やむなあ…。こうやって試験が終わるたびに、もっと勉強しておけば良かったと反省するのであります。
韓国国会では日本の植民地支配に協力した「親日行為」を究明する法案を賛成多数で可決したらしい。さいきんの日本政府の「好ましからぬ」態度への反発でしょうか。あるいは韓国の自浄運動なのかな。今日は風がとても冷たかった。
韓国語「コッセム」とは「花冷え」のこと。「雨水」の頃はとても暖かかったのに、一昨日あたりからソウルはまた冷え込んでますなあ。今日も朝から雨で、夕方には一瞬雪になりかけた。『陰陽師』を読んでから陰暦が気になって、今度の庚申はいつなのか調べたりしている。韓国は陰暦がまだまだ通用する社会で、旧正月を祝うのはもちろん、誕生日も陰暦を用いる場合が多い。梨大の院生Y嬢の誕生日はめずらしく陽暦を使うが、彼女は潤月の生まれで、陰暦のままではなかなか誕生日がまわってこないからだそうな。ちなみにわたくしは陰暦では2月13日生まれになるので、今年の陽暦誕生日は3月3日ですな。
つまり卒業式です。入学式と卒業式の日は地下鉄の駅から学校にいたる道筋に花屋が出店をだして、色とりどりの花束を売ります。キャンパスの中では写真屋が徘徊して、家族連れや友人を連れた卒業生の記念写真を撮影します。うちの科からは10人の卒業生を出し、夜は卒業生と先輩・後輩が集まってささやかな宴会を開きました。
3月の総合試験にむけての勉強が白熱。なにしろこの試験に合格しないと卒業させてもらえないからたいへんだ。今回はコミュニケーション理論とマスコミュニケーション理論、そしてマスコミュニケーション調査方法論の必修3科目を受ける。前回は選択科目であるドラマ分析論ひとつだけだったので準備に余裕があったが、3科目となるとかなりきついっス…。今回、試験を受けるのは9人で、みんなで集まって勉強会やってます。
一山のKの経営する店が焼けた。火元は隣の店でけっこう火勢が強かったらしく、隣はほぼ全焼。Kの店は焼け崩れはしなかったけれど、店内は煤と石油系の匂いでとても営業できるような状態ではないという。さいわい人死にやけが人は出なかったものの、店のわきで飼っていたグレートデンが親子ともども焼け死んだ。焼けた店のすぐわきにある、昨年の春に新装開店したピザ専門店は無事だったのは不幸中の幸いか。物的にも精神的にも立ち直るのに時間がかかりそうだなあ。
正月連休を部屋にこもってアルバ(韓国でアルバイトの意)ですごした。さっさとアルバを終わらせて、三月の総合試験にそなえて勉強しないといけませんからな。ま、外も寒いしね。ところで、大学生のアルバと言えば家庭教師。韓国では「カウェ」と言ってますが、これはおそらく「課外授業(カウェスオプ)」からきたんでしょうな。いまこのカウェが問題になっております。鍾路の近所の警察署ではおっきく「不法学院、高額課外摘発」と横断幕をあげてました。梨花女子大のY嬢は、江南の高級住宅地近辺では高い合格率を自慢する学院(つまり予備校)がわが世の春を謳歌しており、あるいは大学生でも分不相応?の高額課外授業で稼ぎまくっていると言ふ。子息を良い学校に入れようという親心が加熱してのことだろうが、警察が横断幕を掲げて取り組むほどのことかと思うのですがのう。ところ変わればでなんたらで、韓国もいろいろあっておもしろいわぁ。
昨日からえらい冷え込んでいる。二重窓の外窓のガラスや玄関ドアの内側には霜がついているが、これはソウルに暮らして初めての経験だ。ベランダの洗濯機につないだホースは既に凍って水が流れない。夜になって大家から、水道が凍るといけないので水を出しっぱなしにするようにと指令が下った。以前は二階に住んでいたので気温がどんなに下がっても自分が寒い思いをしないようにすればいいだけで、水道のことなど気を使うことはなかったが。しかしオンドルの温水配管を凍らすと床をめくるおおごとになるので、大家が心配するのは当然だな。凍てつくソウルから新年のご挨拶をもう一度。あけましておめでとうございます。(@^^@)
一山(イルサン)のNちゃんを訪ねる。彼女の三人の娘が使うコンピューターのメンテナンス。それぞれの個人ファイルをバックアップして、OSをインストールしなおして各種設定。そして個々人のファイルをもと通りにしたらとんでもなく時間がかかっちゃった。ま、作業の合間にピザを食べたりコーヒーを飲んだりしているんだけどさ。ここ一山の「オルト」本店のピザはけっこういけまっせ。それにしてもこの間に3台のコンピューターをメンテして、じぇんじぇん勉強が手につかんなあ。ウェブサイトのメンテナンスもいっこうに進まないし…。
今日は院の学生たちと一緒にW教授の家で食事をした。10時に大学の研究室で待ち合わせしたものの、時間通りにやってきた者はわずかに2人。残る5人は10時を過ぎて三々五々やってくる。毎度のことだが、院生どうしでどこかへ出かけるときに時間通りに集まって出発したことはただの一度も無い。約束時間を知らせた学生が、集合時間の10時にはまだ寝床の中にいたというからたいしたものだ。80年代後半は時間を決めても2時間ぐらい平気で遅れてきたがものだが、それに比べれば少しは進歩したのか?W教授の家はソウルから少し南へ下った果川(クァチョン)にあり、我々は2台の車に分乗して雪の降る中を向かった。W教授宅ではいろいろな料理でもてなしを受けた。明日は一山でピザだあ。
ここ数日日中の気温は零下5度から零下8度あたりで、ずいぶん冷え込んでいる。しかし寒いからと言ってあまり着込むと暖房の効いた地下鉄やバスの車内では汗ばむ。外を歩くときは少し寒いくらいにしておかないと寒暖の差で風邪を引くことになる。外出は日没までにして、夜は部屋で勉強だあ。このあいだ苦労してセットアップしたY嬢のパソコンはやはり不調で、新しいのを買うことにしたらしい。古い機械は使いこなしが難しい…。
院生の祖父が亡くなったとの掲示が研究室に掛り、木洞梨大病院の霊安室へ通夜に出かけた。この頃の韓国の通夜はおおむね「サミルチャン(三日葬)」で、三日間にわたって故人に縁の人々が入れ替わり立ち代わり訪れて故人に挨拶し卓について食事する。昔は五日間、あるいは裕福な家ではもっと長く通夜を行ったという。これで韓国の通夜は3回めだが、いずれもあまり深刻な雰囲気では無かった。どれも故人が高齢で、いわゆる大往生の部類に入るからかなあ。
朝からどんより曇っていたが、昼になる頃から雪が降りだした。一山(イルサン)のK宅を訪問して昼食を一緒に。Kはピザとスパゲティの店を営んでおり、遊びに行ってはいつもご馳走になる。それにしてもここ数日間部屋から一歩も出ずだったから今日の外出はとても新鮮な気分だ。夜はK教授と教授の担当した授業の受講生一同で食事会。西江コギチョンで焼肉。
Y嬢のコンピューターの調子が良くないと言うので墨洞にあるY嬢の家まで出向く。墨洞は今でこそ地下鉄7号線や6号線が開通して便利になったが、それ以前はバスの他には交通手段の無いちょっと辺鄙な所だった。Y嬢の家は泰陵(テヌン)入り口駅から歩いて10分ほどのところだが、昔は泰陵と言えば「郊外」になり、遠足のメッカとして知られた所だと言う。Y嬢の暮らす川べりの一角は昔の住宅街の趣を残しているが、しかし表通りは高層アパートの並ぶありふれた町並みに変わっている。ところでY嬢のコンピューターはあちこち痛んでいるようで予想外に手強く、持ち帰って作業することに。
今日は一日中部屋で勉強。この3月に試験を行うコミュニケーション理論とマスコミュニケーション理論、そして調査方法論の3科目を復習するのだがうまく頭が回らない。忘れていることも多く先が思いやられるぜ。前学期の授業「パフォーマンス・スタディ」は念願のA+を得た。院の授業では始めての「特上」。これわ嬉しひ。
深更に粥を食べる。七草粥は望むべくも無いのでレトルトの梅粥だが旨かった。昼近く研究室へ顔を出す。部屋はきれいに片付けられていてあっと驚く。部屋を散らかすので先輩連中からちと疎んじられていた昨秋の新入生が気を利かしたようだ。やればできるぢゃないか。そうこうしているうちにこの春から通う新入生が挨拶に来る。こうしてどんどん顔ぶれが変わって行くのか。あの日本人留学生は三年もいてろくな論文も提出できなかったと言われては癪に障るので、今年はより一層勉学に励もうと思ふ。請う応援。
朝7時前に母に送られてソウルへの帰途に就く。奈良も暖かかったが、ソウルへ着いてみればここもまた異様に暖かい。空港から一山の店に向かい、ムーランという底の抜けたバケツ様の調理器具を届ける。ちょうどKが兄姉たちと一緒に食事をしていたので同席する。さて腹もくちたし新亭の我が家へ。いま住んでいるここが一番落ち着くなあ。(@^^@)
明日はソウル。うちは父も母も存外に元気でとても嬉しい。嫡子が放蕩できるのも父母が健康でいらっしゃるおかげ。特に父は糖尿を患ったにしてはちと食いすぎの感があるほどよくお食べになる。こちらもつられてこの間やや食いすぎた模様。それにしても、父にはソースや醤油の類は少々控えめになされるのがよろしいかと思える。歳をとると味覚が鈍るらしいですな。夕食の後『陰陽師』を読んで静かに過ごす。3から11まで、店の棚にあったのを全部買ったのだよ〜ん。Y嬢へのみやげ用に韓国ドラマの紹介本を一冊買ったが面白いかな…。
Fの家に恒例の年始まわり。いつものように話がはずんで午後5時頃まで長居をする。Fの親父殿は病に臥せって既に4年近くになろうかと思う。それなりの苦労ありか。Kの親父殿が亡くなったとF。この正月は喪中らしい。そのせいでKの家に電話しても誰もいないのか?Fと別れて生駒駅へ、Jと会って近鉄線長田の蔵寿司へ。さすがに正月、それも日曜の夕方とあって店内は客で一杯。Jと寿司を摘みながら四方山話に花を咲かせる。食後は隣のミスタードーナツでコーヒーを飲みつつまた四方山。8時頃家に戻る。
11時に京橋でクルスタシアと会う。ミスタードーナツでコーヒーを三杯おかわりしつつソウル公演の際の思い出話など。S嬢の徘徊譚にはちょっと驚いたな。彼女達は3月24日に青山円形で舞台を持つとのこと。東京で会う約束をして別れる。午後3時にハントモのT氏と環状線野田駅前ミスタードーナツで会う。T氏によると大阪市は野外劇場を建てるらしいが、あてがわれた空間での公演は「野外演劇」ではないとのこと。ハーバーマスの言う「公的空間」と野外劇場あるいは野外演劇を結びつけて誰か論を立てられないか。話がはずんでドーナツから近所の中華屋に席を移し夕食をごちそうになった。ところで、T氏の話で大阪環状線が環状になったのは最近(東京オリンピック)のことだと知った。大阪生まれだが大阪のことは殆ど知らない私…。『陰陽師』2と3を買った。この漫画はなかなかおもしろいぞ。
妹夫婦を送り出して、駅前まで散策。さすがにあいているのはコンビニくらい。町内をぐるっとひとまわりして、何か変わったことはないかと点検。むかし松林に囲まれて水を湛えていた溜め池は既に涸れており、公園にするという話があるらしい。池の脇にあった市場は一群の建売住宅に変身。公民館の向かいにあった貧相なコンクリート造りのアパートは壊されてこぎれいな住宅に代わっていたが、あんなアパートに暮らしたのでは絶対にうだつが上がらんな。無くなってさっぱりしたでぇ。ところで、小学生の頃に私が二度死にそこない、その後に近所の人が溺死した溜め池が見当たらない。母に池のありかを尋ねると、とうの昔に埋められたとのこと。母の話によると池のあったあたりで一軒だけ、不吉にも何度も建て替えられている家があるらしい。その家はおそらく死人の出た、あの池の上に位置しているのだろう。それにしても二度も落ちてよく助かったもんだす。運が良かったとしか言い様が無いな。
今年こそはK嬢の言うとおり「良い一年だったね〜」と言える年にしたいものだが、世情は騒がしい。明らかにおかしいと思える方向に向かっているようなのだが、誰も気がつかないのかそれともこちとらがヘンなのか?元日の今日は一日を部屋で静かに過ごす。夕方、妹が旦那をつれて里帰りしたので家族一緒に食事。賑やかでよろしい。
去年の日誌
トップページへ